Q)
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美術学校などでの専門教育を受けて美術家になられたわけではないようですが、つくりはじめたきっかけを教えていただけますか?
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堀尾)
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芦屋市立美術博物館への作品搬入
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小学校5年生のとき放課後、友だちと学校でかくれんぼをしていて、図工室に隠れた。その時、図工の担当の喜岡先生にみつかってしまった。たまたまそれがきっかけで先生に印象派などの画集を見せてもらったりして、いろんなことを話すようになった。でも、画集に描かれたものは自分にとっては面白くはうつらなかったんです。僕はすごくゴンタ坊主(きかんぼう)でね。喜岡先生の授業のときに、枯れたイチジクの木を描いたことがあった。それを先生はほめてくれた。驚きましたよ。僕が枯れた木を選んだのは、先生をちょっとからかうようなつもりだったんですから。その次は、トイレを描いたんです。また褒められた。何でや?と思いましたよ。
当時の小学校には、校長先生だけが通る廊下があってね。両脇に陳列ケースがあって、各学年一枚ずつ絵が貼ってあった。そこに僕の絵があるのを友だちが見つけたというから、僕もこっそり見に行ったんです。でもね、友だちには「僕は堀尾貞治だけどあそこには“定治”とあるから、僕のやない」と言ったんです(笑)。 |
Q)
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美術をずっと続けていこうとその頃から考えられていたのですか?
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堀尾)
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中学に入ってから図工部に入ったんです。で、中1の夏休みに喜岡先生に絵を見せに行った帰りに、運動場を横切っている途中で「一生絵を描いていこう」となぜか思ったんです。そのことは今でもはっきり覚えています。弟は大学へ進学したんですが、僕は高校・大学へは行かずに三菱重工の養成校に入った。状況が許さなかったこととかあるんやけど、やりきれないものがありました。それでも、なんとか続けて頑張っていこうと思いましてね。
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Q)
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具体美術協会に入られたきっかけは?
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堀尾)
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芦屋市立美術博物館
「震災と表現」展 会場風景
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18才のときにある2つの団体の公募展に出品して、どちらも入選しましてね。団体がどんなものかも事情を知らなかったので、隣でやっている公募展にも入選した、ということをしゃべったんです。そしたら、えらく叱られてつるし上げにあいまして。それからは、その手の団体とかかわりをもつことは二度とありませんでした。
次の年に「芦屋市展」に出品した。あれ以後、ずっと今でも出品しているんですが。あのころ、ちょうど具体の発足メンバーも出品していて、私も初めて出したにもかかわらず入選したんです。吉原(治良)さんに出品作以外にも作品があれば家に見に行ってもいいか?と聞かれたんですが。「用事があるから」と、とっさに嘘をついてしまって。他にはそれらしき見せるものがなくってね(笑)。
大きく何かに奮い起こされるということではなくて、気が付いたらやっていたという感じですよ。でも、芦屋市展に出すようになって、いい人とめぐり合う機会が増えましたね。ネオダダの人との交流もあったり。世界的な作家もどんどん集まって来ていた。彼らの横にいると自信につながっていくんです。何も知らずにしゃべっていた相手がイサム・ノグチさんだったりして。毎年、京都のアートスペース虹で個展を正月にやっているんですけど、見に来てくれはったりしてね。ベンとも仲良くなって調べものに協力したり。 |
Q)
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では、具体に入られてからは順風満帆にこられたということですか?
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堀尾)
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いやあ、そんなことはないです。やっぱり、落ち込んでいたときもあったり。30年前になりますけど、75年に、松谷(武判)さんが来い来いと言ってくれるんで、坂本(昌也)といっしょに貧乏旅行でしたけど、パリに行ったことがあるんです。日本にいると、雑誌などの論評に作品が影響されたりしたんだけど、パリに行くと、ミニマル、フォーヴなど各々を専門とする画廊が分かれていて、驚きました。それをみて、自分の生き方を通していったらいいんだなぁと思いました。
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Q)
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パリの自由な状況を見て自信をつけて帰って来られたんですね。
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堀尾)
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パリから帰って、個展をしたときに、菅井汲さんが来てくれはってね。いろいろ聞きたいことをきいていったら、「君のやっていることはそれでいいんだ」と言われて「よっしゃっ」という気になりました。
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Q)
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30年前というと、具体の解散後ですね。
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堀尾) |
「震災と表現」展 野外に展示された作品
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72年に具体は解散ました。具体の元メンバーでも、白髪(一雄)さんや元永(定正)さんたちは、ひとつのスタイルをかためていかれたと思うんです。一方で、村上(三郎)さんや嶋本(昭三)さんは少し違っていた。村上さんとは一緒に美術のことなど語り合いました。村上さんがね「人間がやっている佇まいは結果を求めようとすることが多いが、美術というのは連続の広がりを高めていくだけで未完のものでいい」ということを言ってました。僕もそうだと思うんです。だから、“かたち”に進む人もいたけれど、「まだまだ、これから」ってね(笑)。
村上さんの言う通り、人間は習性として形や方法にとらわれがちだけど、それはまずいんですわ。日常生活とどこかでいっしょでないと困る。
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Q)
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それが、堀尾さんの作品名にもある「あたりまえのこと」ですか?
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堀尾)
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いや、「あたりまえのこと」は空気のことなんです。79年頃にノイローゼ気味で不眠症になっていた。とても精神的につらい時期でね。会社の友人がある新興宗教を信じていて。そこに連れていかれたんです。でも、僕はそんなものに興味はなかった。だから、その教会の人にもいろんなことを言ったりした。するとね、その人が「鼻と口と目をつむって、そこに横たわってみろ」と言うんです。「そんなことしたら死ぬ」。そう言ってはたと思ったんです。空気がなかったら僕らは死んでしまうことを。空気は見えへんけど、見えへんものを見えるようにするために、色を塗っていこうと。
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Q)
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なるほど…。
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堀尾)
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85年のアンパン(京都アンデパンダン展)にパレットの作品(いまでも毎日塗っている)を出したのが、具体的にははじめやけどね。絵はそのときにやめたんです。形ではなくて、どう生きるかが重要。何をやったかってええと思うんです。僕もわからんかったから、作ってきたんやろな、と思う。
今ね、ワタリウム美術館の「GAME OVER」展(1999年11月12日〜2000年4月9日)で、毎日、壁に色を塗っていってもらっているんです。僕は毎日、東京まで行けないから向こうの方に。色が違うというのは、空気が違うっていうこと。だから、空気をつなぐ作業をしているんです。
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Q)
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いまは、まったく一人で活動されているわけですよね?
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堀尾)
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グループでの活動も「具体」以降もいろいろ参加してきたけど、視野やコンセプトがある程度は一定でないとやりにくいこともあるね。でも、時間が流れるように淘汰し、整理されていくものなんやね。いろんな人が集まっても淘汰される人もいる。木が育つときに枝葉が出る。知らんうちに、作ろうと思っていなくても、枝葉が出て、時代がつくられていく。誰かが言ったから出来るのではなくて、自然になるようになっていく。
思いの丈、贅沢に生きたい。でも、なんとかなっていく。
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Q)
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やりたいことが出来ているってことですね。
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堀尾)
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有り難いことです。
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Q)
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それにしても出品されている展覧会の数が多いですよね。現在でも同時に4〜5本
に出しておられますよね。それもだいたいが新作で。
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堀尾)
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この20年くらいは、(展覧会を)だいたい年間百くらいやってきているかな。最近は少し減ってきたけど。額縁も何もいらない。空気だからやってこれたんでしょうね(笑)。他の人は出来ないかもしれませんよね。
プッシュピン二本だけ、という個展もやりましたよ。プッシュピンのうえに白色を塗り重ねていっているんですが。そういう仕事は時間をフィードバックさせるんです。こういう仕事をやらないと自分がもたないんです。
震災の一年後にグループ展に出したときも、ムシピンを一本だけ壁に差したんです。展覧会の前にたいそうに会議を重ねて、いろんなことを決めようとしていたんです。なんていうのかね。焦点や狙いは落ちてくるんです。本来、こういうことが楽しさや贅沢なことだと思います。
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Q)
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皆さん驚かれたでしょうね。
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堀尾)
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芦屋市立美術博物館での展示風景
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あかんほうがね、“スカ”のほうがええと思っているから。こんなふうに思えるまで時間がかかったし、若い時は違った。でも、今はね“スカ”食ろとこって思っているんです。
自分がやってきた分だけ出合いもあって、うまく噛み合うようになっている。“スカ”食らうほうが広がりが生まれてくる。これはね、やった人にしか、体験した人間にしかわからんことやけど。“スカ”食らうのはツライ。でも、そこから広がっていく。
芦屋(芦屋市立美術博物館)の展示もね。なりゆきでね。迷ってないから、うまいこといった。時間があったらあんなことでけへん。「忙しい奴にものを頼め」って昔から言うでしょ。時間のないやつは、本質があってイキイキしている。それは真理やと思う。
2000年1月26日(水)晴れ、神戸市兵庫区の堀尾さん自宅にて
取材・構成/原久子
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パフォーマンスのはじまり
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絵の具や墨汁などをつかい
手で直接ドゥローイングを
はじめる
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袋のなかから紙切れを
あたり一面にまき散らす
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展示物のガレキを
蹴散らしはじめる
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堀尾貞治パフォーマンス
2000年1月15日
「震災から5年 震災と美術−1.17から生まれたもの」兵庫県立近代美術館にて
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