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9月28日から10月1日の4日間にわたって、「トランジション――変貌する社会と美術」と題された国際会議が東京・青山のスパライラルホールにて開催された。全4日間のプログラムのうち、私が参加する機会を得たのは3日目の午前のセッションと最終日の公開シンポジウムのみであり、この会議の全容を把握しているわけではないのだが、2日間のプログラムのうちでも多くの問題が提起され、また私なりに思うところもあったので、以下にその所感を記すことでこの国際会議のレポートとしたい。 |
コンテナシップ作品
「A House Is Not a Home」を紹介し、
インターネットをメディアとして
直接的に活用しようとする試み
について報告する森司氏 |
さて、3日目のセッションは「インターネットに向かって−新しいテクノロジーと美術の非物質化」と題された論文発表だった。10人の発表者が、一人あたりわずか20分の持ち時間で次々と発表をこなしていく慌ただしさと、司会や同時通訳のよどみなさは何とも対照的だったが、性急さゆえ消化不良気味な進行のうちにも、いくつか示唆に富む見解が問われていたように思われる。
極めて多岐にわたる論点の中で、多くの論者に共通していたのは必ずしもメディアアートの今後を楽観視していないことだった。例えばこの日トップバッターを務めたB.グリュックスマンは「ヴァーチュアル時代のアート」と題した発表を行い、現状に対する懐疑を表明している。 |
インターネットが普及して以来、「ヴァーチュアル・ミュージアム」が喧しい昨今だが、グリュックスマンはベンヤミンやヴィリリオを引き、敢えて「ヴァーチュアル」本来の語義に立ち返ろうとする。「グローバル」と「ローカル」、「現実」と「シミュラクル」、「ヒューマン」と「ポスト・ヒューマン」等の二項対立は、いずれもアクチュアル/ヴァーチュアルの二元性へと回収されるものであり、ヴァーチャルなものに適切な位置と評価を与えるためには、ベンヤミンが提出したアウラ概念のような「新しい流動化の論理」が必要なのだという。時間の制約もあり、グリュックスマンがデュシャンにまで遡って考えているらしいその分岐点にまで話が及ばなかったのは残念だが、少なくとも彼女が示した原理的思考と批判の姿勢は、「ヴァーチュアル・リアリティ」に浮かれる多くの関係者に欠落したものだろう。そしてそれは、インターネットをむしろ近代絵画や北斎などの再解釈に活用しようとする中村英樹にも共通した姿勢であった。 |
一方で、具体的なケース・スタディとして興味深かったのが森司の発表である。メディアアートの情勢のなかから台頭してきた新しい作家や動向を肯定的に評価していこうとする森の姿勢は終始一貫しているが、作家の選択が適切なこともあり、その発表はかなりの説得力を持って受け入れられたはずだ。これには、森のキュレーターとしての経験も一役買っているのだろう。森が今回紹介したのは、いずれも彼が水戸芸術館の「クリテリオム」で紹介した二人の若手作家・八谷和彦と森脇裕之で、八谷はコンピューターを介した人のコミュニケーションの在り方を、森脇はギャラリー・スペースでの展示とネット上のヴァーチュアル・フィールドを連結させた試みを、それぞれ鋭く問う作品であることが了承された(このうち八谷の方は、世田谷美術館での展示が今回の会議のエクスカーションに組み込まれていたので、実際に鑑賞したパネラーもいたはずだ)。 |
コンピューターを介した
コミュニケーションのあり方を
作品として構造化(システム化)した
「ポストペット」が紹介された
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そしてまた、現在進行中のプロジェクトとして紹介された「コンテナシップ」も、同様に興味深いものだった。今やネット上に展開されている「ヴァーチュアル・ミュージアム」は少なくないが、この「コンテナシップ」はプログラマーやグラフィック・デザイナーが開発制作にあたっているコラボレーション色の強いプロジェクトであり、またすべてのアイデアがネット上に集中するように徹底されている。その巨大な容量を大洋を航海する「コンテナ」に例えた比喩が伝えるとおり、どうしても空間の制約を受ける“アクチュアル”な美術館と異なり、無限に増殖可能な「ヴァーチュアル・ミュージアム」の可能性を物語る好例と言えよう。ここ数年に限っても、ヨーロッパの「ZKM」や「アルス・エレクトロニカ」、日本の「ICC」など多くの未来型美術館が開設され、インターネットも含めたメディアアートを取り巻く環境は急速に変容しつつある。もちろんそこには多くの可能性が秘められているが、かといって無批判に楽観できるものではないだろうし、多くの議論と適切な指針が不可欠であることを、この日の発表は明らかにしたはずである。
ということで、最終日のシンポジウムにはこれらの論点を受け継いだ論論が期待されたのだが、結論らしい結論にも到達せず、残念ながら散漫な印象を免れなかった。時間の制約はもちろんのこと、個々のパネラーの“温度差”や、前半2日の論点も盛り込まなければならなかった等々の事情もあってのことだろうから、そのことをとやかく蒸し返すつもりはない。だが、この場にて一言、どうしても書いておきたいこともある。
最近のアートシーンの議論は、「制度」の問題に終始していると言っていい。最近各方面の論壇を賑わせているPCやポストコロニアリズムも、つまるところ「制度」の問題なのである。本来評論家の役割は、少なくとも美術館や美術史といった既存の「制度」の枠外から問題を提起することにあり、だからこそ「制度」の再編が進む昨今、その役割が問い直されているはずなのだが、当日のシンポジウムでも話題となったこの問題に、説得力のある解答を提示したパネラーは一人としていなかった。 今回の会議が「国際美術評論家連盟(AICA)日本総会」として開催されたものであっただけに、この事実は何とも残念に思われるのだが、いずれ別の機会にこの問題が再度検証されることを期待したい。 |
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