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「美術館とは[生きた美術]を歴史化する装置」だと、以前ある学芸員の方が発言しておられたのを思い出す。歴史もまた「生きている」存在である。語り手の視点によって幾様にも語りうる。どんな歴史を伝えるのかという問題はいかなる展覧会をつくるのであろうと常に存在するが、殊に本展が扱ったような同時代色の強い代物を相手取った場合には、またそれ相応の困難が伴う。たとえ歴史の序章を書き始めるだけと責務を限定し現在状況を生のままに呈示するのだとしても、「テーマ」なり「趣味」なりを排除して出来うる限り客観的に網羅するか、あるいはまったく逆にあくまで「テーマ」云々に固執し状況の「一断片」として押し出すのか、更なる選択を迫られるであろう。 |
アニャ・ガラッチョ
「ドア(モニカ)」1993
(c) Anya Gallaccio |
果たして今日の美術において、「リアル」なり「ライフ」なりの問題に触れずに在る作品を探す方が困難だろう。それらはテーマとして機能するにはあまりにも大きい。これはなにも英国での状況に限った事ではないが、根本的に個々人の視座においてある任意の世界観を捕える姿勢を重んじる「内発的」性質の強い英国にあってはひとしおである(そしてまさにこの要因をもってこそ、80年代末以降の「大きな理念」を喪失した美術の歴史において、英国美術が世界各地で多くの関心を集めて来たのだ)。今回の日本巡回展がこの事情に誠実であるのは明らかであったが、出展作家・作品数ともども、あまりに少ないことが唯々惜しまれる。
例えば仮に90年以降活躍している作家で、本展出品作家のフロイヤーやガラッチョと同程度に国内外で展覧会をこなし相応の評価を得ている者を数えても、優に三桁にのぼるであろう状況のなかから、ほんの12人のみを選出せねばならない制約がどれほど大きなものかは想像に難くない。 |
しかしながら、本展の図録においてこの展覧会が90-91年に日本国内を巡回した《イギリス美術は、いま》展を引き継ぐものである旨が度々言及されているのを目にするにつけ、もう幾許かなりとも歴史的文脈化と継承への試みが成されえなかったのかという期待を再燃させてしまうのは独り善がりというものだろうか? なぜ前回の展覧会以降ではなく、「主として90年代半ば以降の活動をもって」作家を選考したのだろうか? 彼の地に対し、地理的隔たりと言語上の障壁をもつ我が国において英国美術に触れる機会をつくるならば、「現状の呈示」以上に、より長い目で捉える「歴史の記述」を積み重ねていくことの方が肝要なのではないか? |
もちろん図録に寄せられた論考のいずれもが、今回残念ながら選にもれた作家の多くに言及し、様々なかたちでコンテクストを開いて全体状況を伝えようとしているのは確かだ。しかし例えば会場内の一角にリーディング・ルームを設け、より多くの作家の仕事を紹介した書籍の類を観賞者がその場で閲覧できるようにするというのは不可能なのだろうか? あるいは、様々な作家による映像作品、彼らのスタジオを訪れたドキュメンタリー映像や英国でのテレビ放送向けに制作された各種「美術作品」などを、簡素な機材と空間を用いてであろうと、日替わり上映するというのは駄目だろうか? (実際、本国ではそのように極めて「粗雑な」やり口であれ、しばしば多くの若手作家の映像を編集したものの上映を目にしたものだが)。 |
マット・コリショー
「良心の目覚め:ケイトリーン」1997
(c) Mat Collishaw, Courtesy Lisson Gallery
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ギャリー・ヒューム「ラブラブのアンラバブル」1994
(c) Gary Hume, The Saatchi Collection |
出品点数28点の内、92-93年作のものが4点、94年が4点で、その他はすべて95年以降という近作中心の構成だったが、そのなかでもウェアリングなどは、彼女の出発点と現在の双方から、自己ベストとも言える強度の高い作品が選び抜かれており、実に光って見えた一方で、初期の仕事に見られた可能性の萠芽が悲しいほど脆弱化してしまったように映る作家もあった(例えばスターなど、彼女が初期にもっていた、コミュニケーションや偶然性の問題を簡素なかたちであろうと実に密度の濃い私的かつ多層的な物語へと織り上げる仕事のきらめきは、どこへ行ってしまったのだろう?)。 |
具体的な出品作のもつ魅力への言及は既に図録において十分なされているのでここでは控えるが、何はともあれぜひ実際に足を運んでご自分の目で味わって欲しい。ある特定の場所や物体の内的な痕跡を象るホワイトリードの立体が、いかに豊かな調和をもって個々の対象にふさわしい特有の質感や色をもった素材を採択しているか、あるいはヒュームの平面において、つるつると光を跳ね返す表面として様々な色彩とイメージが出現するその様、ゴードンやハトゥームの作品がもつ厳格な存在感とそのスケール、そうした言葉や複製図版では伝わらないものを体験する稀有なチャンスなのだから。 |
ダグラス・ゴードン
「ヒステリカル」1995
(c) Douglas Gordon
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写真提供:東京都現代美術館
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