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 伝説に彩られた画業
  ――修業期〜試行錯誤期〜成熟期〜衰退期に至る悲劇
                       《安井曾太郎展》
……
村田 真

 安井曾太郎といえば、ぼくの親の世代にとっては梅原龍三郎と双璧をなす洋画壇の巨匠であり、ぼくら戦後世代にとっては、具象画の登竜門「安井賞展」の生みの親として耳になじみ(97年の第40回で幕を閉じたが)、また予備校生や美大生には、おそらく今でも“デッサンの神様”として崇められているに違いない(特に“どばた”においては)。これほど幅広い世代に名を知られた画家も珍しいのではないか。知名度においては梅原龍三郎のほうが上のようにも思えるが、戦中・戦後にかけて「安井・梅原時代」と呼び慣わされていた(決して「梅原・安井時代」とはいわなかった)事実からもうかがえるように、当時の人々はなんとなく安井のほうを上に位置づけていたのである。

 このような人気とともに、“安井伝説”ともいうべき数々のエピソードも語り継がれてきた。いわく、パリのアカデミー・ジュリアンに留学中、毎月デッサンのコンクールで賞を独占していたとか、後年“安井様式”と呼ばれるようになるデフォルメされた形態は、実は対象を正確に写し取った上で崩していった結果だとか、その下描きのデッサンは真っ黒になるまで塗りつぶされていたとか……。そのエピソードにはデッサンの正確さや執念を語るものが多く、それゆえ安井は予備校や美大で神様扱いされるようになったのだ。

 生誕110年を記念する同展は、こうした伝説に彩られた安井の画業を、「修行期」「生成期」「成熟期」「円熟期」の4期に分けて紹介するもの。この分類はいうまでもなく、美術史がそうであるように、ひとりの画家のうちでも芸術が進化発展していくものだという進歩史観に基づくものであるが、酒じゃあるまいし、芸術というのはそんなに都合よく熟成していくもんではあるまい。だいたい、初期の「修行期」(1903-14)は「修業期」といってもいいはずであるのに、あえて「修行期」としたところがいかにもデッサンに殉じる苦行僧を彷彿とさせ、“安井伝説”を増幅させているではないか。

 それはともかく、今回まとまった数の作品を見てわかったのは、安井がいわゆる“安井様式”を確立して佳品を生み出すのは、「成熟期」(1929-35)のわずか10年足らずにすぎなかったということだ。それ以前の「生成期」(1915-28)は、パリ留学から帰って日本の風土と油絵をなじませるために悪戦苦闘する時期であり、フォーヴィスム風や“朦朧体”など様々なスタイルを試していた点で「試行錯誤期」とでもいうべきである(もちろん、この時期があってこそ「成熟期」が訪れたのは確かだが)。さらに戦中・戦後の「円熟期」(1936-55)には衰えが目立ち、実質的には「衰退期」と呼ぶほかない。

 では、「成熟期」を特徴づける“安井様式”とはなにかというと、それは人物や風景を問わず、まず「対象を写実的に写したあと、形態や色彩を整理しながら単純化し、さらに対象から受けた実感をより明確に表現するため強調やデフォルメを加えるという方法」(嶋田康寛「安井曾太郎の人と芸術」同展カタログより)によって確立されたものである。その結果、鑑賞者は作者の受け取った「実感」を追体験できるというわけだ。そんなの安井に限らず当たり前のことじゃん、という人もいるかもしれないが、しかし、こと安井の作品ほど「実感」という言葉がぴったり当てはまるものもないのである。彼の最良の作品を見る時、描かれている風景やモデルを見たことがないにもかかわらず、しばしば「実物以上に実物らしい」という妙な感心をしてしまうのはそのためだろう。

 この「実物以上に実物らしい」という「実感」が、卓越したデッサン力に裏打ちされていることはだれもが指摘するところだが、と同時に、いやそれ以上に独特の色彩感覚によるものであることは、あまり指摘されてないか、すくなくともデッサンほどには重要視されてないように思われる。絵を見る時、最初に目に飛び込んでくるのは色彩であるが、安井の「成熟期」の絵は、フォルムを把握する以前にまず色彩によって彼の作品であることがわかり、その「実感」へ入っていきやすいのだ。

 その色彩の特徴を一言でいえば、様々な色に白を混ぜることで得られる濁った中間色である。この安井独特の色彩は、彼がフランスで印象派に感化されながらも、帰国後、日本の湿った気候や霞んだ風景に原色の油絵具はなじまないと痛感し、試行錯誤の末編み出した解だったに違いない。実際、彼の使う白濁した中間色ほど“曖昧な日本”の風土を見事に表わしたものはないし、原色を多用したバタ臭い梅原の絵より、はるかに日本人の色彩感覚にマッチしたはずである。おそらくそのせいだろう、安井が、風景画においては水や緑、肖像画においては和服と和室、静物画においては柿や魚といった純日本的なモチーフには持ち味を遺憾なく発揮し、それゆえ梅原以上の評価を得たのに、北京の風景、背広姿の人物、バラの花といった洋風・異国風のモチーフに関しては明らかに梅原に及ばなかったのは。いってみれば、バター味の梅原に対して、安井は醤油味の油絵を完成したのである。

 しかし、なぜ安井の最盛期はわずか10年足らずしか続かず、衰退していったのか。もちろん戦争の影響もあったろうし、眼部疾患をはじめ健康を害したことも大きかったに違いない(晩年の紫色の多用はそのせいだろうか)。だが、帝国美術院会員に任命され(奇しくも「成熟期」の終わる35年のこと)、在野の二科会から離れたことも一因に挙げられるのではないか。それによって政財界をはじめとするおエライさんから肖像画の依頼が相次ぎ、自由な制作の範囲が狭められたであろうからだ。

ちなみに同展には、そうした「円熟期」の肖像画が7点出ているが、そのうち5点までが(おそらく彼の苦手とした)背広姿である。それらは全体にパサついて生気がなく、安井らしい色彩も影をひそめてしまっている。たとえばそれを「成熟期」の「玉蟲先生像」に見られる流麗なタッチ、しっとりとした色彩と比べてみれば、違いは一目瞭然である。これは憶測にすぎないが、こうしたおエライさんは画家に思うように描かせてくれなかったか、あるいはそうでなくても、寡黙で生真面目な安井は無言のプレッシャーを感じて萎縮してしまったのではあるまいか。そして、もしそうだとするならば、安井は日本という自然風土に油絵をなじませることには成功したものの、日本人という精神風土に押しつぶされてしまったのだ、ということができるかもしれない。だとすれば、これは日本近代美術の悲劇である。


安井曾太郎展

会場:横浜そごう美術館
会期:1998年11月12日〜12月13日
問い合わせ:045-465-2111

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