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アートのタイムギャップを際立たせるナン・ゴールディン展……市原研太郎

ナン・ゴールディン

 遅すぎる。とにかく遅すぎる。これまで二、三の機会以外にはナン・ゴールディンの作品に直に接することがなく、今になってようやく彼女の個展が開かれるというのは。彼女のことを誰も知らず、また作品に人気がなかったというのではない。90年代に入って、「私生活」をテーマとする作品に注目が集まり始めた時、真っ先に取り上げられたのはラリー・クラークとゴールディンであり、以前来日した折には、トーク・ショウで明晰に自分の考えを披瀝したり、精力的に若者たちの姿を撮影したり、その作品が写真専門の雑誌で紹介されたりした。このように知名度があるのに、彼女の個展が長い間開催されなかったのは、日本のアートの特殊な事情によるところが大きい。まずグローバルとか情報化といいながらアートに関するかぎり、実物の作品だけでなくその情報に偏りがあったり、大きな欠落があったりする。その結果、アートは現実の社会的動向とずれを生じた世界のなかで営まれ、画廊や美術館で行なわれる展覧会はすでに過去となったアーティストの作品で占められることになる。最近の例で記憶に残るものといえば、ジャン=ミッシェル・バスキアシンディ・シャーマンの回顧展だろう。80年代から90年代の始めにかけて隆盛を極めたグラフィティやスペクタクルを今頃見てもまったく面白くはない。

 私は、なんとしても流行を追えといっているのではない。そうではなく、流行には歴史的、思想的な理由があり、まさに私たちの生きている時代をリアルタイムで映し出す表現を、私たち自身が必要としている以上、それを無視することはできないといっているのだ。そうした役目を放棄してしまえば、「現代」アートは直ちに消滅してしまうだろう。日本のアートにこうしたタイムギャップがあるために、私たちは、遅れてやってきた流行現象と付き合わされる羽目に陥る。最近では、アメリカで80年代後半に流行ったいわゆるシミュレーショニズムが、大体5年遅れで90年代の日本のアートを席巻した。そのため、是非とも紹介しなければならない同時代のアーティストは忘れられがちになる。ウォルフガング・ティルマンスは、こうしたアーティストのうちもっとも重要な人物だが、何年か経てば、いずれ彼も紹介されるとは思う。しかし、その時はすでに……。

 ナン・ゴールディンについても同じことがいえよう。彼女はすでに70年代から写真を撮っていた。そして、学生時代のボストンやニューヨークでの生活のさまざまな場面、セックスとドラッグと暴力にまみれた日々や、エイズ禍の残酷な運命に翻弄される人々を、記録として写真の映像に収めた。彼女は、自分や愛人や友人の身の回りで起こる、けっして戻ってこない出来事を記憶に刻み込もうとする。彼女自身がいうように、肖像写真を撮ろうとしたのではない。生活の複雑さの断片を一つ一つ積み重ねるように映像にとどめたのだ。そして、彼女の遍歴は90年代の半ばに来て一つの結末を迎えたように思われる。彼女の友人を襲ったエイズが奇跡的に解消し、彼らがその不幸な病から癒えたのではない。しかし、96年にニューヨークのホイットニー美術館で開かれた彼女の回顧展を見た時、私は、最近作に登場する生き残った人々の姿から発せられるえもいえぬさわやかさ、清々しさに触れて強い感動を覚えた。それは、長く厳しい地獄巡りをした人々だからこそ到達できる、深い悲しみを湛えた透明な心の境地ではないのか。たしかに、彼女の旅は終わったわけではない。作品をこれからも生み出し続けることだろう。しかし、私はこの回顧展の全体を通観して、彼女の人生の物語は見事に完結したと確信したのである。

 そして98年パルコギャラリーと山口県立美術館で開かれた展覧会は、この回顧展『アイル・ビー・ユア・ミラー』(300点)からの抜粋(40点と75点)とそれ以降の新作数点からなるという。しかし、彼女の写真が人生の断片の集積である以上、出品された点数は観賞体験にとって重要な条件となる。私は、パルコギャラリーの会場を回りながら、彼女の写真に収められた人物たちが、信じがたいほど美しい姿で立ち現われてくるさまを目撃した。それは、私が記憶のなかで、それらをもう一度回顧展のなかに置き戻したからであろうか。もしそうだとすれば、直ちにあの回顧展を日本でも開催すべきである。そうでなければ、日本で行なわれる展覧会は、いつまで経っても時期を逸するものばかりとなるであろう。彼女の制作した回顧展と同名の自伝的ヴィデオの最後で、彼女のHIVボジティヴの友人がいうように、人類は不滅ではないのだから、私たちは急がなくてはならないのである。


ナン・ゴールディン展

会場:パルコギャラリー
会期:1998年11月2日〜11月30日
問い合わせ:03-3477-5873

会場:山口県立美術館
会期:1998年10月16日〜11月29日
問い合わせ:0839-25-7788

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