昨年12月末、神田のときわ画廊が35年の歴史に終止符を打った。その最終展として、展覧会データと記録写真による「1964-98 ありがとう、ときわ」展が開かれた。この展覧会自体を論評してもあまり意味がないし、また、ときわ画廊の歩みを振り返ってみる余裕もないので、ここでは貸画廊というものについて思うところを若干述べたい。それに先立つ昨年8月には、やはり35年の歴史をもつ銀座のルナミ画廊が幕を閉じたことだし……。
まずは場違いを承知でささやかな反論から。
以前「アート日記」でも少し触れたように、昨年9月に発行された『LR』誌9号で、ルナミ画廊のオーナーだった並河恵美子氏が「曲がり角にきた貸画廊」と題する記事を寄せ、97年6月に行なわれたセミナー「ギャラリーの社会的役割」での私の発言として、こう書いておられる。
「司会の村田真氏から冒頭に画廊(村田註:貸画廊のこと)と呼ばれる画廊の説明がされ、その中で極端かもしれないが『貸画廊は不動産屋。現在は必要悪』との発言があった。私達は不動産屋のように単に場所を貸しているのではない」。
実はこの記事が出る前の7月、あるパーティーで並河氏にお会いした際に、同様のお小言をいただいた。その時は一瞬なんのことかと耳を疑ったが、1年も前のことだし、ひょっとしたらそのような発言もしたかもしれないと思い直して、特に反論はしなかった。しかしパーティーでの立ち話ならともかく、活字で名指しする以上は、たとえ些細なことであっても正確を期すべきである。そこで私はセミナーを主催した企業メセナ協議会から件のテープを送ってもらい、聞き直してみた。
冒頭で貸画廊を巡る状況を説明し、こう述べている。
「貸画廊を巡る功罪というのは昔からいわれてきたんですけど、かいつまんでいいますと、功のほうは、若い作家に自由な発表の場を与えるということだと思います。お金さえ払えば、そこではとりあえずなにをやってもいいわけですね。自由な発表ができるという意味では、日本の特に70〜80年代の美術にとって大きな貢献をしてきた、というふうにいえるんじゃないかと思います。一方、罪のほうですが、やはりこれは作家からお金を取るということに尽きると思うんですね。画廊といえば最初にいったように、作家の作品を売って運営していくというのが一般の理解だと思いますので、逆に作家からお金を取ってしまうというのはやはりおかしいんじゃないか、という意見はずっと以前からあったわけです。にもかかわらず(中略)いまだに貸画廊というのは需要があるわけです。需要があるということは、やはり若い作家にとって貸画廊というのは必要不可欠なものだと思うわけですね。必要不可欠ではあっても、よくいわれるのは必要悪という言い方ですね。必要だけどよくない、よくないけど必要だ、そういう言い方で貸画廊というのは語られてきたわけです」。
確かに「必要悪」といっているが、弁解がましくいわせてもらえば、これは美術界ではごく当たり前に語られてきたことであり、そうした美術界の一般的な認識を披瀝したにすぎない発言なのだ。だから私の発言としては「現在は必要悪」ではなく、「昔から必要悪といわれてきた」とするのが正しい。
正直いって私自身、この「業界」に入って作家たちから「貸画廊には功罪両面がある」とか「必要悪だ」といった批判を聞いた時、その厳しい見方に面食らった覚えがある。しかも、そのように批判する作家たちこそが貸画廊を支えていたのだから歪んだ構造というほかなく、そこに貸画廊を巡る問題があるのだ。おそらく当時(70〜80年代)の作家たちは、作品を発表したくても貸画廊以外に発表場所はほとんど閉ざされていたのだから、次善の策として「やむをえず」高い金を払って貸画廊を借りていたと考えるべきであり、そうしたいらだちが「必要悪」という言葉を吐かせたのだろう。そんな批判的な見方が根強くあることを、20年近くも画廊のオーナーを務めてこられた並河氏が知らないはずはないし、もし知らなかったとすればそれこそ問題である。
また「貸画廊は不動産屋」という発言は、少なくともテープを聞いた限りでは(後はノイズが入って聞き取り不能)私ではなく、企業メセナ協議会側から出席した加藤種男氏の発言である。彼はこう述べている。「さっき貸画廊ってのは作家からお金を取っておかしいみたいな、まあ私もそう思わなくもないですけども、不動産屋か、スペースを貸してんだから、アパートの管理人かと思ったりするんだけど……」。
もちろんこれは加藤氏独特のレトリックであり、悪気があっての発言ではないことはいうまでもない。
従って、私が発言したとされる「貸画廊は不動産屋。現在は必要悪」とのフレーズは、並河氏の誤解と記憶違いに基づくものであった。
急いで断っておきたいのだが、70年代後半からルナミ画廊を見てきた私は、83年の日豪交流展のころから並河氏の活動には格別の敬意を払っており、また影ながら応援してきたつもりでもある。それゆえ先のパーティーの席上で並河氏は、「村田さんならわかってくれていると思ってたのに」といわれたのであろうが、しかしながら私は、個々の画廊の努力も少しはわかっている反面、貸画廊全般に対する批判があることもわかっており、そのことを「並河さんならわかってくれていると思ってたのに」。
おそらくこの記事を書かれたころ並河氏は画廊を閉める直前だったため、いささか過剰反応されたのではないか。それにしても、並河氏はこのセミナーに私や加藤氏らとともに壇上に並んでいたパネリストのひとりであり、なぜその場で反論せずに(加藤氏に対しては反論されたが)、1年以上たってから恨みがましく蒸し返すのか、不可解ではあるが。
あー、とりあえずスッキリした。でもこれだけではちっとも建設的ではないので、もう少し前向きの話をしたい。
ルナミ画廊にしろときわ画廊にしろ、35年もの歴史をもつ老舗画廊が相次いで幕を閉じるというのは、やはりただごとではない。これがいわゆる企画画廊であれば、不況の波をもろに被るので閉廊もやむをえないところだが、景気に比較的左右されにくい貸画廊が消えていくというのは、不況とは別のなにか大きな要因があるに違いない。前述のセミナーの冒頭で、私はいくつかの要因らしきものを挙げた。
まず80年代末期、バブル景気の追い風に乗って企業が若手作家の支援を始めたこと。具体的には、無料でスペースを提供する企業ギャラリーの開設や、多額の賞金を用意したアートアワードの増加である。わざわざ金を払って貸画廊を借りるよりずっと魅力的であることはいうまでもない。また、同じころ急増した公立美術館が企画展で若手作家を取り上げるようになったこと。これは裏返せば、美術館がようやく時代に追いついてきたということだ。同様に、企画画廊も若手作家を取り上げるようになり、特に90年代に入って若手画商が続々と店を開いて、自分と同世代かそれ以下の作家を扱うようになってきたことも大きい。いってみれば青田刈りである。
その一方で、作家の側の意識も変わりつつある。それまで作家になるためには、まず貸画廊で作品を発表し、そこで認められれば企画画廊、美術館へとステップアップしていくというのが暗黙の「出世コース」だったのに、そのオーダーが崩れ、必ずしも貸画廊が作家への第一歩だとは考えなくなったのだ。さらに、貸画廊を借りるくらいなら路上でも自宅でも展覧会を開こうという傾向も見られる。
要するに時代が変わり、貸画廊の存在意義が以前より薄れてきたということにほかならない。以上述べてきたことは実は、セミナーの直前に『月刊美術』(97年7月号)に書いた「揺れる貸画廊」と題する記事に基づいている。その記事の最後に私は、貸画廊の今後の展望として次のように書いた。
「さて、21世紀に貸画廊は生き残っていけるだろうか。もし生き残る道があるとすれば、この10画廊(註:ルナミ画廊を含む「新世代への視点―画廊からの発言」展の主催画廊のこと)のように若手作家の才能を伸ばすとか、現代美術の基礎を固めていくといった目的意識を明確に打ち出し、非営利な側面を積極的にアピールしていくことだろう。それは貸画廊の社会的意義を確立させることでもある。そして、その意義が認められれば、つまり社会が貸画廊を必要とするなら、公私にわたる援助も得やすくなるだろうし、またそれによって、作家から取るレンタル料を最小限に抑えることも不可能ではなくなるはずだ。換言すれば、これまで『必要悪』などといわれた貸画廊のイメージから『悪』の要素を取り除いていくことである」。
ところで、並河氏も『LR』の記事の中でひとつの提案をされている。
「いくつかの目的を同じくする画廊が一つのスペースを確保して、今までの経験を基礎に、より開かれた運営方法で若手作家の育成を行なう。オーストラリアでの実情を記したが、非営利アート・スペースと貸画廊がドッキングしたようなものを設けるのはどうだろう? 日本現代美術の基礎作りを目的とするが、美術館、画廊、学校、福祉機関の要素を併せもつようなセンターで、オルターナティヴな考え方で社会に根をおろす場とする。公的な機関の設立を要求するのは、今の日本では現実性に乏しい。ニュートラルな場所として、個人や企業、公的な支援を取り付けて予算を確保し、年間のスケジュールを組み、収支を含んだアニュアル・レポートを出版して活動を公にする。一企業や個人のものにしないことが重要だと思う」。
並河氏のほうがより具体性があるとはいえ、両者の主張に大差はない。というより、若手作家の育成と現代美術の基礎づくりを目的とすることや、非営利で社会に開かれた活動を行なうこと、公私にわたって援助を得ることなど、ほとんど同じことをいっているのだ。それもそのはず、私はルナミ画廊をはじめとする貸画廊からこれらのことを学んだのだから。 |