ところが今回「大ザビエル展」を見て、驚いてしまった。まず驚いたのは、ザビエルを描いた絵の豊富さであり、しかもそれが西洋人の手によるものであることだ。確かにザビエルは、暗記してもソンはない程度には日本史を彩る人気キャラクターのひとりではあるものの、しょせんキワモノ。西洋人から見れば、いかに宣教のためとはいえ、ほとんど未知の極東くんだりにまでのこのこ出かけていった腰の軽い風変わりな坊主くらいの認識しかなかったのでは、と思い込んでいた。
ところがどっこい、なにがどっこいだ。ザビエルは生前からヨーロッパでは日本以上に有名人だったのである。とくに1552年の死後、その肖像画や伝記が出回るようになってからますます人気に拍車がかかり、1619年に福者に上げられたころには、いわば「列聖プロジェクト」として生涯のハイライトシーンが制作され、その努力のかいあってか、1622年には聖人に列せられることになる。有名画家では、ルーベンス、ヴァン・ダイク、プッサン、ゴヤもザビエル像を描いているから驚きだ。いや、知らなかったのは筆者だけかもしれないが。
で、前述の神戸の「聖フランシスコ・ザビエル像」に戻るが、これは、1596年に刊行されたトルセリーニによる伝記『フランシスコ・ザビエルの生涯』に挿入された肖像版画に影響を受けたものだという。つまりこの絵は、挿絵の版画をもとに描かれたものだったのだ。どうりで画風が平面的でぎこちないわけだ。もっとも、江戸時代の洋風画だって多くはオランダの版画をもとに制作されたのだから、これは驚くにあたらないが。
でももっと驚いたのは、西洋人の描いたザビエル像の迫真性である。繰り返すようだが、ザビエルといえば我々日本人には先の絵に見たような、平面的で動きの少ない中世的なイメージしかなかったのに、同展に出品されたザビエル像の多くは奥行きや陰影も豊かなバロック様式で描かれ、大仰なポーズで表わされているのだから。これはもちろん、版画から起こした醤油味の洋風画と、本場ヨーロッパのソース味の油彩画の違いもあるが、同時に、ザビエルの生きた16世紀前半と、ザビエル像が大量に描かれるようになる17世紀前半の時代的な落差もあるだろう。つまり、ザビエルが生きた時代にはいまだ中世の面影が残っていたのに、その像が描かれた時代はすでに近世に入っていたということだ。このイメージのギャップは、たとえば日本のお寺にロダンの「考える人」が鎮座しているような、見てはいけないものを見てしまった時に感じる居心地の悪さがある。やはり戦国時代に来日したザビエルには、バロックではなく中世的なイメージが似つかわしい、と思うのは日本人の身勝手だろうか。
さらに驚いたのは、彼らの描く日本の情景である。ザビエルの生涯のハイライトを描くなら当然、日本での布教の様子をメインにしなければならない。しかし彼らは日本に行ったこともなければ、まだ日本の情報もほとんど入ってこなかった時代なので、想像だけで極東の国を描き出すしかない。そこでとんでもないことが起こる。なかでもおかしいのは、「日本の大名に説教する聖フランシスコ・ザビエル」と題する2点の作品。1点は、ザビエルを囲む日本人全員が法衣を着けた坊主頭の僧侶姿で描かれている。しかも舞台は重厚な石づくりの建築で、彼らは椅子に座っているのだ。でもこれはまだマシなほうで、もう1点となるとどこが日本なのかさっぱり見当がつかず、ペルシャあたりのスルタンとの会見図といった趣だ。
また、川崎展には出ていなかったが、カタログには掲載されているヴァン・ダイクの「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」になると、もう爆笑もの。だって、黒髪のザビエルより大名のほうが、顔も衣装もポーズもギトギトの白人なんだもん。おまけにその背後には黒人の家来が控えてたりして、いったいここはどこやねん!
ともあれ、この「大ザビエル展」、従来のザビエル像を覆すだけでなく、当時の世界地図や南蛮屏風、踏み絵や聖遺物入れなども出品され、東西や時代のギャップを感じさせる、というより楽しませてくれるに十分の厚みを持った展覧会である。カタログも図版や論文が満載で充実している。
各地を巡回するので、お見逃しなく。 |