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 絵画の仕掛人、福田美蘭の複製芸術
           福田美蘭新作展[Prints]
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嘉籐笑子

会場風景 右手中央:福田美蘭
3年振りの個展を開催することになった福田美蘭を訪ねて、福島県の現代グラフィックアートセンター(CCGA)まで出かけていった。春らしくなってきた東京と比べて福島はまだ風が冷たい。「彼岸を過ぎれば春ですよ」とタクシー運転手の地元なまりがはるばる来たという印象を強めていた。作家は先にいて、穏やかに私を迎え入れてくれた。
会場風景 右手中央:福田美蘭
「Prints」と題された新作展は、CCGAで行なわれる展覧会とあって、版画の作品だと考えてしまいがちだが、「Prints」とは複製という意味を含んだかなり広義な内容である。今回出品された作品には、「Prints」または複製という言葉から派生される様々なイメージやコンセプトが作品に投影されて、観客はひとつひとつ作品のなかに隠されている“複製”の秘密を探りながら廻るようになっている。
たとえば『聖家族』と題された双児のキリスト像である。ルネサンスの宗教画のようなちょっと暗めのトーンで描かれているのは、聖母マリアに抱かれているふたりのキリスト。「ドリ−」ベツレへムでの降誕において導かれた星の輝きもしっかり二つ描かれている。もしも、キリストが双児だったら、さぞかし大事なことになっていただろうと、西洋史に一石投じるぐらいの騒ぎになるようなことも絵画のトリックとしてあっさりとやってしまうのである。そのほかに生き物の複製として展示された作品に「ドリ−」がある。クローンで大騒ぎになった例の羊だが、こちらはぬいぐるみだ。ここでは大小のぬいぐるみ(イギリス製というところにもこだわりがある)が親子のように置かれているだけだが、“ドリ−”という名前が付いただけでコピー(複製)されたものに意味が転化してしまうのである。
                  「ドリ−」
「(c)石膏像」さて、複製されるものがあるかぎり、そこにはオリジナルが存在する。はたしてオリジナルはどうだったのかという素朴な疑問をかたちにするのも彼女の作品である。今回の展覧会で、一般に親しまれているモリエールとガッタメラータの石膏像を使った作品「(c)石膏像」がある。大量に複製されて世界中のどこにでもある石膏像に対して、モデルになった生身の人間はどうだったのだろうか?という疑問を投げ掛けてみることで、大量消費資材ではない実像に迫ることになる。作家は、モデルであったモリエールやガッタメラータの人間としての髪の色や質、服装のテクスチュアなどを詳細に想像して着色するのである。場合によっては、食生活や言葉のアクセントなどもひっくるめて想像することで、無着色の白いだけの像が色彩豊かな姿に変ぼうしていくのである。しかし、白い像の大部分を残し、一部分だけを着色することで、今度は白の部分がオリジナルになり、着色部分がフィクションにも成ってしまうアイロニカルな関係をも提示している。
       「(c)石膏像」
さて、今回の展覧会では、異色な作品ともいえる複製に対するコピーライトの問題を扱った作品がある。それらは、過去に出された作家の作品集で他者の著作権、肖像権を侵害する恐れのあるものを白抜きによって修正して出版したというショッキングな処理をせざるえなかった作家自身の経験に基づくものだ。現行法上、やむ得ない処理ということで、作家も合意で行なわれたと書籍には注釈までついている。この事件によって、作家は好きなものを描くことができないという驚くべき事実と向い合わなければならなかった。こうした事実に基づいて、モチーフとして描かれたミッキーマウスや「くまのプ−さんが(c)」という大きな丸いマグネットで顔を隠す作品を制作している。作家が描いた本来の作品を鑑賞したい者は、マグネットをはずして観るしくみになっている。こうして作家が、著作権と真っ向から向き合ったことで、複製する権利にまつわるオリジナルとレプリカの価値観のずれを認識せざるをえないことになった。それにしても、リプロダクションを作品として提示する傾向は益々増加し、シミュレーションやジオラマなどが大量に発表されている現代美術の状況にあって、アーティストには、本当に複製する権利はないのだろうか。これだけ豊富にマスプロダクションが支配し、オリジナルの存在が希薄になっているにもかかわらず、本物に対する執着心だけがゴーストのように浮遊しているようでもある。

福田美蘭は、80年代後半に消費社会に氾濫するさまざまなイメージをコラージュのようにパッチワークしたり、モザイク的にはめ込んだりすることで新しい絵画表現を試みたことで知られる。彼女の絵画作品のさまざな試みや冒険は、絵画に対する深い洞察と卓越した技術に裏付けされている。特にアートヒストリーのなかの名作絵画の解体を施した作品には、そうした背景が濃厚なものとなる。たとえば、一般に親しまれる名画であるレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」やマネの「草上の昼食」などをモチーフとして、それらの画中で登場する人物の視点で描きなおす作品では、福田が平面である絵画を3Dの世界で捕らえなおすことが試みられている。こうした名作では、すでに定着されたイメージがコード化されているため、必要とされる情報は多くの観客には事前に示されている。したがって、絵画の2次元世界はもはや頭のなかでインプットされていて、福田が描いた3次元の世界から逆にオリジナルを想像することが容易である。それは、まるで映画のワンシーンのように絵画のなかに入り込んでしまう主人公に成り済まして、その絵画のなかで散歩するような気分になれるのである。そうやって、19世紀のパリ郊外の森で開かれているスノビッシュな連中のランチに飛び入り参加してみてもいいじゃないか。と思うのである。

「グリーンピースごはん」福田は、絵画の解体作業のなかで画家の主観的な視点や考え方を排除したいと考えている。そうすることで、デジタル処理のような冷静かつ厳密な作業で(『ブレードランナー』のコンピュータによる画像検索のシーンを思い浮かべてしまうのだが)絵画の構造を、解体/再構築することに徹底できると考えるからである。しかし、それを現実化するための技術が備わっていることが前提でもあるのだ。いくつかの作品をみれば、彼女のテクニックの高さは歴然としたものであって、感心するばかりなのだが、それでもペインターとしての福田美蘭に対しては、本人はいたって冷静なのである。どうやら彼女がペインタ−として過ごすことには飽き足らず、作品の中にさまざまなトリックや仕掛けを入れ込むようになったのは、画家として公に認知されたからでもあるといえそうだ。
      「グリーンピースごはん」(原画)
若干25歳での安井賞の受賞は、若い作家にとって画家としての出発を戸惑わせる結果となった。彼女にとって、この有名な賞は、画家を志してようやく獲得した賞というより、なんとなくもらってしまったような戸惑いさえあった。したがって、アートって?ということを始めたばかりの作家にとっては、この賞をきっかけに絵画とは?アートとは?ということを突き詰めるきっかけになった。その答えを模索している姿が現在の絵画の解体作業でもあるのだ。

今回、複製というテーマに展開されたさまざな仕掛けは、絵画を追求する姿勢の延長上に位置する。絵画の真実を掴むために、作家によってさまざまな実験が行なわれているといえるだろう。しかし、作家は、こうやってあれこれ仕掛けをし組むことを楽しんでいるようである。すでに、福田美蘭が画家としてただならぬ力量を持ち合わせていることは、周知の事実なのだが、改めて目前にするのは気持ちの良いものである。それでも作家にとっては、絵画はメディアのひとつにすぎない。まったく下々には持ち得ぬ美貌に気付かずに過ごすプリンセスのごとく、美蘭姫はアートで遊びながら観客を煙りに巻こうと、これからもあれこれと策を練っているはずである。それだけ、絵画の世界は魅力的な秘密を孕んでいるということでもあるのだが。


写真:現代グラフィックアートセンター

福田美蘭新作展「Prints」

会場:現代グラフィックアートセンター(CCGA)
   福島県須賀川市塩田宮田1
会期:1999年3月6日〜5月30日
   10:00am〜5:00pm(月曜休館)
入場料:一般300円、学生200円、小学生・65歳以上・身体障害者無料
交通:JR水郡線小塩江駅から徒歩40分/
   JR東北本線須賀川駅タクシー20分/
   JR東北新幹線郡山タクシー30分/
   東北自動車道須賀川ICから自動車20分
問い合わせ: Tel: 0248-79-4811 現代グラフィックアートセンター
巡回先:国立国際美術館 1999年7月22日〜8月31日

 
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