1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈
などがある。今回の展覧会は、このうち4.の「仏蘭西日本美術家協会展」(通称「薩摩展」)を可能な限り再現し、その他の活動も紹介する構成となっている。だが先を急ぐ前に、その後の彼の軌跡をたどってみよう。
20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。
なぜ初めにくだくだと彼の生涯を述べたかというと、別に字数をかせぐためではない。いくら書いたって原稿料は同じなのだ。そうではなく、展覧会タイトルに「薩摩治郎八」の名が冠せられているにもかかわらず、そのケタ違いのスケール感が展示にほとんど反映されてないからなのだ。
まず第一に、出品点数が少ないこと。前にも述べたとおり、同展は「薩摩展」を中心とする構成だが、パリとブリュッセルで都合3回行なわれた「薩摩展」の出品作家56人中、今回出展できたのは31人のみ。しかも当時の作品で現存するものは限られているため、同じ作家の別作品で補ったりしている。また「薩摩展」以外の活動は、写真やメモ、パンフレットなどの資料を展示するにとどめている。治郎八の遺品公開として、あるいは当時の記録としては価値はあるだろうが、そのスケールが立体的に伝わってこないのだ。ものたりなさを感じるのはぼくだけではないはず。
その上、出品作品のレベルが低いこと。これらのうち鑑賞に耐えるのは、藤田嗣治と福沢一郎くらい。蕗谷虹児や高野三三男の作品は、風俗画として見ればそれなりに興趣をそそるものの、それ以外ははっきりいって日曜画家程度のシロモノなのだ。これでは20年代パリの画壇にあって、日本人作家が太刀打ちできなかったのも無理はないと、妙に納得してしまう。だいたい56人中31人しか出展できなかったということは、裏返せば残り半数近くの作家は消えてしまったということではないか。その程度の作家たちに「湯水のごとく」カネを費やした治郎八が哀れにすら思えてくる、といったらいいすぎだろうか。