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 展覧会になりにくいパトロン
       《薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち》
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村田 真
《薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち》
 薩摩治郎八をご存じだろうか。なーんて実はぼく自身不勉強で知らなかったんだけど、どうもスゴイ人らしい。治郎八は1901年、木綿を商う豪商の3代目として神田の大邸宅に生まれる。母も豪邸暮らしの社長の娘というから、チャキチャキのおぼっちゃまだ。19歳で渡欧し、巨万の富を背景に、20年代の華やかなりしパリの社交界にデビュー。10年余りで、現在のカネにして600億円ともいわれる巨額を使い切ったというのだから驚く。たとえば、伯爵令嬢の妻・千代に純銀製の自動車を買い与えたとか、それでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し特別大賞を獲得したとか、その蕩尽ぶりを物語るエピソードにはこと欠かない。もちろん、ただ浪費しただけでは展覧会にはならない。彼はそのうちの一部(といっても巨額だが)を文化芸術にもつぎ込む大パトロンでもあったのだ。そのパトロン活動を挙げてみると、
 1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
 2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
 3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
 4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
 5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈

 などがある。今回の展覧会は、このうち4.の「仏蘭西日本美術家協会展」(通称「薩摩展」)を可能な限り再現し、その他の活動も紹介する構成となっている。だが先を急ぐ前に、その後の彼の軌跡をたどってみよう。
 20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。
 なぜ初めにくだくだと彼の生涯を述べたかというと、別に字数をかせぐためではない。いくら書いたって原稿料は同じなのだ。そうではなく、展覧会タイトルに「薩摩治郎八」の名が冠せられているにもかかわらず、そのケタ違いのスケール感が展示にほとんど反映されてないからなのだ。
 まず第一に、出品点数が少ないこと。前にも述べたとおり、同展は「薩摩展」を中心とする構成だが、パリとブリュッセルで都合3回行なわれた「薩摩展」の出品作家56人中、今回出展できたのは31人のみ。しかも当時の作品で現存するものは限られているため、同じ作家の別作品で補ったりしている。また「薩摩展」以外の活動は、写真やメモ、パンフレットなどの資料を展示するにとどめている。治郎八の遺品公開として、あるいは当時の記録としては価値はあるだろうが、そのスケールが立体的に伝わってこないのだ。ものたりなさを感じるのはぼくだけではないはず。
 その上、出品作品のレベルが低いこと。これらのうち鑑賞に耐えるのは、藤田嗣治と福沢一郎くらい。蕗谷虹児や高野三三男の作品は、風俗画として見ればそれなりに興趣をそそるものの、それ以外ははっきりいって日曜画家程度のシロモノなのだ。これでは20年代パリの画壇にあって、日本人作家が太刀打ちできなかったのも無理はないと、妙に納得してしまう。だいたい56人中31人しか出展できなかったということは、裏返せば残り半数近くの作家は消えてしまったということではないか。その程度の作家たちに「湯水のごとく」カネを費やした治郎八が哀れにすら思えてくる、といったらいいすぎだろうか。

 ことわっておくまでもないが、いま述べてきたことは同展企画者に対する批判ではない。この展覧会はそもそも徳島県立近代美術館が、数年前から薩摩夫人の許可を得て遺品の調査を行なってきた成果を発表するもので、「今回はとりあえず、ある程度輪郭が掴めた活動だけを紹介するに留めたい」(江川佳秀『薩摩治郎八の文化活動』、同展カタログ)と、きわめて謙虚なのだ。そうした地道な調査から、忘れられていた「薩摩治郎八」および「薩摩展」の実態に真摯に迫ったその努力には、むしろ頭が下がる思いである。
 問題は、薩摩治郎八のパトロン活動自体が展覧会になりにくいということだ。前記1.〜5.を見ればわかるように、美術に対する支援は4.と5.だけ。しかも彼は、同時代のほかのパトロンたちと違ってまとまったコレクションを残さなかったのだ。たとえば大原孫三郎は「大原美術館」として、松方幸次郎は西洋美術館の「松方コレクション」として後世に名をとどめているのに対し、治郎八も多少はコレクションを成したものの、むしろその場限りで使い果たすことに熱心だったように見える。
福沢一郎「風景」1928年
福沢一郎「風景」1928年
群馬県立近代美術館蔵
「彼にとってのコレクションとは、自分のため、あるいは日本のためを考えて意識的に収集するもの、というよりは、その幅広い芸術、文化の交流活動の過程で結果的に集まった成果物であるように思われる」(友井伸一『プラハの薩摩治郎八寄贈コレクション』、同展カタログ)。そのコレクションすら他国に寄贈してしまったのだ。それゆえ彼の存在は、20年代パリに咲いた徒花と見られることはあっても、美術史に名をとどめるにはいたってないのである。それにしても、これほどスケールの大きなパトロンは、もう2度と日本には現われないのだろうか。そんなケタはずれの人間がいたことを再認識させてくれただけでも、同展の意義は大きいと思う。
薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち
会場:横浜そごう美術館
会期:1999年2月5日〜3月7日
問い合わせ:045-465-2361

会場:奈良そごう美術館
会期:1999年4月8日〜4月25日
問い合わせ:0742-36-3141

 
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