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 ドナルド・ジャッド1960-1991……野々村文宏

手前「無題」1991 後方「無題」1989
埼玉県立近代美術館に「ドナルド・ジャッド1960-1991」展を見に行く。ひさびさに、骨太の回顧展である。学芸員たちがジャッドの遺族と慎重に話し合いを重ねながら、数年の歳月をかけて開催にまでこぎつけた回顧展らしい。ジャッドは後年、テキサス州マーファの街にシナティ財団を作り、過疎化した廃屋を買い上げて、自らのアトリエや自らの作品の展示の場や他の作家の作品の展示空間などを作っていった。これが、ひとつの過疎の田舎町全体を美術館でありアトリエとした、美術と共存する町作りを目指したジャッドの晩年の壮大なプランであり、言わばこの志しの途中の1994年に、不幸にしてジャッドは急逝してしまったのである。
手前「無題」1991/後方「無題」1989
今回の回顧展は、本邦初公開という初期ジャッドの絵画作品や、平面から立体への移行期の過渡的な作品も展示されている。ただしこれらは、研究者にとっての価値が高いものの、作品としてはあくまで過渡期のものであり、一般的にはわかりづらい(もちろん学問的な意味はある)。展示では、やはり、通称〈スタック〉と呼ばれる、金属やプレクシグラスを使った箱の積み重ねの作品など、代表的な作品が見るべき価値が高い。そして今回の展示のなかでもっとも圧巻なのは、晩年の代表作と言われる、1991年制作の「無題」、150cmのアルミニウム製の五つの直方体の作品である。この作品は、鑑賞者に距離感なり位置なり立体感を消失させる眩惑的な力を持っている。つまり、大袈裟に言えば、それが絵画=平面なのか彫刻=立体なのかわからなくなってしまうのである。
もちろん、いま僕の書いたような感想を導くための手法が、鑑賞者と対象=作品のあいだにあからさまな距離が設定されていて演劇の構造であることこそが、美術批評家マイケル・フリードが1968年に書いた有名な論文、ジャッドなりロバート・モリスなり当時ミニマリズムと呼ばれた風潮の作家作品を批判した「芸術と客体性」の要蹄である。実際、美術史的には、このフリードによる批判を大きなターニング・ポイントとして、アメリカ現代美術は70年代のポストミニマルなり芸術の領域的な拡張へと進んでいくのだが、ある意味でいつの時代でもそうであるように、あの時代、60年代中期に流行した「ミニマリズム」なるくくり方は、ジャッドなりモリスなり作家の想念とはずれていた部分があるのではないか。まず、作家たち自身が異口同音に語っているし、またあの論文から30年たった今、ジャッドの想念の出発点にあったと思えるヴィトゲンシュタインの論理哲学なり、ジャッド流の建築と立体造形との整合性を考えてみても、ジャッドの発想はフリードの批判だけに単一に回収されてしまうような簡単なイリュージョニズムでは無かったと反論してあげたい。傾向として、近代主義の謳う還元性と、アメリカ流のレタリズム(そのまんま主義、ベタな発想)の結び付きが、アメリカの「ミニマリズム」受容の底辺にあったであろうことは想像に難くないし、その意味でフリードの批判は当たっている。しかし、アメリカ社会での受容水準がどうであれ、おそらくジャッドが制作の発端に考えていたことはそのような、フリードが批判するような単純なことではなく、むしろ逆に視覚の現前性への問いかけそのものであり、実体と視覚的現象という単純な二元論の否定ではなかったのだろうかという気が、この展覧会を見ると、してくるのだ。

ドナルド・ジャッドさて、すごく良いから見たほうがいいよ、と評判が立ちまくっているが、会期中に上映されたビデオ「バウハウス、テキサス」(1955年/ドイツ、ゲーテ・インスティテュート制作)である。ゲーテ・インスティテュート制作だけあって、ヨーロッパまたはドイツからこの作家を見たときに、それまでのいわゆるバウハウス・アメリカ亡命組、第二次世界大戦中、あるいは第二次世界大戦後にドイツからアメリカに亡命または移住した芸術家たち(モホリ・ナギや建築家ミース・ファン・デル・ローエに代表される)とはまったく断絶した、あくまでアメリカの、もうひとつのバウハウスとしての孤高のジャッドとシナティ財団が描かれている。つまり1920年代のヨーロッパでの造形デザイン実験とはまったく別個に、バウハウスがやろうとしていたことを、1950年代のアメリカ抽象表現主義の影響から始めた男として、ジャッドが紹介されているのだ。このドキュメンタリー、なかなかの啓眼である。

 

ドナルド・ジャッド最後に余談めくが、しかしこのことには触れておきたい。東京都都知事選で複数の候補者が都の経費削減プランの例に美術館の展覧会予算を各マスコミで上げて発言している。しかし、それ以前の問題として、建てるときにお金がたくさん使われ、建ってから時間が経つにつれ、ソフトウエア、つまり展覧会なりワークショップの開催にかけられるお金が削られていくのはなぜか? バブル期からかねがね指摘されてきたことだが、最近、経費削減の大義名分のもとにそれが堂々とひとり歩き始めているのは眼に余る。あなたが態度なり程度の差こそあれ、曲がりなりにもなんらかのかたちで近代化を受容する「市民」であるならば、「逆でしょ? それは」と言いたくなりませんか?

またいっぽうで、個別の例を上げることは避けるが、全国津々浦々の美術館で開かれている企画展のなかには正直言って「?」と疑問符をつけたくなるような、明らかにキュレーションの甘い展覧会もある。そのような展覧会が許されるということは、日本の美術館における展覧会への批評と評価の体系がオープンに、パブリックになっていない証拠とも言える。ただし、これもまた当たり前のことだが、展覧会への評価は単一の価値体系に収れんされなくとも、つまり人によって賛と否の両極端に分かれるものであっても良いのだ。ポレミック(論争)こそが価値体系をつくるのだから。たとえば、このジャッド展と世田谷美術館の「時代の体温/ART DOMESTIC」展での、価値体系への態度はある部分まるで正反対である。しかし、それはそれで個々の展覧会のキュレーションがプロフェッショナルにまとまっていて、評価なり比較に耐えうる水準にあればいいのであって、その意味では世田谷美術館のキュレーションは徹底している。徹底する、ということは、つまりこういうことである。
さて、ジャッド展のほうは、関西地区で滋賀県立近代美術館に巡回する。関西地区の人は、必見ですね。

ドナルド・ジャッド1960-1991

会場:埼玉県立近代美術館
会期:1999年1月23日〜3月22日
問い合わせ:048-824-0111

会場:滋賀県立近代美術館
会期:1999年5月22日〜7月11日
問い合わせ:077-543-2111

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