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 「元気になる」場合か!?
   このアートで元気になる――エイブル・アート'99……村田 真
 
エイブル・アート'99

えいぶるあーとをみてきましたおもしろかったです、おしまい。ではぎゃらをもらえないのでもすこしかきます。えいぶるあーとはかのうせいのげーじつのいみですがしょーがいをもつしとたちのげーじつです、しょーがいをへんかんすれば生涯ちがう、障害これ。
石本仁司「'96カラフルオニオニ」1996
石本仁司「'96カラフルオニオニ」1996
マーカー・紙 73.0×103.0cm
撮影:小野庄一
芝田貴子「お母さん」制作年不詳
芝田貴子「お母さん」制作年不詳
マーカー・紙 27.0×38.2cm
あうとさいだーあーととどこがちがうんだろうそれについてはまたあとで。こんかいはこのあーとでげんきになるとゆーたいとるがついてます、げんきになるってだれがげんきになるのかぎもんですがそれについてもまたあとで。でもてんらんかいはとてもすきです、なぜかというとじぶんではぜったいかけないとゆーかかかないさくひんがたくさんあるからです、たとえばいろんないろにぬられたおにのかおをたくさんえがく石本仁司とか、おなじふくおなじかおのおんなのひとをおなじいろでかくんだけどがめんいっぱいにふくらませたりちぢませたりする芝田貴子とか、ちゅーしょーひょーげんしゅぎかおまけのしたたりがうれしい竹村幸恵とか、いろんないろをまるくぬりぬりしてきちゃないけどみりきてきな徳岡麻実子とか、てんびょうはみたいにもじのすきまをいろのてんでうめていく富塚純光とか、いろんないろでいえのかたちばかりをえがく堀田哲明とか、みかんとかまよねーずとかみのまわりのものをかいてにほんごとえいごもかいてなぜだかえーがのたいとるもかく結城周平とかたくさんありました。どのさくひんにもきょうつうするのはわんぱたーんということです、わんぱたーんとゆーとふつーつまらないもののだいめいしみたいですがかれらはわんぱたーんであるがゆえにぼくのこころにせまります、わんぱたーんのちからとでもゆーんでしょーか。

竹村幸恵「無題」1997
竹村幸恵「無題」1997
アクリル・紙 76.5×54.0
撮影:飯田邦夫
しかし、ワンパターンを破る作品もある。たとえば、みずのき寮の小笹逸男がそうだ。彼は20年近くにわたって制作された25点もの作品を出しているが、その中でもっとも感動的なのは初期の「ねこ」4点である。それ以降、ほかの動物や人間がモチーフに加わるようになってワンパターンが崩れ、絵としての魅力も失われていく。少なくとも筆者にはそう見える。その間、画材も紙にクレヨンとアクリルだったのが、キャンバスにアクリルや油彩まで用いるようになる。みずのき寮ではどのような指導が行なわれているのか、あるいは行なわれていないのかは知らないが、もし指導によって絵が凡庸になったのだとしたら残念なことである(もちろんそれは芸術至上主義的な物言いであり、指導によって芸術以上のものが得られたとしたらそれに越したことはないが)。
一方、林学の作品も大雑把にいえばワンパターンであるが、画法を見るとツーパターンに分けられる。画面の縁を塗りつぶしているものと、そうでないものだ。「作品IX」は前者の例で、何色かのマーカーで四辺が塗りつぶされ、その内側は殴り描きがされている。ちょうどテレビの画面のような形だが、具体的な形態は見られない。「作品XV」は後者の例で、縁取りはなく、画面中央で交差するようにマーカーで大きな十字形が描かれ、その端は四辺に達している。これら2点の絵を見てフォーマリズムの絵画を想起したとしても、飛躍しすぎではないはずだ。
彼の関心は画面になにを描くかではなく、画面をいかに制御するかに向けられていることは明かだろう。つまり、彼のモチーフは四角く真っ白な画面そのものだといっていい。その際、彼がフォーマリズムを意識しているかいないかは重要ではない。問題は、白い紙に向かった時にどのように反応するかである。そういう意味ではフォーマリズム絵画より、あえて誤解を恐れずにいえば、サルの絵と比較したほうがいいかもしれない。

小笹逸男「猫と私」1986-90
小笹逸男「猫と私」1986-90
油彩・カンヴァス 130.3×162.0cm
撮影:長 兼弘
林学「作品IX」1998
林学「作品IX」1998
マーカー・紙 38.2×54.2cm
撮影:小野庄一
林学「作品XV」1998
林学「作品XV」1998
マーカー・紙 38.2×54.2cm
デズモント・モリスは類人猿の絵の研究でも知られる生物学者だが、その著書『美術の生物学』(法政大学出版局)の中で、人間の幼児と類人猿の絵を比較して興味深い報告を行なっている。人間は3歳くらいまでは類人猿と同じように殴り描きしかできないが、それ以降、具体的な形や画像が形成されていくのに対し、類人猿はついに具体的な形にはいたらない。だが、画面の空間的配慮、つまり全体の構図やバランスの取り方などは類人猿のほうが勝っているというのだ(極端にいえば、サルのほうが人間の幼児よりフォーマリスティックな美意識がある、といえなくもない)。
もちろん林の絵がサルの絵に似ているといいたいのではない(実際、サルは十字形すら描けない)。人間の幼児が空間的配慮に欠けるのは、形や画法の問題に注意を集中させるため構図を犠牲にするからだ、とモリスは述べている。逆に、具体的な形態や画像を捨て去った時、人間は白い画面を前にしてどのようなアクションを起こすのか、その端的な例を林の絵は示しているのではないか。そう考えれば彼の絵は、現代美術においても根源的かつ先鋭的な問題提起になりうるのだ。「エイブル・アート」と呼ばれるものが、我々にとってきわめて刺激的で示唆に富んでいるのは、まさにこの点にある。
林だけではない。「オニオニ」の石本も「お母さん」の芝田も「家」の堀田も、なぜ同じものを繰り返し繰り返し描くのか、描かねばならなかったのか。彼らの作品は、我々の拠って立つ足もとを揺さぶり不安に陥れるに十分な、危険きわまりない問いかけである。だからこそ「エイブル・アート」とか「可能性の芸術」とか、あるいは「このアートで元気になる」といった、不安を隠蔽するかのごとき耳ざわりのいい、そして、どこか「健常者」にこびたようなタイトルが気になるのだ。彼らは、我々の喉もとに切っ先を突きつけている。その意味では確かに刺激的ではあるが、しかし「このアートで元気になる」のは、よっぽど鈍感な人間に違いない。美術の本流から一線を画し「他者」であることを明確に規定した「アウトサイダー・アート」という呼び方のほうが、いっそ差別的であるがゆえに潔いではないか。

写真提供:日本障害者芸術文化協会

 
このアートで元気になる――エイブルアート'99

会場:東京都美術館
会期:1999年2月16日〜3月22日
問い合わせ:03-3823-6921

 

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