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 西欧の「イデア」から遠く離れて
  「東アジア/絵画の近代―油画の誕生とその展開」……村田 真

安井曾太郎「ポーズせるモデル」
安井曾太郎「ポーズせるモデル」
1931 京都国立近代美術館
 中国、台湾、韓国(朝鮮)、そして日本という極東地域に、いかに油絵すなわち近代絵画が受容され展開してきたかをたどる、実に興味深い展覧会。
 まず気がつくのは、きわめて大雑把な印象だが、これらの地域の油絵が驚くほど似通っていることである。確かに描かれた衣装や風俗には各地域の特徴が表れているものの、人物の顔や米作を中心とする田園風景が似ていることもあって、どれがどの地域の油絵なのかほとんど区別がつかない。しかも、たとえば、白を混ぜた中間色で勢いよく描く中国の關紫蘭は安井曾太郎を思わせるし、豪放なタッチで風景をデフォルメする台湾の郭柏川は梅原龍三郎とウリふたつだし、フォーヴィスム風の表現主義で赤を効果的に用いる韓国の具本雄は里見勝蔵を彷彿とさせるではないか。いや、主題や描法や色彩だけでなく、これらの画面から漂ういいしれぬ暗さというか、よどんだ空気のようなものが通底しているように思えてならないのだ。
GUAN, Zilan (關紫蘭)「少女像」
GUAN, Zilan (關紫蘭)「少女像」
1929 中国美術館
 もうひとつ気づいたこと、というより疑問に感じたことは、同展の時代背景である20世紀前半、これらの地域は日本に侵略されたり植民地支配を受けていたにもかかわらず、抗日運動や反日感情を表した作品がまったくといっていいほど見られないことである。これはいったいどういうことだろうか。

 このふたつの疑問はともに、カタログを一読してあっけなく氷解した。すなわち、中国、台湾、韓国の近代絵画は明治以降の日本の美術教育をベースにし、画家たちの多くは東京美術学校などに留学経験があったからである。
 カタログの作家解説によると、中国の關紫蘭は「1927年、上海中華芸術大学西洋画科を卒業し、同年日本に留学。東京の文化学院に入学し、フォーヴィスムの作風の影響を比較的早く受けた。作品はたびたび二科展に入選」したという。台湾の郭柏川は「1928年に東京美術学校西洋画科に入学。33歳で卒業した後も日本に留まり、創作と研究に励み、当時すでに著名な画家であった梅原龍三郎と知り合う」。
里見勝蔵「女」1928
里見勝蔵「女」1928 
京都国立近代美術館
さらに郭は「梅原が前後6回北平(筆者註:北京のこと)を訪れた際には、写生、作画をともにし、古都の風情に浸った。ふたりは互いの画風に若干の影響を与え合っている」(林曼麗「台湾地区『新美術』の萌芽とその発展」)というくらいだから、似ているのは当然だろう。また韓国の具本雄も「1928年日本へ渡り川端画学校を経て、1929年現在の日本大学芸術学部に入学し1年間修学。1933年太平洋美術学校卒業。1931年第1回独立美術協会展に入選」したとある。
 なるほど、これで彼らの絵が日本の洋画に似ている理由はわかった。だが、それだけでこれらの絵が暗くよどんでいる理由を説明したことにはならない。それについて触れる前に、東アジアにおける油絵の受容の歴史をカタログを参考にしながら振り返ってみたい。
KOO, Bon-Woong(具本雄)「友人像」
KOO, Bon-Woong(具本雄)
「友人像」1930年代前半
ソウル、国立現代美術館
 先に挙げた3人の画家の日本への留学時期は、たまたま1920年代後半に集中したが、この3地域の油絵の受容の過程も日本との関係も、一様でないことはいうまでもない。
 まず中国では、日本と同じく16世紀にイエズス会の宣教師によって油絵がもたらされたものの、日本同様その地に根づくことはなかった。海外貿易が盛んになる19世紀には南部の港湾都市に西洋人画家が住みつき、彼らに習って絵を商売にする者も出てきた。しかし、中国人が本格的に油絵に手を染めるようになるのは、20世紀初頭に近代的な美術教育機構が確立されてからのこと。それ以降、日本の教育システムを採り入れたり、日本の美術学校への留学生が増える一方で、“本場”フランスで絵を学ぶ者も増えてくる。そして1920年代後半には、「日本派」と「欧州派」のふたつの系統に分かれていったというのだ。
 それに対して、台湾と韓国は事情がかなり異なる。19世紀末期から20世紀初頭にかけて相次いで日本の占領下に置かれたこの2地域では、それ以前に西洋絵画に触れる機会はまったくといっていいほどなかったし、またその後も欧州に留学できる者はほとんどなく、日本に留学するのでさえ厳しい制約があったという。台北市立美術館館長の林曼麗によれば「1910年代、20年代に、明治時代の洗礼を受けて形成された日本の新興の近代美術が台湾に上陸してきたとき、これを阻もうとする力は、台湾には全くなかった。それをそっくり丸呑みにするほかに、選択の余地はなかったのである」。そして1927年から官設美術展「台湾美術展覧会」が開かれ、「ここに台湾の近代美術はついに自らの土地に根を下ろすことが可能になった」(同)。
梅原龍三郎「雲中天壇」1939
梅原龍三郎「雲中天壇」1939
京都国立近代美術館
 韓国の場合、より激烈である。「韓国の西欧受容は直接的なものではなく、おおむね間接的な経路を通して達成され、挙げ句の果てに非西欧圏である隣国の日本により、1910年国権を喪失するなかで展開された」(李仁範「韓国における油絵の誕生と展開―近代性、植民性そして脱植民化のすきま」)。韓国でも1922年から毎年「朝鮮美術展覧会」が開かれたが、「それは帝国主義的管理のもとで、いわゆる植民地的アカデミズムが定立していくだけであった」(同)。そして、「このような近代期韓国油絵は西欧のオリジナルからそれほど近い距離にはない。オリジナルとの関係を考慮すれば、それらは明らかに日本的感性によって翻訳された西欧文化の重訳に属すものだ」(同)と。このことを李仁範はプラトンの寝台の比喩を用いて説明する。すなわち、寝台のイデア(実相)を模倣するのが家具職人であり、それをまた模倣するのが画家だとすれば、画家は寝台のイデアから二重の意味で遠く隔てられた模倣の模倣者となる。イデアが西欧、職人が日本、画家が韓国を指しているのはいうまでもない。

KUO, Po-Chuan(郭柏川)「北京故宮」
KUO, Po-Chuan(郭柏川)「北京故宮」
1939 個人蔵
 さて、ここで日本における近代絵画の受容史についてもおさらいしておく必要があるだろう。前述のとおり、日本に油絵が最初に伝えられたのは16世紀、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによってであるが、本格的な油絵の展開は、幕末の蕃書調所に画学局が設置(1861)され、明治新政府が工部美術学校を設立(1876)するまで待たなければならない。しかしこれらは、測量地図の作製といった洋学の調査研究だったり、殖産興業の一手段としての技術の習得を目的としていたため、絵を描く楽しみや油絵の持つ精神性はなおざりにされていたのである。「イデア」が西欧にあるとすれば、日本はまさにその表面を模倣するだけの「職人」にすぎなかったわけだ。
 その後、急速な欧化政策の反動として国粋主義が台頭し、工部美術学校を廃校(1883)に追い込み、代わってフェノロサとその弟子である岡倉天心が、日本画および伝統工芸を教える東京美術学校を設立(1887)したのは周知のとおり。この国立美術学校に西洋画科が設けられるのは、ようやく黒田清輝がパリから帰国して教授に就任(1896)してからのことである。しかも、日本近代洋画の父とも称される黒田がパリから持ち帰った「外光派」なるものは、印象派の描法を採り入れながら本質的には旧来の写実主義と変わるところのなかった二流画家、ラファエル・コラン直伝の“亜流”といってよく、それが以後の日本洋画の“主流”になっていくのだから、ここで西欧の「イデア」から二重に遠ざかることになったといっても過言ではないだろう。
 中国や台湾、韓国の画学生たちの多くは、こうした東京美術学校西洋画科に学んだのである。もちろん、これをもって彼ら、あるいは我々の絵が暗くよどんで見える理由を説明しつくしたことにはならない。おそらくそれ以外の要因、たとえばこれら中国文化圏に共通する水墨画の伝統や、儒教・仏教・道教などの混在する独特の世界観、表意文字である漢字の使用、あるいは多湿な風土なども密接に絡んでいるであろうことは容易に想像できるが、それは今後の研究に委ねるほかない。だが、少なくとも東アジアに通底する、同じ油絵を使っていながら西洋近代絵画からいつのまにか踏み外してしまったかのような、なにか大きな「勘違い」みたいなものは、こうした美術教育の歪みによってある程度理解できるのではないか。ちょうど伝言ゲームの末端にいけばいくほど、とりかえしがつかないほどズレの振幅が激しくなるように。

「東アジア/絵画の近代―油画の誕生とその展開
「東アジア/絵画の近代」展

4/10-5/23 静岡県立美術館
5/29-7/11 兵庫県立近代美術館
7/17-8/29 徳島県立近代美術館
9/12-10/20 宇都宮美術館
10/30-12/19 福岡アジア美術館

なお、静岡県立美術館では9/10-10/24「生誕150周年ラファエル・コラン展」を開催予定。

 

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