Art Topics -- Review and Reports
Archive
logo
 夭逝の天才画家伝説への連なり方――関根正二展……村田 真

関根正二展
  
 日本画家というのは総じて長命だと前に書いた。それに比べて洋画家は短命という印象がある。特に明治・大正期の画家たちがそうだ。たとえば、青木繁(享年28、以下同)、中村彝(37)、岸田劉生(38)、古賀春江(38)、村山魁多(22)、前田寛治(33)、佐伯祐三(30)、三岸好太郎(31)、野田英夫(30)といったように。どうやら、日本画=持続力=長命に対して、洋画=瞬発力=短命という等式が成り立ちそうである。そーか、近代日本の洋画は打ち上げ花火だったのか。ここから悲劇の天才画家伝説が生まれ、夭逝した画家のデッサンばかり集めた悪趣味な美術館までできる始末。それはともかく。

 なかでも飛び抜けて短命だったのが関根正二である(「しょうじ」と読び慣わしているが、本来は「まさじ」)。今年が生誕100年、没後80年というから、わずか20年しか生きていない。小倉遊亀なんか関根や佐伯祐三よりおねーさんだっちゅーのになお齢を重ね、いまだ現役だもんね。寿命が伸び、成熟が先送りされる現在、20歳で死んで美術史に残る画家なんてもう2度と現れないだろう。

 かくいう筆者もご多分にもれず、高校時代にゴッホ、モディリアーニらと並んで関根正二に傾倒したものだ。いずれも短命というところに惹かれたのは事実であるが、それだけではない。関根の絵に関していえば、あの暗く沈鬱な絵に鮮やかなヴァーミリオンが効果的に使われていることに驚いたのだ。暗い絵を描くのに暗い色しか使わないのはディープシロートであることを思い知らされたってわけ。しかし思い起こしてみれば、関根の作品で筆者が知っていたのは、大原美術館の「信仰の悲しみ」とブリヂストン美術館の「子供」くらいしかない。もちろんこの2点を知っているだけで十分という気もするが、実のところ、この2点にヴェールのように覆い被さった「夭逝」という言葉に憧れていた、あるいは「夭逝」という色眼鏡をかけて見ていた、というべきかもしれない。

 今回の展覧会で、それ以前の作品も含めて初めて関根の全貌に触れることができた。これを見ると、初期の河野通勢の影響があきらかな「死を思う日」から、どことなくノイエ・ザッハリヒカイトを思わせる「井上郁像」「村岡みんの肖像」「真田吉之助夫妻像」といった一連の正面像を経て、「信仰の悲しみ」や「子供」にいたったことがわかる(ただし筆者の見に行った日には「信仰の悲しみ」は出品されてなかった)。わずか5年間の画業にもかかわらず、これほどスタイルを変転させるとは驚きである。しかし考えてみれば、この5年間は関根の10代後半に当たるわけで、まだまだスタイルが確立してないのは当たり前、様々な表現技法を試していたとしてもなんの不思議もない。さらに、カタログの中で伊藤匡氏が指摘するように、この時期ヨーロッパは第1次大戦のさなかであり、その前後にはヨーロッパからの美術情報の吸収に躍起となっていた日本の画家たちが、つかのま個人の好みで表現を模索できた時期に当たるのだ。

 だが、それだけではないだろう。いささかうがった見方をするならば、後年、人が関根にそれを見るように、関根自身の中にも天才芸術家への憧れ――もっといってしまえば、その属性としての狂気や幻視、あるいはボヘミアン的生活への憧れ――があり、そのような「異端」として見られるためのスタイルをあれこれ模索していたのではあるまいか。彼にとっては、何度か経験した失恋すら芸術のコヤシ程度にしか考えてなかった、といったらいいすぎだろうか。なんせまだ10代だもん。そーいえば、ガキのころ読んだ詩にこんなのがあった。若者よ、恋をしたまえ。失恋を恐れるな。失恋したら、詩人になれる。失恋しなかったら……もうけものだ。違ったっけか?

 関根は、二科展に出品した「信仰の悲しみ」ほか2点が樗牛賞を受賞した際、インタビューに答えてこういったという。 「私は先日来極度の神経衰弱になり、それは狂人とまで云われる様な物でした。しかし私はけっして狂人ではないのです。真実色々な暗示又幻影が目前に現れるのです。朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人私の目の前に現れるのです。それが今尚、現れるのです。あれは未だ完全に表現出来ないのです。身の都合で中ばで中止したのです」

 心中の告白であるが、「狂人ではない」と否定しているものの、狂気や幻視が宿っていたことは否定してない。むしろ、神経衰弱とか幻影といった常人では隠すべき「異常」を自慢げに語っているようにも聞こえ、狂人(すなわち天才と紙一重)に見られることを計算に入れたかのごとき発言ではないか。そしてその作品は、その発言を裏づけるように恐ろしく暗く、恐ろしく沈鬱な雰囲気に満ちあふれているのである。要するに、彼は様々なスタイルを試行錯誤したあげく、ようやく「信仰の悲しみ」で、狂人視されたいという彼のもくろみと合致するスタイルに「当たった」。当たったものの、それを展開させるいとまもなく死んでしまったのだ。

 もし彼がもう少し長生きしていたら――という仮定が無意味であることを承知の上でいえば、さらに狂気と幻視を芸術に転化し豊穣な作品を生みだしていたかもしれないし、あるいは20歳過ぎればただの人、河野通勢のように凡庸な画家として余生を送ったかもしれない(こっちの可能性のが高そうだ)。それはわからない。だが少なくとも、彼が20歳で亡くなったことで、近代日本における夭逝の天才画家伝説にまたひとつ悲劇の彩りが加えられたことは確かである。最後に、これだけは問うてみたい。関根にとって夭逝も計算のうちだったのか?

関根正二展

関根正二展
カタログ
1999年
7月10日〜8月22日 神奈川県立近代美術館
9月4日〜10月17日 福島県立美術館
10月29日〜12月12日 愛知県美術館

 


top
Copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 1999