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「多面体・岡本太郎」の一面的な絵画 |
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時ならぬ岡本太郎ブームである。没後3年たつというのに、著作集や関連本の刊行が引きも切らず続き、『芸術新潮』『ユリイカ』などの雑誌が岡本太郎を特集し、「IZUMIWAKUプロジェクト96」「モルフェ98」「日本ゼロ年」といった若手作家や評論家の企画した展覧会にその作品が出品される、といったように。だが、岡本太郎ブームは死後いきなり始まったわけではない。生前からブームと呼べるような盛り上がりが何度かあった。
最初は、1948年に花田清輝らとともに「夜の会」を結成し、「アヴァンギャルド」を標榜したころに始まる。このころ太郎は、「重工業」「森の掟」などのエポックメイキングな作品を二科展で発表している。また50年代に入ると、『アヴァンギャルド芸術』『今日の芸術』といった重要な著作を出版したり、アンフォルメル旋風を巻き起こすきっかけとなった「世界・今日の美術」展を企画するなど、前衛芸術家としてだけでなく、敗戦後の日本を引っぱり勇気づけるリーダー的な存在として、広くその存在が知られるようになっていく。
その後、64年の東京オリンピックでは、記念メダルをデザインしたり、丹下健三設計の国立代々木競技場に陶板レリーフとモザイクによる壁画を制作。70年の大阪万博では、テーマ展示プロデューサーに就任し、やはり丹下健三設計のテーマ館の屋根をぶち破って「太陽の塔」をおっ立てたことはご存じのとおり。振り返れば、このころがブームの頂点であったように思う。ブームの頂点とは、岡本太郎の社会的影響力がピークに達したということであり、裏返せば、それ以降、衰退の一途をたどっていったということでもある。これは、70年ごろまで高度成長を続け、その後いったん停滞することになる日本という国の盛衰ともぴったり重なっている。
ではそれ以降、太郎はどうなったかといえば、テレビをはじめとするマスメディアに頻繁に登場するようになり、例の「芸術は爆発だ!」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」といったセリフを吐く“ヘンなおじさん”に成り下がっていくのである。敗戦後の日本に喝を入れ、大上段に芸術や文化を語ったオピニオンリーダーから、シラケ世代の台頭する70年代以降の、茶化される対象としての道化役へと転落していく芸術家像。太郎自身がその役柄を進んで演じていたにせよ、彼のマスコミでの“活躍”によって、世間に「芸術家=ヘンなおじさん」という等式が広まってしまったことは否めない。それが、たとえば「たけしの誰でもピカソ」に見られるような、芸術を貶めて楽しむマスメディアの姿勢に拍車をかけていったように思えてならないのだ。太郎と並んで戦後日本の文化の一翼を担ってきた丹下健三が、万博以降ますます建築界の重鎮として君臨していくのとは正反対の軌跡といっていい。
私事になるが、50年代生まれの私は、60年代の勇ましい“二枚目”としての岡本太郎をリアルタイムで知っているだけに、70年以降(それは私自身が芸術を目指した時代でもある)の“三枚目”としての太郎を見るにつけ、幻滅の度合を増すほかなかった。私が岡本太郎を間近に見たのは70年代の終わりごろ、ある展覧会のオープニングの席上でだった。想像していたよりずっと小さかったことに驚いたが、もっと驚いたのは、作品を見ている時、カメラが向けられるたびに頼まれもしないのに作品を(カメラを、ではない)にらみつけるような例のポーズをつくり、カメラマンが去ると素に戻ることだった。いまならサービス精神の旺盛なヒョーキンおじさんとして笑ってすませられるが、当時は、そうまでしなければ自分を保てなくなった老芸術家の姿に哀れさを感じたものである。もっともその後「夜の会」の活動や初期作品を知るようになって、遅ればせながら再評価せざるをえなくなったが。
しかし、「太陽の塔」以降の太郎しか知らない60年代生まれの世代は、にもかかわらずというか、それゆえにというか、屈託なく岡本太郎を評価しているように見える。村上タカシ(隆のほうではない)、中ザワヒデキ、小沢剛、ヤノベケンジらのことだ。作家ばかりでなく、椹木野衣や倉林靖といった若手評論家が太郎を積極的に論じているのも、それ以前にはなかった現象である(もっともこのふたりの評価軸はずいぶん異なっているようだが)。そして、太郎の死後のブームは、こうした若い世代に支えられていると見て間違いないだろう。
ともあれ、現在のブームの決定版が、この10月30日にオープンした川崎市の岡本太郎美術館である。あるいは、岡本太郎美術館のオープンに合わせてブームが再燃した、と見るべきかもしれないが。この美術館は建設前から話題にこと欠かなかった。岡本太郎の美術館というだけでなく、建設地の生田緑地の自然環境が破壊されるという住民の反対運動によっても。もし太郎が生きていたら、この反対運動にどう対応したか知りたいところではある。
美術館は丘の斜面に埋もれるようなかたちでつくられ、敷地の奥には高さ30メートルの「母の塔」が建っている。美術館内部は常設展示室と企画展示室からなり、まず常設展示室の導入部で、深紅の明かりに照らし出された「太陽の塔」の顔の部分のレリーフが迎えてくれる。中に進むと、照明が落とされたうえに湾曲した壁面や段差があっちこっちにあり、まるで迷宮にでも足を踏み入れたかのよう。作品は絵画をはじめ、彫刻、マケット、写真、ドローイング、テレビ映像もあって、まさにタイトルのごとく「多面体・岡本太郎」を演出している。この構成は一見楽しげではあるけれど、ひと昔前の博覧会の展示を彷彿とさせ、作品本位に見せるという姿勢ではない。通路を抜けて企画展示室に出ると一転、こちらは明るく整然とした展示になっている。だが、展示内容は常設とあまり変わらない。どうやら今回は開館記念展なので、常設と企画の両展示室を合わせて「多面体・岡本太郎」展としているようだ。
確かに太郎は「多面体」として活動を展開したが、しかし絵画に限って見ると、正直いってどれもこれも似たり寄ったりの印象しかない。そう思ってもういちど常設展示室に戻ってみると、ガラスケースの中に太郎の作品の縮小コピーを年代順に並べたコーナーがあり、これを見て愕然とした。ごく初期の作品を除いて、太郎の絵がほとんどまったく同じパターンの繰り返しであることが一目瞭然であったからだ。このことは前々から感じてはいたものの、あらためて見直してみると、50年代以降の作品は、赤と黄を主調とした色彩といい、放射状の構図に黒い線が波打つ形態といい、どの時期をとってもまるで金太郎アメのごとく、あるいは、太郎のポートレートがいつもカメラをにらみつけるポーズを取っているかのごとくというべきか、ワンパターンなのである。太郎は多面的に活躍したとはいうものの、それは活動領域が多方面にわたっているという意味であり、こと絵画領域に限っていえば実に一面的でしかなかったのである。
太郎の絵は原色を多用しているせいか、日本の土壌にあってはよく映える。グループ展に太郎の絵が1点あれば、そこだけエネルギーが渦巻いているようにすら感じられる。たとえば昨年4月、名古屋市美術館で開かれた「戦後日本のリアリズム1945-1960」展を見た感想として、「しかし400点もの作品を見終わったあとの印象は、奇妙にも単一のイメージでしかない。すなわち腐りかけのシュルレアリスムと、暗く濁った色彩の充満。極論すれば、岡本太郎ら2〜3の例外を除いて、ひとりの画家の個展だといわれてもさほど違和感を感じないくらいだ」と書いた。この時の太郎の出品作品は「重工業」(1949)と「森の掟」(1950)、つまりパターン化する以前の作品であり、明らかに群を抜いていた。しかし、それ以降の作品で太郎が強烈な個性を発揮するのは、ほかの画家の「暗く濁った」作品との比較においてであって、みずからの作品系列で見ていけば、「奇妙にも単一のイメージでしかない」といわざるをえない。
太郎はベストセラーにもなった『今日の芸術』において、「芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです」と書き、これこそ「アヴァンギャルド」なのだと述べている。この本が出た当時(1954)、太郎のワンパターンはすでに始まっていた。これを、自己模倣に陥った「アヴァンギャルド」の悲劇的パラドクスと読むべきか、それとも首尾一貫した「アヴァンギャルド」の喜劇的パラドクスと読むべきか……。
いずれにせよ、太郎の芸術家としてのピークが70年の万博の年にではなく、それをさかのぼること20年も前にあったことはこの展覧会で確かめられた。では、その後40年以上にわたって繰り返し描き続けられたワンパターンの絵画とはいったいなんだったのか? 私が不満なのは、いまの岡本太郎ブームを支えている人たちの関心が、戦前を含む初期の活動か「太陽の塔」以降か、もしくは言説や生き方に集中し、その間に制作された膨大な量の“パターン絵画”に触れようとしないことである。 |
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