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World Art Report |
市原研太郎
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現代アートのグローバリゼーション――台北とプサンのビエンナーレ報告 | ||||
現状からの脱出と模索
9月に台湾の台北、10月に韓国のプサンと、立て続けにビエンナーレ(2年に1度)形式の国際展のオープニングがあった。ビエンナーレといえば、100年以上の歴史があるヴェニスのそれをすぐに想起するが、90年代に入りヨーロッパや、それ以外の地域で二、三年のサイクルで開かれる国際的な展覧会の数が急激に増えてきた。ヨーロッパでは、リヨン、ベルリン、リヴァプール、イスタンブール、北南米では、モントリオール、サンタフェ、ハバナ、アフリカでは、ヨハネスブルグ、そしてオセアニア・アジアでは、シドニー、メルボルン、ブリスベーン、光州、上海、横浜(来年秋に開催の予定)といった具合。まさに現代アートが、20世紀の終わりに差しかかって、ヨーロッパ・アメリカを発信源としてその周縁に波及する単一中心型の文化現象ではなくなり、世界的規模で分散して生起する同時多発的なムーヴメントとなった感がある。このような国際展のグローバル化は、現代アートへの社会的関心の広がりと、招待されるアーティストのグローバル化をともなう。同一のアーティストが世界中を駆け回って制作発表することを意味するだけではない。当該の展覧会が開かれる地域出身の、あるいはそこに在住するアーティストの参加が優先的な条件とされるからだ。とはいえ、国際展を標榜するかぎり極端な偏りは許されない。台北やプサンの例を見ても、地元のキュレイターと外部から招聘したキュレイターがティームを組み、世界に視野を広げた人選で国際展に相応しい展覧会を構成していたと思う。 さて台北ビエンナーレは、台湾のフリーのキュレイター、マンレイ・シュウとフランス人評論家、ジェローム・サンスの共同企画、プサンでは、PICAFというアート・フェスティヴァルの一環として .......
展覧会が組織され、韓国のヨン・チュル・リー、中国人キュレイター、ホウ・ハンル、スペインからフリーのキュレイター、ローザ・マルティネスが招かれ企画に携わった。それぞれのビエンナーレのキュレイターたちは、企画に当たって短期間であっても集中的に討議を重ね、統一的なアイディアを練りあげたと強調していた。そこから生まれたテーマに付けられたタイトルは、台北は“the sky is the limit?(空は限界というのではなく、天を突き抜けてを意味する)”、プサンは“Leaving the Island”である。どちらのタイトルからも容易に想像されるように、両展覧会の内容は、現状からの脱出を模索するものだったといってよい。作品同士の境界を取り払って融合させ、爆発的なエネルギーを引き出したいと、シュウが言っていたのが印象的だったが、アートをめぐる様々な制約や障壁(作品だけではなく、作品を容れる美術館も含めて)を打ち破り、開かれた展覧会にするというのが、彼らの共通した思いだろう。 |
台北ビエンナーレ | ||||||||
具体的には、シュウとサンスが企画した台北ビエンナーレの場合、映像が多いこともあってほとんどの作品が別々に仕切られて展示されていた。しかし会場に並べられた作品からは、それらに通底するあっけらかんとしたエネルギーが流れ出て個々の作品をつなぎ、参加アーティストが30名あまりと小規模ながら、テーマ的に一貫した展覧会になっていた。ナウィン・ラワンチャイクンのインスタレーションに象徴されるように、全体に陽気で楽しげな印象は、諸々の作品の構造を見て、直ちに理解されるほどシンプルだったことでより鮮明になっていた。たとえば、ダニエル・プルムはシンプルかつポップ、ケンデル・ギアーズはシンプルかつクルエル、ウリ・ツァイグはシンプルかつストレンジ、マイケル・ミンホン・リンは、シンプルかつデコラティヴ、フン・トゥングルはシンプルかつバッドテイスト、エルイン・ウルムはシンプルかつユーモア、クロード・クロースキーは、シンプルかつコマーシャルといったように、一般の人々への受け入れやすさがこのビエンナーレの出品作の持ち味となっている。この特徴は、現代アートのグローバル化に素早く対応して、新たな状況の構築しようとする企画者の狙いを側面から援護するものだったのではないか。
もう一つの企画者の狙い、文化の諸ジャンルを横断する表現の可能性の開拓については、文化の既存の枠組を超えて、デザイン、音楽、ファッション、クラブカルチャーなどを取り込み、ミックスして制作するアーティストの作品が実例を示している。リザ・ルーは、ビーズを使った工芸的な手法で色鮮やかな庭を造園し、キュピキュピは、パフォーマンスではなくヴィデオとライトボックスとで、キッチュでスペクタキュラーなエロティシズムを表現し、シアフェイ・チャンは、ごみだらけの室内の壁に踊る女性のヴィデオを流して、パーティーの後のようなけだる荒れ果てた雰囲気を醸し出し、キャンディス・ブレイツは、ポップ・ミュージックの神話を瞬間的にパロディー化して見せ、近年映画作りに手を染めているシュウ・リー・チャンは、オープニングでSF仕立てのポルノ映画の製作を公開した。 .......
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プサンビエンナーレ | ||||||||
プサンの展覧会の場合はどうだろうか。タイトルの「島からの船出」には、人間にせよアートにせよ、他者から切り離された孤立した存在ではないとのメッセージがこめられている。当然のことながらモダニズムの自律性を乗り越えようとするこのような志向性の帰結するところは、グリッサンのいうような「関係性」によって成立する作品である。交通と情報が発達したボーダーレスな世界のなかで、関係性すなわち複数の文化の相互作用によって生じるハイブリッドな表現は、現代アートのグローバル化に必然的に付随する現象だろう。プサンでは、スペインのアナ・ローラ・アラエスが、韓国風のインテリアのなかでエキゾティックなストリップ・パフォーマンスを行い、タイのスラシ・クソルウォンは、居心地のよいマッサージ・ルームを開いて、その空間を原色のカヴァーを被せたミニマルなフォルムのマットレスで構成した。この展覧会に出品された作品のほとんどが、少なからず文化の混交を蒙っているといってよいが、ソルラン・ホアースのドキュメンタリー映画『ピョンヤン日記』に登場する、そうした混交を奇跡的に免れた北朝鮮の人々の純朴さに触れ、同時にクラブカルチャーを美術館内に出現させたプラネット・アートのアナーキーでファンキーなインスタレーションが吐き出す映像と音楽に身を浸し、文化間のギャップの大きさに思い至るにつけ、文化の交流と混合は簡単に進まないと実感された。異文化との接触が惹き起こす摩擦や衝突は、極端な場合原理主義的な反動を招くことになるが、そうでなくても文化的なアイデンティティの探求に人々を導く結果になりやすい。実際、展覧会のオープニングに開かれたシンポジウムでは、現代アートのグローバル化や文化のハイブリッド化を推進しようとしている今回の企画者たちに、そのようなムーヴメント自体が、ヨーロッパ中心的な発想から出ているのではないかという質問が投げかけられ、周縁地域で展覧会を組織してきたマルティネスへ批判の矛先が向けられた。それに対して企画者の一人は、マルティネスが周縁から変革しようとしていると弁護し、彼女自身は、グローバル化を基本的に支持するけれども、グローバリゼイションには良いものと悪いものがあって、しっかりと区別することが大事だと答えた。
現代アートのグローバリゼイションをめぐる問題に、まだ最終的な結論は出ていない。しかしいずれにせよ、現代アートが展示される機会は、世界中で今後さらに増え続けるだろう。その勢いはもはや止めることはできない。しかしこのムーヴメントが、プサンに展示されたカール・ミカエル・フォン・ハウスウォルフのコミカルなゲートのように思わぬ展開を見せれば、ボーダーをめぐって繰り広げられる悲劇はいつしか消滅するのではないだろうか。会場のエントランスに置かれた二つのゲートは、各々通過するだけで一方は韓国、他方は日本の国籍を得られる。それを会場の行きと帰りで潜れば、人は知らず知らずボーダーを横断して、それをかき消していることになるのだから。
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