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World Art Report
市原研太郎
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フィラデルフィアからの手紙
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デュシャン・コレクション
お元気でしょうか。そちらを出てからだいぶ過ぎました。私は、冬なお温かい南カリフォルニアを立ち、寒さの厳しい東海岸へと来ています。今回はフィラデルフィアの話をしましょう。実はこの都市、過去に二度訪れているのですが、まだアメリカでも有数の歴史と規模を誇るフィラデルフィア美術館に入ったことがないのです。勿論美術館見学を目的に、ワシントンとニューヨークからアムトラックに乗ってやって来たことはあるのですが、休館日(月曜)だったり、あまりの寒さで美術館の扉が開かなかったり(冗談です)で、館内を覗くことはできませんでした。それで今回は必ず入場するとの決意を抱き、ニューヨークから特急で一時間少しかけてフィラデルフィアに到着しました。なぜこれほどこの美術館が重要かというと、おそらく私だけでなくアートを志す人間にとってそうだと思うのですが、20世紀アートの天才の一人、マルセル・デュシャンの作品があるからです。とりわけ通称「大ガラス」と呼ばれる「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」(レプリカではない!)と、デュシャンの生前に公開されることのなかった遺作「1.落ちる水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」が設置され、デュシャン・フリークでなくとも、20紀のモダンアートに関心のある者ならば、一度は訪れたいと願う聖地になっているのです。

デュシャン 「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」 デュシャン 「1.落ちる水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」
▲デュシャン
「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」1915-23[フィラデルフィア美術館所蔵]
▲デュシャン
「1.落ちる水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」
(部分)1946-66[フィラデルフィア美術館所蔵]
デュシャン・コレクション1 デュシャン・コレクション2
デュシャン・コレクション3 デュシャン・コレクション4
デュシヤン・コレクション5 デュシヤン・コレクション6
▲デュシャン[フィラデルフィア美術館所蔵]

デュシャンの部屋は、美術館の2階、20世紀アートと現代アートのコーナーの一番奥にあります。その手前の部屋には、モンドリアンとブランクーシの作品があり、この一角は、モダンアートを学ぶ者にとっては必見の場所でしょう。さてデュシャンのコレクションは、彼の晩年のインタヴューを読めば来歴を知ることができるように、彼の友人にしてコレクターのアレンスバーグが寄付したものです。常設として絵画、レディメイドなど20点あまりが一室に並べられ、中央に置かれた大ガラスを透かして窓越しに、デュシャンの恋人だったといわれるアーティストの彫刻が望めます。この部屋で一日中瞑想していたいと思わせるほど静寂に包まれています。ただし監視人の目に付きまとわれるのは御免ですが。遺作を初めて見た私の感想は、古びた扉の向こうの光景が、この世のものとは思われないということでした。この作品がお墓と解釈されることもあるようですから、私の印象もあながち見当違いではないでしょう。しかし、私にはデュシャンが20世紀だけではなく、21世紀のアートのあり方を予言しているように思えてならないのです。その光景は幻覚なのですが、それは鑑賞者の視線を非身体化するというより、その身体を扉に開けられた小さな穴から吸い込んで光景の一部にしてしまう幻覚なのではないか。身体の幻覚化と言えばよいでしょうか。それこそ、おまえの幻覚ではないかと切り返されそうですが。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン ブランクーシ
ブランクーシとモンドリアン 左=ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
右=ブランクーシ
下=ブランクーシとモンドリアン
[フィラデルフィア美術館所蔵]

デュシャンと絵画の巨匠たち
この美術館には、私のこのような見方を正当化でなくとも説明してくれる作品が並べられていて、デュシャンに到るアートの歴史を跡づけるには格好の環境となっています。フランドル派の巨匠、ファン・デル・ウェイデンの宗教画に始まるヨーロッパ絵画のコレクションがそれです。ただし17、8世紀の作品の数が少ないのは残念ですが、19世紀の印象派を中心とした絵画はそれを補ってあまりある。コロー、クールベ、マネ、モネ、ゴッホ、セザンヌらの作品が並ぶギャラリーは、この美術館のもう一つの白眉です。とりわけセザンヌの後期の水浴図は、彼のパラダイスのヴィジョンがスケールの大きい三角形の構図で描かれていて圧巻です。なぜ、これらの絵画がデュシャンの遺作と関係をもつのでしょうか。絵画を放棄したアーティストと、絵画にすべてを託した過去の画家たちとの間にどのような共通点があるのでしょうか。いうまでもなく、共通点がないからこそ比較に意味がある。両者の間の断絶は、絵画のイメージをめぐる考え方の根本的相違であり、デュシャンはモダンの絵画に欠陥があると考えました(この主張が必ずしも正しくないと私は思いますが、このまま話を続けます)。たとえば印象派の描くイメージは、再現的ではあってもそのなかから絵具のマティエールが押し出されている。とくにモネの晩年の絵画は、ほとんど盲目だったということもあり、無数の筆触によって絵具の物質性が強く現れる。20世紀のモダンアートは、モネの方向を発展させ純化させたと言ってよいでしょう。勿論その過程で、さまざまな抵抗があり、逸脱があったと指摘することはできますが、抵抗や逸脱があったこと自体、絵画の物質化傾向を逆証明するものにほかならない。
そこへデュシャンが登場し、絵画の材料(テレピン油)を嘲弄し、モダンの絵画に精神性が欠落していると批判し、最終的にそれを捨て去った。遺作の扉の向こうにある風景に、女性のヌード(絵画の永遠の主題!)を横たえたのです。それが奇妙なポーズで硬直した死体なのだとすれば、絵画の終焉を宣告する墓標と見えなくもない。しかし、そのイメージのなんと力強いことか。扉の平面から漏れでる光に包まれたフォルムのなんと魅惑的なことか。それは、平面の向こうにありながら、平面上にはなく、平面を超えてこちらに進出してくる。私は先ほど、身体が幻覚に吸収されると言いましたが、イメージがこちらに進出すると言っても同じことなのです。というのもそのイメージは、扉が属する物質の次元には存在しないからです。それは、物理的な空間座標のどこにも位置しない。デュシャンの幻覚(この世のものではないイメージ)は、もはや絵画の二次元的な形式に収まらない。それは、もろもろの事物によって三次元的に構成されているのですが、事物の存在から抜け出ている(デュシャンの言う四次元に達している?)。
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新しいステージを受胎告知するリサ・ユスカヴェージ
では絵画は、デュシャンの宣告で死んだのでしょうか。フィラデルフィアを訪れた理由にはもう一つありました。それは、ペンシルバニア大学に付属する現代アート協会(ICA)で開かれたリサ・ユスカヴェージの展覧会を見ることでした。ここに載せる写真は、残念ながらICAに展示されていたものではありません(写真を撮れなかったので、同時期ニューヨークの画廊で開かれた個展から選びました)が、まずそれらを見てください。

リサ・ユスカヴェージ1 リサ・ユスカヴェージ2
リサ・ユスカヴェージ3 リサ・ユスカヴェージの展覧会カタログの表紙
▲リサ・ユスカヴェージ ▲リサ・ユスカヴェージの展覧会カタログの表紙

キッチュ、フェティッシュ、俗悪といった形容が見事に当てはまるイメージではありませんか。それは、デュシャンの例のヌードの死体を想起させませんか。両方とも、同じ形容詞がぴったりする。説明に便利な影響関係を持ち出したいわけではありませんが、ユスカヴェージがフィラデルフィア出身なので、デュシャンの作品に接している可能性は高いでしょう。ところでユスカヴェージの作品は、その描法や内容から、絵画の不毛とか頽廃と評価すべきでしょうか。デュシャンとは別の仕方で、絵画の終焉を告げていると結論すべきでしょうか。たしかに描かれたモティーフのフォルムと色彩から受ける印象は、まったくパセティックでアンニュイです。それはアポカリプスを彩る感情でしょう。しかしなんのアポカリプスでしょうか。絵画の? しかしユスカヴェージが制作している絵画は、その終わりを印すものではない。なぜなら彼女の描く絵画は、ステレオタイプの死んだモティーフを描いていても、けっして死んだ絵画ではないからです。それは彼女の絵画に品位があるためです。品位とは、私の解釈では、デュシャンがアートの本質として掲げた精神性です。それこそ、フィラデルフィア美術館で、歴史的なヨーロッパ絵画から乳のように流れ出ていたものではないでしょうか。勿論各時代で、その成分は異なりますが。ユスカヴェージの絵画からは、絶望のなかから、その果てを生き抜く決然とした凛々しさと静けさを感じます。キッチュを突き抜けるこの深い雰囲気が、彼女の精神でないはずはありません。
この意味で、デュシャンは絵画の死の判断を誤ったのだと思います。ユスカヴェージのこの精神性は、絵画の未来を切り拓くエネルギーを放射しているだけでなく、未来のイメージを形作る新しいステージの受胎告知をしているように感じられて仕方ないのですから。

[いちはらけんたろう 美術批評]

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