|
World Art Report |
市原研太郎
|
. |
ドイツにおける現代アートの状況―ヴォルフスブルクの場合
|
. | ||||||||||||||||||||||||||||||||
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1
そのドイツの地方都市であるヴォルフスブルクを例にとって、現代アートの活動を探ってみることにしよう。ヴォルフスブルクは、ドイツ北部にあるハノーヴァーのすぐ近く、ベルリンからICE(新幹線)で1時間余りに位置する中都市である。この都市が現代アートで注目される理由は、目抜き通りのど真ん中に地方都市には珍しく大規模な美術館があるためだ。勿論美術館ならば、ドイツには立派なものを有する都市はいくらでもある。しかしそれが現代アート専用となるとほとんどない。同程度のものでは、ミュンヘングラッドバッハの現代美術館(80年代よりドイツで現代アートを紹介してきた先駆け的存在)が有名だが、そこには現代アートと並んでモダンアートの作品が常設展示されている。また主に企画展を行なうという意味では、ドイツの各都市にあるクンストハーレやクンストフェラインと同じ機能を果たしているが、ヴォルフスブルク美術館はその規模、内容とも他を圧倒している(むしろハンブルグ、ベルリンなど、大都市にあるそのような施設と肩を並べるといえばよいか)。 さて、この時期美術館で行なわれていた展覧会を見ていくことにしよう。メインの展覧会として高い天井のフロアを占めていたのは、“Let's Entertain: Life's Guilty Pleasures”と題されたグループ展だった。
この企画展は、すでに1年前アメリカのミネアポリスにあるウォーカー・アート・センターで開催されたもので、最近現代アートで顕著な傾向となりつつある娯楽的要素の強い作品だけを集め、その全体を捉えようとする非常に野心的な試みである。カタログのプロローグに掲げられた「俺はもう運動選手じゃない。エンターテイナーさ」というデニス・ロッドマンの言葉から容易に推察されるように、展示された作品は、アーティストが鑑賞者をして真剣に考えさせるためにではなく、もっぱら楽しみや気晴らしを与えるために作られた。ただ私から見てよいと思われる作品は、娯楽的要素があっても、それを超えて感動を呼び起こしたり、それを批判的目的に利用しているものである。出品作では、リネケー・ダイクストラ、ダグラス・ゴードン、ジリアン・ウェアリング、ロドニー・グラハム、ダン・グラハム、ポール・マッカーシーがそれに該当する。
しかしながら展覧会の趣旨は、作品に優劣をつけることではないだろう。というのも、タイトルにまず「楽しませよう」とあるように、美術館を訪れた人々に、今までとは異なる鑑賞の仕方を提起することが意図されているからである。鑑賞者は、作品と距離を置いてしかつめらしく対峙するのではなく、作品と同じ空間を共有し、できれば身体で作品に接触することによって「楽しむ」のである。美術館を、映画館か遊園地かクラブのような空間に変貌させること。そうした経験を享受させた上で、この展覧会はタイトルの副題にある、エンターテインメントを「生きることの罪と享楽」の側面を考慮するように仕向ける。つまり、なにも考えず「楽しむ」ことの根底に潜む悪への反省を促がすのだ。それは、アートの社会的役割に関する省察にまで及ぶだろう(ただし、アートをエンターテインメントにすることが問題なのではない。エンターテインメントをいかにアートにするかが問題となる)。エンターテインメントvsシリアスという対決図式が、現代アートの活動の勢力を二分しているかに見える現在の不幸な事態にあって、エンターテイメントを巡る快楽と倫理というアンビヴァレントな感情に光を当てたこの展覧会は、人々がアートにおける娯楽と真剣さの契機の関係を解き明かす糸口を提供してくれるはずである。
ところでヴォルフスブルクには、現代アートと出会うことのできる公共の施設がまだある。今回初めて訪れたのだが、緑に包まれた公園内の城館に、小さいながら市立美術館とクンストフェラインをもっていて、その各々で、ボリス・ベッカーとリクリット・ティラヴァーニャの個展を行なっていた。ベッカーは61年生まれで年齢こそ若くないが、シュトルート、ルフ、グルスキーらの後を追って頭角を現わした写真をメディアとするドイツ人アーティストである。彼が撮る被写体は、都市であれ自然であれ、シュトルートらとは違って重々しさを帯びて鑑賞者に迫ってくる。この重々しさを、娯楽的な要素に数えることはできるだろうか。また90年代を通して国際的に活躍してきたティラヴァーニャは、いつもの観客参加型のインスタレーションを展示していたが、今回はインターネット放送を活用して、子供たちが想像する都市の姿を発信するプロジェクトに立ち上げた。彼の作品こそ、エンターテインメントと現実に働きかけるシリアスなもの(子供たちが夢想する都市の地図の背景には、移民問題がある)を見事に結合した例ではないだろうか。
[いちはらけんたろう 美術批評]
|
|
|
|