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さて今回のビエンナーレは、国別のパヴィリオン展示だけでなく、ゼ−マンの人選による展覧会、またヴェネツィア市内で行われる複数の興味深い個展やグループ展、そしてアートのみならず、音楽、演劇、ダンス、映画、詩作品までを含む大展覧会として構成されている。したがって、ゼ−マンが展覧会に与えた「人類の高原」というタイトルの内容をすべて体験し尽くして、その全体像を捉えることは誰にも不可能だろう。しかし、ビエンナーレのなかでもっとも重要なセクション、つまりゼ−マンが直接企画に関与した部分を通してなら、タイトルの意味を考察し評価できるのではないだろうか。ゼ−マンの人選による展覧会は、大量の作品を、ジャルディーニのイタリア・パヴィリオンとアルセナ−レ(旧兵器庫)の広大なスペースに設置している。ビデオを中心とした映像作品が多いために、その全部を隈なく見ようとすれば、鑑賞に要する時間は必然的に長くなる。展覧会で映像が多いというのは、すでに90年代から見られた傾向なので、特にゼ−マンだからということではない。というより実情は、すでに老境に入ったゼ−マンが、現代の表現における映像の規範的価値を認めて、映像作品を多く取りいれたということだろう。
ゼ−マンによれば、タイトルはテーマではなくディメンジョンの問題だという。つまり、参加した個々のアーティストの作品が生成する意味のネットワークが、表現の高原をなしその固有の次元を決定する。勿論選ばれるアーティストは、誰でもよいというわけではない。選択には、当然ゼ−マンの判断基準が絡む。展示を見て、私がある種の強度を感じたと同時に、その限界つまり物足りなさを感じた原因は、ゼ−マンが依拠するこの尺度だと思う。作品全般から、単純さが帰結する分かり易さと、単純であるがゆえの底の浅さを感じたのはこのためだろう。しかし、テーマ、したがって作品に共通するコンセプトのないアーティストたちの展覧会を見渡し判断することに、それほど意味があるとは思われない。結局のところ高原をなす作品群から、鑑賞者は、各自の趣味あるいは思想に合わせて作品を切りとってくればよいのではないか。