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World Art Report
市原研太郎
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テロと戦争の狭間で、アートになにができるか?
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リヨン・ビエンナーレ
しかし現代アートが表現する問題は、境界線をめぐるものばかりではない。換言すれば、アートはローカルなものを起点とするばかりでなく、グローバル化された強力なシステムが引き起こす運動に巻き込まれることがある。2000年の第5回リヨン・ビエンナーレは、その最適な事例だろう。というのもこの展覧会は、ローカルな表現のレパートリーの広さを顕示しながら、参加作品のことごとくが、グローバル化された資本の魔手の餌食にされてしまっていたからである。その結果、作品はフェティッシュと成り果て、展覧会は派手で奇抜なスペクタクルの様相を呈した。異文化社会に生きる他者との交流や理解よりも、それを阻害するエキゾティシズムの付加価値をめぐって組織されたものとなったのだ。第3回マニフェスタと第5回リヨン・ビエンナーレは、グローバルとローカルの込み入った関係に、対極からアプローチする展覧会だったのである。

第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景
第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景
第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景
第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景
第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景 第5回リヨン・ビエンナーレ会場風景

グローバル/ローカルの両義性を超えるもの
前にレポートした今年のベルリンやヴェネツィアのビエンナーレについてはどうだろうか。グローバリズムとローカリズムの宥和しがたい対決というコンテクストからすれば、それらの展覧会は、より個人的な次元に立脚する作品を多く含んでいた。とはいえベルリンでは、個人を繋ぐ関係性がテーマとなっていて、個人の独我論的世界を超える契機が示唆されていたし、またヴェネツィアのほうは、企画者が明言しているわけではないが、各作品をファンタスム生成の装置として捉えることができ、それによって鑑賞者へもたらされるインパクトの中に、閉塞した現状を打開する可能性が感じられた。したがってそれらの展覧会には、アートの限界を見定めようとする視点が打ち出されていたが、グローバリズムとローカリズムの対立を射程に収めるところまではいかなかったように思う。勿論、アートは自己表現を始源とするので、科学やジャーナリズムのような客観性や中立性をもたない。しかし、将来に対する予想ではなくあるべきヴィジョンを述べるとき、個人を経由する表現が、奇跡的に普遍的なヴィジョンに到達することはありえよう。そしてそのヴィジョンの核となる理念が、件の対立を乗り越えることは充分あるのである。
現在開かれている横浜トリエンナーレを、このような観点から再考してみるのも興味深い。そこに展示された作品の多くが、世界の多文化状況を前提として制作されている。ローカルなものとその境界をめぐって表現が構築され、鑑賞者とのコミュニケーションに供される。と同時に作品は、グローバルなものの抗いがたい力によって決定的に変質させられ、ありふれた商品の特徴を帯びる。この二つの要素が、同一の作品に付き纏い両義性を形作る。作品の解釈を困難にしているのは、まさにこの両義性である。しかし、もしそれらの作品のなかに、ローカルとグローバルのカテゴリーを大きくはみ出し、それらを解消するようなヴィジョンを提示することに成功するものがあるなら、我々の時代の躓きの石となっているこの両義性を取り除くことができるだろう。現在、アートの活動に背負わされた不可避な使命は、そこにあるのではないだろうか。

[いちはら けんたろう 美術批評]

copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 2001