夏のワークショップ特集
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 ワークショップ:「脱教育」のラボラトリー……熊倉敬聡

なぜ今、「ワークショップ」か?

 最近、日本では「ワークショップ」が注目されている。なぜだろうか。それは「ワークショップ」の中に、今「崩壊」しつつあるとされる教育制度へのラディカルな批判を人々が嗅ぎつけているからではないだろうか。以下(字数の関係でごく短絡的な議論しかできないが)、現在におけるワークショップの思想的意義について考えてみたい。

「死」のシステムとしての資本主義

 宇宙は、人間を自らの<外部>として生み出した。この、非宇宙的外部=人間は、しかし宇宙から永遠に追放されながらも、絶えずエコロジカルに宇宙へと不可能な回帰を試みながらエロスの悦びを享楽しつつ、他方では自らの非宇宙的空虚そのもののコンシステンシーを維持し密なものとするために様々な社会体・システムをタナトスの強迫として作り出した。近代の、その「死」のシステムは言うまでもなく資本主義である。資本主義は、ごく単純に言って、貨幣価値の微分的な自己極大化のアナーキーな運動と、それを絶望的にレギュレートしようとする国家のマクロ・ミクロな権力との、交響であり闘いである。資本主義は、そのような原理的な自己矛盾を抱えながらも同時にそれを利用しつつ、19、20世紀と、その「死」の触手を「植民地的」に、そして今や日常の無意識的襞にまで延ばし、生のあらゆる層を繊細に蝕もうとしている。

戦後日本の教育:資本主義のミニモデルの学習

 資本主義の死の交響に浸されている国の「教育」とは、まさにその資本主義の死のロジックに限りなく適合的な人間を作り出すための社会的装置に他ならない。日本もまた然りである。というか、日本、特に戦後の日本は、敗戦による壊滅から可能な限り短時間で再び先端的な資本主義国にならんがために、50年代から80年代にかけて資本主義をいわば純粋に培養するという歴史的に特殊な実験を行った。その最大の培養装置こそ「受験」を核とした教育制度である。そこでは、何よりも点数・数字の極大化を目指す競争原理が貫かれ、それを学校(「塾」も含む)という権力装置が管理し推進するという、まさに資本主義のミニモデルの学習が縦横無尽に展開された(私もその渦中にいた)。

学校、廃墟

 そうして、あらゆる世代のあらゆる生活の襞に浸透し、陰に陽に勝ち誇りつつあった資本主義は、日本では90年代初頭、様々な要因からその死の触手を突如収縮し始める。俗に言う「バブル崩壊」である。いわば、こうして死のストップモーションに宙づりとなった日本社会は、突然自分たちの足下を見ることを余儀なくされ、そこにこの数十年で資本主義が荒廃させた廃墟をまざまざと見ることになる。その廃墟の一つが、教育、学校にほかならない。

「ワークショップ」:教育のエロスへの転成

 資本主義的モデルがとうに限界に行き着いた教育は、しかし現在、新たなモデルないし原理を見いだせぬまま、もがき苦しんでいる、か、麻痺状態に陥っている。そこでは、資本主義の懊悩から膿汁のごとく滲み出してくる「死」が、時には物理的な暴力として炸裂し、現実の肉を切り裂いたりする。生きながらすでに半ば死んでいるかのような少年少女たち。亡霊。今こそ、教育を(そして社会を)もう一度エロスの方へと、その充溢へと開くべきではないのか。そのエロスへの開かれの中に(資本主義的価値ではない)新たな価値を見出すべきではないのか。その教育のエロスへの転成──「教育」が近代的なものだとしたらこの転成は<脱教育>と呼べるようなものかもしれない──のきっかけとして「ワークショップ」が今殊の外注目されているのではないだろうか。

芸術が教育を挑発する

 ワークショップは、教育を<批判>する。教育の権力関係に異議を申し立て、そのラディカルな組み替えを要求する。労働の数字への還元、その極大化、競争、目的論、限界主義、プログラム、効率、一対多、一方向、命令/義務、役割の固定化・専門化、禁欲原則、等々を、労働の非数量化、共働、互助、プロセス、半端・下手・未熟の肯定、脱線・無駄・遊びの称揚、双方向ないし多方向、自発/アシスト、役割の流動性・横断性、幸福原則、等々へとずらし、流し込み、生の悦びの肯定へと向かわせる。しかし、現在、「芸術」の世界では、この特集にも紹介されるような興味深い試みが多々為されているが、いわゆる「学校」の現場では、教育の「ワークショップ」化は思いの外進んでいない。だからこそ、逆に芸術側からのクリエイティブな挑発が今後ますます必要になるのではないだろうか。

本稿での考察を具体的に述べた「わいわい音頭」(『10+1』18号、INAX出版より9月上旬発売)も併せて参照されたい(編集部)

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