【1984年の夏】
その街を始めて訪れた時の印象は、いつまでも拭えぬものらしく、1984年の夏の上海での一ヶ月の滞在は、10年以上たった今も、上海という街を考える時の基礎になってしまっています。
この時、上海空港は新ビル以前でまるでどこか南の島の小さな飛行場のようでしたし、タクシーも少なくて、ホテルや高級レストランには外国人以外は許可なくは出入り出来ず、外国人との会話にも気を付けている様子でした。
何しろ1966年頃から1976年にかけて中国全土を席巻した文化大革命の名残を払拭できないでいた時期でしたから、社会主義統制の強固な国という印象を強烈に受けたのでした。実際、街のいたる所に革命精神を鼓舞する『全世界の無産階級万歳!』『毛沢東思想万歳!』なんていうプロパガンダやスローガンが掲げられていました。現代化政策が推進される直前でしたから、街の再開発は全く行なわれていません。どこも1920年代の建物がそのまま使用されていて、まるで19世紀末から20世紀初頭の上海のままで、街全体が博物館のような状態だったのです。
【第一百貨商店】
街の中心を成す南京路には、当時は中国で一番大きいデパートだった、第一百貨商店がありますが、そこの木製のエスカレーターが壊れたまま放置されていたり、和平飯店(ピース・ホテル)や国際飯店(パーク・ホテル)の大食堂も利用者が少なく、まるで特権階級のような気分で食事ができたり、人々は極端に質素で、それらは、むしろエキゾチックでさえありましたから、私と妻の潮田登久子は、毎日夢中で上海の町中を見物してまわりました。面白半分にホテルを泊まりあるいたりもしました。
二人が若かったからでもあったのでしょうが、どこへ出かけても親しげに声をかけられたり、案内をしてもらえました。祖父が日本人だという人に声をかけられ、その昔は日本人街だったという場所で昼食を一緒にした時などは、まるで映画の中の景色に入り込んだようで、二人は狂ったように写真を撮りました。そして、ますます路地から路地へと細く狭い所へ足を向けるのでした。中共一大会址(中国共産党第一回代表大会・会場跡)とか、魯迅記念館と住居跡、上海展覧館、少年宮といった革命的な施設も、珍しくて、充分に楽しめるものでした。
【ブリキのおもちゃ】
私は男ですから、乗り物、建物、ブリキのおもちゃ、メンコといったものや、女の人に目が向いてしまいます。登久子さんはママゴト、お人形、衣類、台所、子供といった彼女の関心の向くところに歩いていってしまいます。
同じ通りを、同じように歩いたはずなのに、二人が見ていたものは全く異なっていますし、買ったりもらったりした物も、申し合わせたかのように、見事に同じものがありません。これは、幸運というしかありません。お互いに、相手のコレクションによって自分の見逃したものを、補完できるのです。そして、ますますお互いに自分の好きな物に執着できるのです。ですから、帰宅して、収穫物や写真の出来上がりを見せあったり、話をしたりするのも、また楽しいのです。
二人のガラクタは増え続け、中国で撮影したカラー・スライド(ポジ)が6万カット、集めたものを収納している大きな中国製トランクが30以上にもなってしまっています。それでも、出かけると、思わず何かを集めてしまっている二人なのです。
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