キュレーターズノート

視覚言語と生成する身体──『夢の男』と千葉正也個展から

田中みゆき(キュレーター/プロデューサー/東京都渋谷公園通りギャラリー学芸員)

2021年04月01日号

視覚言語、と聞いてあなたは何を思い浮かべるだろう。人は8割あまりの情報を視覚から得ていると言われている。文字や記号、服の色や人の表情といった非言語的なもの、さらにはモノの佇まいや場の空気感という、目には見えないけれど伝わるものまで、世界を構成する視覚的要素の幅はとんでもなく広い。私たちはそれらを無意識にしろ意識的にしろ、日々選択的に見ることで、メッセージを受け取ったり発信したりしている。それらをすべて視覚言語といってしまってよいのだろうか。曖昧で捉えどころがない視覚言語とは一体何なのか。
私は、企画している「視覚言語がつくる演劇のことば」というプロジェクトをとおして、視覚言語とは、発信者/受信者という境界なく、それを共有するものの「あいだ」で生成されるものであると考えるようになった。生成という行為によって、鑑賞者もイメージのつくり手にしてしまうのが視覚言語であると定義してみたい。


「視覚言語がつくる演劇のことば」短編作品『夢の男』1幕


ろう者と聴者が演じる『夢の男』


去る3月21日、KAAT神奈川芸術劇場にて「視覚言語がつくる演劇のことば」短編作品『夢の男』の上演を行なった(正確には、コロナウイルス感染拡大防止のため、事前収録した映像のオンライン配信となった)。

今回の作品創作にあたってテキストと演出を依頼した藤原佳奈と話しながらあらかじめ決めていたのは、2つのことだった。まず、同じストーリーを異なる伝え方で繰り返す構成にすること。そして、ろう者の俳優と聴者の俳優一人ずつでつくるということだった。それは、上演の前に開催した「ラボ」でゲストとして招いた演出家ジェニ・ドレーパーのカンパニー「fingersmiths」の、同じ舞台上でろう者と聴者がひとつの同じ役を演じるという作品の構造に着想を得ている。その後、江副悟史と大石将弘という優れた俳優に出演頂けることが決まり、藤原によって2人に当てるかたちでテキスト『夢の男』が書かれた。


「視覚言語がつくる演劇のことば」短編作品『夢の男』
夢の中で会った、自分と顔が似た男。「身体をなくした」というその男に身体を探すことを頼まれた私は、ビルの屋上に辿り着く。指をさした先に目撃した気配の塊は、やがて私の身体を飲み込んでいく──




「視覚言語がつくる演劇のことば」短編作品『夢の男』
『夢の男』は、4回繰り返し上演した。
左上:1幕 音声言語と手話言語
右上:2幕 ろう者の俳優 江副悟史による視覚言語
左下:3幕 聴者の俳優 大石将弘による視覚言語
右下:4幕 2人が協働でつくる視覚言語

聞こえない人には、ろう者、難聴者、中途失聴者といったさまざまな人が含まれ、必ずしも皆が手話を身につけているわけではない。そこで、手話を第一言語としない聴覚障害者に向けて、1幕のみ字幕を入れ、物語の概要を伝えることにした。それにあたり、字幕は音声言語をなぞるかたちではなく、音声言語の特徴的な言い回しなどを省き、主語を明確にするなど、音声言語と手話言語のどちらでもない簡潔な情報を提供することにした。

体感を伝える視覚言語を探る


スケジュールの都合で、江副へのヒアリングやオンラインでの打合せは進めていたものの、本格的な稽古を始めたのは本番5日前。その時点では小道具などもなく、主に4幕をどのように表わすかを、藤原、江副、大石、映像の渡辺俊介、私でワークショップのような形式で考えていった。

1日目に議論になったのは、視覚言語が何を表象するかということだった。例えばコップ2つで2人の男を表わすと、それは情報の見立てとなる。3幕までの流れを踏まえると、4幕では体感や質感を伝えるべきではないか。藤原のこの問いは、情報の共有と同様に体験の共有こそが重要であるという、このプロジェクトの前に行なっていた「音で観るダンス」で探求した課題とも共通するものだった。


体感の共有については、藤原が初日に配ったテキストが重要な役割を担った。それは、もともとA4用紙1枚程度だったテキストの1~2文ずつに、物語の表に現われている情報ではなく、それに伴う身体の内的な情報を括弧書きで書き下した描写が添えられていた。例えば、冒頭の「ある夢を見たんです」の部分はこんなふうに書かれている。


(寝ている間に体験してしまったこの感じ、身体に残ったこの感じを、誰か、誰でもいいのだけど、に向けて、出したい。漏らしたい。身体が消えてしまわないか、足元が揺れるような感じをしながら、言葉、という道具を使い始める私。つまり、今、ここに私の身体はあると確認できる。身体は溶けながらドクドクしている。夢が本当のことで、もし今この時間こそが夢だったらどうしようか)

ワークショップは、これらの括弧書きの描写をそれぞれがどう視覚言語として翻訳するかを軸に進んでいった。稽古場にある限られた素材を使って、まずはブリコラージュ的に作る方法をとる。演劇、映像、演出、演者、聴者、ろう者、さまざまに属性の違うメンバーが、作り手であると同時に受け手として視覚言語を作っていった。そして、発表された互いの視覚言語に触発され、その場でアイディアや表現方法が変容していった。例えばその際に共有されたティッシュペーパーの繊細な質感、1枚ずつ剥がすときに起こる体感など、その雄弁さはそのまま本番にも引き継がれている。それは非常に濃密で刺激的な制作過程だった。そこで出たアイディアを下地に、2人の俳優の身体の体感からつくられる演劇として藤原が演出していった。

生成モードを助ける仕掛け


結果、1幕から4幕と進むにつれて、鑑賞者が受け取るものが情報から体感に移行するような作品となった。言語としては徐々に抽象度が増していくが、体感として受け取るものは増えていく。ここで起こっていることが何なのかを説明するために、伊藤亜紗が著書『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020)のなかで扱っている、「伝達モード」と「生成モード」を取り上げたい。「伝達モード」は、メッセージは発信者のなかにあり、受信者はそれを受け取るという一方向的なコミュニケーションで、発信者と受信者の役割分担が明瞭である。一方で「生成モード」は、メッセージが発信者と受信者のやり取りのなかで生まれていき、そこでは双方向的にコミュニケーションが生み出されている。伊藤はそれを「相手の身体に入り込みあう」ような関わりとも言っている。1幕から3幕は、「伝達モード」の割合が強く、4幕は「生成モード」の割合が強いのは、今回の制作過程と切り離せない。

また、3幕までの固定カメラによる撮影と異なり、4幕では、カメラは空間全体を演者とともに移動し、ワンカットで撮影することにしたことも大きな変化となった。それは、ワークショップの記録者ではなく参加者でもあった映像の渡辺の提案によるものだった。渡辺は、「鑑賞者の目線や身体性をカメラワークとして置くことで、演者への感情移入や物語の解釈を面白くできるのではないかと考えた」と話す。今回の作品は映像での配信だが、あくまで演劇作品として発表するため、カットを映像の文法でつながっているように見せるなどの映像的手法は極力使わず、姿勢や目線など身体を使ってつながりをつくるような演劇的手法を探っていった。そのなかで、鑑賞者が俳優の身体に入り込むように見ることを助ける役割としてカメラワークが機能していたと言える。

私はこの企画を始めるにあたり、視覚言語とは、その含まれる範囲が広く捉え難いものの、聴者とろう者など感覚特性の違いによって視覚言語の解釈や使い方に違いが生じるということだろうと考えていた。しかし今回の制作過程であらためて気づいたのは、視覚言語は言語としての機能を超えた体感や質感を、ともすると意味よりも強く伝えてしまう性質を持つ。それによって、発信者と受信者がともにつくる「生成モード」が生まれる面白さがあるということだった。振り返ると、「ラボ」で扱ったグラフィックレコーディングや手話にも、その特性が含まれていると思う。その「あいだ」に起こるライブ感やエネルギー、動的なプロセスを見せるにあたって、俳優という「生成モード」を誘発できる特殊技能をもつ身体があることは、演劇という表現媒体の強みにほかならない。

フィクションと現実を結ぶ身体──千葉正也個展


演劇では可能なことが展覧会では難しいのは、鑑賞者の身体に働きかけるのが直接的な人間ではなく、作品が介在するという点だ。言い換えれば、鑑賞者という身体はあるが、その振る舞いはあらかじめ計画することが難しく、気まぐれで、思いどおりには動いてくれない。そして鑑賞者の身体の中で起こっているイメージや体感の変容はしばしば共有されづらい。そんな先入観を改めさせてくれたのが、東京オペラシティ アートギャラリーで開催された「千葉正也個展」だった。本展は、木材で組み立てた亀のための空中通路に沿って亀の目線で作品が配置されるなど、従来の絵画作品の展覧会とは異なる展示手法が話題を呼んだ。そこは私には、演劇とは異なるアプローチによる視覚言語を用いた舞台装置のように見えた。

もともと千葉は、《作品を見るためにこの脚立を使う事が出来ます。》のように、絵画が独立したイメージであるとともに、別の作品を鑑賞するための指示書の機能を担うという、イメージと言語を跨ぐ作品をつくってきた。そして誘導された視線の先には実際の脚立が置かれ、作品が描く虚構の世界の言語と、現実の物質とが結ばれている。それは、脚立に登らせるという、鑑賞者の身体を振り付けることもできるし、実際の脚立に登るという行為を行なわなかったとしても、その虚構と現実を横断する視点の結ばれ方によって、「脚立に登る身体感覚」が鑑賞者の心的イメージのなかで引き起こされる。そのモードでほかの作品を見ることは、「見る」行為の時間/空間的奥行きを広げ、他の作品にも作用する。それは鑑賞における鑑賞者と作品のあいだで発生しうる、一種の「生成モード」といえるのではないか。展示室内にはほかにも覗く、座る、聞くといった、さまざまな身体性を開く視覚言語が巧みなバランスと時間/空間的配置で用いられていた。

また、《このにおいも作品に含まれます。》においては、虚構のなかで描かれた言語が、鑑賞者の身体を介して現実の展示室で皿に置かれたフライドチキンの匂いと結ばれる。さらに、いくつかの物体を叩く音源と、それらの音を発生させる物体と文字による説明が描き込まれた《無限のファクター(hitting objects)》でも、絵に描かれた虚構の物体を「見る」行為と、確かに実在する物体を人間が叩いている音を「聴く」という身体感覚が、展示室で作用し合う。図録(『千葉正也個展』)に掲載されている千葉とのトークの記録「フィクションの現実性を求めて」(117頁)のなかで、美術評論家の松井みどりは千葉の作品について、「論理的な思考の説明や表象というよりは、特殊な感情が強い感覚的効果と結び付いて生み出される心的イメージ」であると指摘する。「それは、フィクションでありながら感情的現実の像として作者と観客の生の一部になる」と。

展示室には鑑賞者が感情移入する役割としての俳優の身体は存在しない。その代わりに、作品と自分、作品と作品、作品と空間など、さまざまな「あいだ」に入り込み、イメージを生成する鑑賞者の身体がある。その鑑賞者の実存する身体に対して、展覧会という体験が働きかける試みはもっと模索されてよいのではないだろうか。文字言語的に紡がれることが多かった従来の展覧会に対して、視覚言語を野心的に用いて身体に意識を向けさせる展覧会のあり方として、特筆しておきたい。



千葉正也個展 展示風景[写真:artscape編集部]



千葉正也個展 展示風景 [©千葉正也 courtesy of ShugoArts / 撮影:武藤滋]



千葉正也個展 《このにおいも作品に含まれます。》(2019)[©千葉正也 courtesy of ShugoArts / 撮影:武藤滋]



千葉正也個展 正面:《無限のファクター(Sound of hitting objects)》 (2020) 左:《2019年名古屋でのフィールドレコーディング》(2019)[©千葉正也 courtesy of ShugoArts / 撮影:武藤滋生]

「視覚言語がつくる演劇のことば」新作短編作品『夢の男』上演&トーク

会期:2021年3月21日(日)
会場:KAAT 神奈川芸術劇場(神奈川県横浜市中区山下町281)

千葉正也個展

会期:2021年1月16日(土)~3月21日(日)
会場:東京オペラシティ アートギャラリー(東京都新宿区西新宿3-20-2)

『千葉正也個展』

発行所:美術出版社
発行日:2021/03/16

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