フォーカス

アニッシュ・カプーア「レヴァイアサン」展

太田佳代子

2011年07月01日号

海の怪物

 やがて友人に急かされ、さっきの黒い回転ドアから退場する。
 急に明るい空間にさらされ、ややほっとしながら順路を進む。すると目の前に、チョコレート色の巨大な物体がグラン・パレの長い身廊に沿って、どっかりと横たわっている。まるで陸に打ち上げられた生き物のように。さっきまで中にいた「宇宙」を、私たちはこんどは外から見るわけだ。皮膜は一方向にしか光を通さない性質らしく、中はまったく見えない。まるでマグマがグラン・パレの空間に溶け出したまま固まったかのような、強靭な曲線を描く謎の物体。レヴァイアサン(海の怪物)の存在はここで確認される。
 行き交う観客たちはまだ興奮さめきらぬ面持ちで、でも楽しそうに皮膜を叩いたり、カメラのシャッターを切ったりしている。海の怪物は巨大で、まわりをぐるっと歩いてみないと全貌がつかめない。
 はじめ、怪物の腹の中で言葉を失い、恍惚を味わった人々は、こんどはその怪物がグラン・パレの空間を制する勇姿に圧倒される。その怪物の正体は、やはり言葉を超えた次元で、しかし確実に私たちの内奥へと繋がった何かである。






グラン・パレの壮大な空間と張り合う「海の怪物」[筆者撮影]

 「レヴァイアサン」は2011年「モニュメンタ」作品として制作された、アニッシュ・カプーアの新作である。モニュメンタは、フランス政府が世界第一線のアーティストをグラン・パレに招き、新作を委嘱するシリーズ。ロンドンのテートモダンで毎年行なわれるタービンホール展の、フランス対抗版といえるだろう。いずこも同じ、フランスでもサルコジ大統領がモニュメンタの予算カットを決めたが、それにしてもこのインスタレーションには相当の費用を要したはずだ。
 カプーアも、この「レヴァイアサン」には特に力を入れたと思われる。ランドアート規模の作品をつくる彼にとっても、大勢の人間が中に入る作品、というのは珍しい。しかもモニュメンタのカタログを見ると、1985年には「オーバル・パビリオン」という、このインスタレーションの原型のひとつと思われる試作ができている。数十年、温めてきたアイデアなのかもしれない。
 とはいえ、「レヴァイアサン」がグラン・パレという特定の空間で開花したことも重要だ。実際、この展示会場をひとりの作家が埋めるのは並大抵ではないが、カプーアはここを完璧に制圧した。「レヴァイアサン」体験によって建築のスケール感も、楽しみ方も刷新されたのである。そして今後アート空間と向き合う建築家たちも、「レヴァイアサン」への参照を求められることになるだろう。
 ちなみにカプーアはこの「レヴァイアサン」を、4月初めに北京空港で拘束されたアイ・ウェイウェイに捧げた。彼はまた、その直前にオープンした北京の国立美術館のコミッションを打診されていたものの、アイ監禁への抗議として、断ったといわれている。そのアイは6月22日、80日ぶりに保釈されたが、今後1年間は事実上の軟禁状態。彼にとって非常に厳しい1年が始まった。

アニッシュ・カプーア「レヴァイアサン」展

会場:グラン・パレ(フランス・パリ)
会期:2011年5月11日〜6月23日

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