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「ヨコハマトリエンナーレ2011」に求められるもの──大きすぎず、難しすぎず、新しすぎず……

村田真(美術ジャーナリスト)2011年08月15日号

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 人は国際展になにを求めるのか──。人といっても主催者、美術関係者、一般市民など立場によって求めるものは異なるだろうし、どこの国の、どんな規模の国際展かによっても違ってくるはずだし、求めるものもひとつとは限らない。ここでは漠然と「国際展はなぜ開かれるのか」という問いでもいい。
 その答えとして考えられるのは、(1)現代美術の国際的動向や最新の流れを広く知るため、(2)世界中から集まるアートの祝祭を楽しむため、(3)展覧会のテーマや作品について考え、アートの知見を深めるため……。ほかにも、アートな空気が好きだからとか、友人に誘われてついてきただけとか、ミもフタもない答えもあるだろうが(じつはそれが大半だろうけど)、とりあえずこれくらいにして。
 さて、横浜トリエンナーレ(以下ヨコトリ)はこのうちどれに当てはまるだろうか。振り返ってみると、4人のディレクターが「メガ・ウェイブ──新たな総合に向けて」を掲げた2001年の第1回展は、間違いなく(1)だった。しかし川俣正がディレクターに就任し、「アートサーカス(日常からの跳躍)」を謳った2005年の第2回展は(2)ではなかったか。ならば、「タイムクレヴァス」をテーマに水沢勉がディレクターを務めた2008年の第3回展は(3)ということになろうか。
 いささか我田引水気味の分類ではあるが、大筋では間違っていないだろう。このように毎回求められるものが異なる、もっと端的にいえば焦点が定まらない国際展というのは、世界広しといえどかなり珍しいのではないか。これは、すでに4回を数えるのに開催場所が一定しないホームレス性とともに、ヨコトリ最大の「特徴なき特徴」といえるかもしれない。これならマンネリズムに陥る心配はないけれど、毎回ゼロから国際展を立ち上げなくてはならず、不合理きわまりない。川俣が提唱したアーカイブづくりが急務とされよう。
 それはともかく、では今回のヨコトリに求められるものはなんだろう。


ヨコハマトリエンナーレ2011、チラシ

美術館のコレクションも動員、その成果は?

 今回メイン会場となったのは、横浜美術館とBankARTが使っている日本郵船海岸通倉庫の2カ所。総合ディレクターは横浜美術館館長の逢坂恵理子さんで、実際に展覧会を組み立てるアーティスティック・ディレクターには三木あき子さんが選ばれた。美術館を会場にしたのは逢坂館長がディレクターに指名されたからと思いがちだが、順番としては、2009年に、ヨコトリのディレクターになることと、美術館を会場に使うことを前提に逢坂さんが館長に就任した、というのが正解のようだ。
 彼女たちが掲げたタイトルは「OUR MAGIC HOUR」という館長得意のダジャレっぽいもの。しかしこれでは意味が伝わらないので、日本語では「世界はどこまで知ることができるか?」となっている。噛み砕いていえば、いくら科学が発達しても世界には未知の領域が残されており、それを垣間見せてくれるのがアートというマジックだということらしい。たしかに同展にはマジカルでプリミティブな作品が散見されるが、アートのもつ魔術性は先史時代の洞窟壁画から20世紀のシュルレアリスムまで広く見られ、特殊なものではないので、あまりタイトルに引きずられる必要はないだろう。
 それより今回の特筆すべき点は、横浜美術館のコレクションが何点か出品作品として選ばれていることだ。クラシックな常設コレクションに現代美術をまぎれ込ませる手法は、ずいぶん前からドクメンタなどでも試みられ、そのギャップがインパクトを与えていた。しかし横浜の場合、出品されているコレクションはシュルレアリスムを中心とする20世紀美術ばかりなのでギャップが小さく、インパクトが弱い。
 たとえば、悪夢のような非現実的光景を描いた石田徹也の作品の隣に、マグリットやデルヴォーらシュルレアリスムの絵画を並べた展示は、説明的すぎてくどい。また、磁気テープを巻いて球状にした八木良太の作品や、氷に円を描いて解けていくプロセスを撮ったツァイ・チャウエイの映像の奥に、イサム・ノグチの円環状の石彫を置いたのは、たんに同じ「丸い」というだけの理由だろう。イサム・ノグチが引き立て役になってしまっている。もっともそう感じるのはごく一部の美術関係者だけで、99%以上を占める観客にとっては「わかりやすい」展示なのかもしれないが。
 さらに美術館以外からも、湯本豪一の妖怪画コレクションを拝借したり、石田以外にも砂澤ビッキや工藤哲巳ら物故作家の作品も展示されているが、たしかに砂澤や工藤らの作品と久々に出会えたのは貴重な機会ではあるけれど、いずれもマジックというテーマを補強するための助っ人として駆り出されたとしか思えず、とってつけたような印象は否めない。新と旧、科学と魔術、アートとヴァナキュラーなものを対比させるなら、杉本博司くらい確信的にハッタリをかまさなければ説得力を持たない。
 数えてみると、美術館での展示は計58組で、うち館のコレクションが9組、その他のコレクションや物故作家が8組あり、全体の約3割を占めた。今回初めて横浜美術館を訪れる客も多いだろうから、少しでもコレクションを見せたかったという思惑があるかもしれないが、いつでも見られるコレクションを出すくらいならもっと未知のアーティストに場所を与えてほしかった、というのが個人的な感想だ。三木さんは内覧会の記者発表で「新しさや国際性というものをもういちど問い直したい」と述べていたが、そのふたつは国際展を支える根幹にほかならない。かくも国際展に求めるものは異なっているのだ。

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村田真

1954年生まれ。『ぴあ』編集部を経て、美術ジャーナリスト/BankARTスクール校長。著書=『美術家になるには』ほか。共著=『橋を歩いてい...

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