フォーカス

震災、文化装置、当事者性をめぐって──「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の設立過程と未来像を聞く

甲斐賢治/竹久侑

2012年03月15日号

 東日本大震災発生直後の混乱のなか、せんだいメディアテークは市民が自分たちの暮らしを記録するためのメディアセンター「3がつ11にちをわすれないためにセンター」を立ち上げました。その設立プロセスとその後の展開の様子はソーシャルメディアを通じてライブで発信され続け、現在も興味深い活動を続けています。震災発生から一年が経過したいま、事業の中核を担う甲斐賢治氏(せんだいメディアテーク企画・活動支援室長)にこの一年の活動についてお話しをうかがいました。聞き手は、水戸芸術館現代美術センターの竹久侑氏。

底上げされた当事者性

竹久侑──3月の地震があってからTwitterをよく見るようになりました。そんななか、かなり早い段階でせんだいメディアテーク(smt)が動き出したという印象があります。smtはメディアセンターということもあると思いますが、表象としての芸術にこだわることなく、「いまここで生きていくためになにが必要か」というレベルの創造性が立ち現われていくようでした。地震が起きたあと、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(「わすれン!」)立ち上げまでに、どんなことを考えながら動いていたのでしょうか。
甲斐賢治──日頃からケータイでPCのメールも見ているので、地震が起こった直後からとにかくたくさんの人からメールが届いていました。それで、一斉送信用に何十人もの人のメールアドレスをリストにまとめました。そのなかには、たしか、OurPlanet-TV市民メディア全国交流協議会アートNPOリンクなどのメーリングリストや、阪神・淡路大震災のときに多言語ラジオをつくったFMわぃわぃの日比野純一さんなど、僕が親しくしている知人もいれました。はじめの3日間くらいは、毎晩、避難所となっていた市庁舎に帰り夜中11時から1時くらいまで、こちらの状況を説明するレポートのつもりでメールを書いていました。もちろん僕の知る範囲でですが。そのメールをsmtのコンセプトを考えた桂英史さんも見ていて、「お前もTwitterしろ」と言うので、スタッフにやり方を聞いて、@kai_sendaiをはじめました。それが3月14日です。そのときには「わすれン!」のことは考え始めていたと思います。
 まずはじめに頭に浮かんだことは大きくふたつあって、ひとつは、市民としてのいわば「当事者性」が急に底上げされた気がしたこと。それによってビデオカメラを持つ必然が生まれるかもしれないと。もともと、僕はremo(記録と表現とメディアのための組織)というNPOで個人によるメディア表現をテーマに、アーティストのレジデンスや、小学生と映像のワークショップなどをやってきたので、そういう文脈で映像をとらえてきており、いまこそ市民メディアセンター(「わすれン!」)のような機能が必要なんじゃないかと思いはじめました。もうひとつは、こういう事態だからなんらかのエネルギー転換をしなくてはいけないと思ったことです。12日の朝に市役所のモニターでヘリコプターから撮影された津波の映像を一瞬だけ見て、すごいことになっているなと。そういうときだからこそ、ネガティヴなものからなにが得られるかを考え始めたわけです。


地震直後のせんだいメディアテーク7階

「市民メディアセンター」のイメージ

甲斐──「わすれン!」は、2008年の洞爺湖サミットの時期につくられた市民メディアセンター「G8メディアネットワーク」)をモデルにしています。洞爺湖サミットの1週間は、札幌市内に、人権、平和、労働、農業、女性問題など、あらゆる分野の社会活動の人たちが集まって来ていました。そして、市内の公共施設や大学などで、連日のように講演やシンポジウムなどが開催されていました。「G8メディアネットワーク」は、そのような市民活動の現場を、市民自ら発信しようとする取り組みで、僕もひとりのボランティアとして関わりました。メディアセンターには、海外からも本当に多くの人々が来ていて、それぞれ思い思いに情報を発信していました。
 そういう市民メディアセンターをイメージして、ペラ1枚の企画書をつくり、smtのスタッフや所管の生涯学習課などとの話し合いを始めました。「震災の復興プロセスを記録する市民メディアセンター」みたいな企画です。当初の構想では、記者会見ブース、放送局など、確か7つぐらいのファシリティがありました。記者会見というのは、NPOのような市民活動側からテレビや新聞へ、情報源を提供するためのものです。でも実際には、NPOに広報という機能をイメージできる人が少なかったこともあって、とにかく情報をそのまま発信してもらうことにしました。複数の視点の情報が入るようにしたほうがいいし、そのまま記録もできるので、記者会見ブースをUstreamの収録スタジオに切り替えたのです。
 smtにはもともと、市民がプロジェクトを企画・登録して、申請が通ると機材と制作環境が無償提供されるというシステムがあります。プロジェクトでつくったものを納品することが登録条件で、それがライブラリーに並んでアーカイブされ、また市民に活用されていく、つまり、発信(ライブラリー)と記録(アーカイブ)のためのシステムです。『せんだいメディアテーク コンセプトブック』にはそのイメージが示されていたものの、実際はそのワークフローがなかなかうまく稼働できていなかったので、その体制に戻そうという話を、僕がsmtに来た2010年の春からずっとしていました。


『せんだいメディアテーク コンセプトブック』(NTT出版、2001)

せんだいメディアテークのポテンシャル

甲斐──smtは仙台のシンボル的な施設なので、仙台市としてもいちはやく再開したいといわれて、まずは図書館機能から開くことにしました。復旧工事も徐々に入って、5月にはオープンできそうな目処がたちました。ところが、smtは収蔵品を持っていないので、いつもはおもに貸し館として施設が動いているものの、震災直後に借りる人なんかいません。そんな状況で企画を考える必要がありました。
 整理すると、4つの条件のもとで事業計画を立てる必要がありました。①予算が凍結状態になる可能性があったので「ゼロ円でできる」、②生涯学習施設という「政策に合致している」、③立ち上げた事業の「スキームをスタッフがすでに持っている」、最後に、④「民意的に共感できるか」。なので、スタッフには、「市民メディアセンター」というイメージしにくいものを、「もともと7階に設定されていたワークフローをそのままやればいい」と説明しました。
 そうやって、smt内と所管の生涯学習課は整理できたのですが、僕の所属する財団への説明が後手となってしまい「なにをやってるんだ、勝手に」となりました。おそらく4月の半ばです。それで、あわてて説明に行きました。そこでまっさきに指摘されたのが、市民からの映像がどのようなものかわからず、無防備にアップされてしまうのではないかという懸念でした。「人がどうやって暮らしていたかを記録していくだけでいい」と説明したのですが、それでもたしかに行政施設としての不安要素は拭えません。最終的には「全部の映像を僕が見ます。そのうえで判断して出します」と言うことで、了承を得ることができました。
 もうひとつの課題はやはりお金でした。ちょうど「地域映像アーカイブ」という事業を、緊急雇用創出事業として2〜3年前からやっていました。たとえば市役所が持っている古い写真をデジタライズしてデータベース化していく仕事です。2011年もやる予定だったけど地震が来た。それで、市民メディアセンター(「わすれン!」)も地域映像アーカイブと言えるので、「震災の地域映像アーカイブ」ということに読み換えてもらえないかと掛け合って、その予算を使えるようにしました。これによって、いろいろな機材や人を整えることができました。こうして「わすれン!」のエンジンが掛かっていきました。
 だから、すべて政策に則って説明ができる動き方なんです。以前から市民メディアの動きが僕の経験としてあって、smtに記録をアーカイブして公開していく仕組みがそもそもあって、お金が揃った。その3つがリンクしたわけです。
竹久──smtのそもそものミッション、実装されようとしていた仕組みとこれまでの実績、そして甲斐さんの経験知があったらからできたというわけですね。こんなストラテジーを震災直後の混乱のなかで立てていたとは。


甲斐賢治氏