フォーカス
問われる建築家像──ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展のアジェンダ
吉村靖孝(建築家)
2012年10月15日号
ヴェネツィア・ビエンナーレが2年に一度開かれているとお思いの御仁はご注意願いたい。1895年に美術分野の国際美術展が開催されて以降、1930年に音楽祭、1932年に映画祭、1934年に演劇祭、そして1975年に建築展が加わり、1999年には音楽からダンスが独立して現在では6つの芸術祭部門が運営されているが、そのうち美術展と美術の非開催年に催される建築展以外は、実は毎年開催されるイヴェントである。隔年開催を意味する「ビエンナーレ」という用語が広く使われるようになったのはこのヴェネツィア・ビエンナーレに端を発すると言われるが、本家では事業拡大にともない当初の意味合いが薄れ、前述の6部門に歴史アーカイヴ部門を加えた7部門を擁する一大アート・インスティテューションの名称になっているのだ。
なかでも、華やかさにかけてほかのどの部門の追従も許さないのが映画祭であるが、今夏は北野武の『アウトレイジ ビヨンド』のコンペティション参加などで日本でも話題になった。そしてその第69回国際映画祭の開始日と同日、8月29日から第13回国際建築展がはじまった。同日オープンということでプレイヴェントがはじまる前数日からヴェネツィアは関係者でごったがえし、めぼしいビストロやトラットリアは予約客で溢れ、コンビニエンス・ストアもスーパーマーケットもないこの街では食事にありつくことすら困難になるほどであった。
しかしそれでも、一部の観光スポットとそれらを結ぶ主要な街路の喧噪を除けば、ほかは閑散としたものである。脇道に一歩分け入れば、道に誰もいないだけでなく、ほとんどの窓が閉まりまるで人の気配がないのである。イタリア人は窓を開けずに過ごす習慣があるため、雨戸が即空家を意味するわけではないが、15世紀には15万人いた本島の人口が、現在ではメストレなど内陸部への流出が進み6万を割り込んでいるというから、閉ざされた雨戸をこじ開けたところで内側に生活の実態はないかもしれない。コンビニやスーパーだけでなく、床屋や電器屋など生活に最低限必要な商店がないのだからこの傾向はしばらく止まないだろう。
人口流出、地盤沈下と海面上昇、環境破壊、産業の衰退といったさまざまな危機に瀕する都市ヴェネツィアのモルヒネ。それが21世紀初頭のヴェネツィア・ビエンナーレが担う重要な役割だろう。イタリア国王ウンベルト1世の銀婚式を記念してはじまり、戦前は枢軸国のプロパガンダ(その目で見るとパヴィリオンの配置は興味深い)、戦後は大国主義、商業主義によるパワーゲームの舞台となった芸術の祭典も、変化の渦中にある。
特に今夏の建築展は、総合ディレクターを務めたイギリスの建築家ディヴィッド・チッパーフィールド自らが変化を問うた。総合ディレクターは、造船所跡地アルセナーレで行なわれるテーマ展示のテーマ決定と人選を行ない、またジャルディーニ公園のなかに建つビエンナーレ発祥の地、かつての展示宮殿(イタリア館→ビエンナーレ館)内の展示に関する責任者でもある。一方、ジャルディーニとアルセナーレに分散する各国館は、各国がそれぞれディレクターを立ててテーマ設定と人選を行なう。総合ディレクターによるテーマの記者発表は5月に行なわれたが、この時点で各国の参加体制はおおむね決定しているため、厳密に言えばテーマを背負う義務はない。つまるところ建築展は、総合ディレクターのキュレーションによる世界最大規模のテーマ展示とオリンピックになぞらえられる各国館の展示合戦、そして市内各所に分散する美術館や美術系財団主催の公式関連展や非公式の各種同時開催イヴェント(話題になったMVRDVのLEGOはこの枠)からなる巨大なお祭りなのである。しかしチッパーフィールドはビエンナーレの混沌を「動物園」と揶揄し、「ビエンナーレは、今この瞬間誰がホットかを決める『Xファクター』(英FOX配給のオーディション番組)ではない」と煽る。
そのチッパーフィールドが掲げたテーマは「コモン・グラウンド」である。字義通り「共有の土地」にさまざまな意味が重ねられ、これまで多く用いられてきた「パブリック・スペース」から一歩踏み込んで、建築家同士が、建築家と市民が、あるいは市民同士が共有可能な地平を問うている。作家的な建築家像の限界を指摘した彼は、「建築家がこれまで扱うことのなかったのこり99.99%に職域を拡張しなければならない。さもなければ、われわれは単なる都市装飾業者と見なされるリスクを負う」と言い放った。
さて長い前置きとなってしまったが、以上が伊東豊雄コミッショナー、乾久美子、藤本壮介、平田晃久と写真家畠山直哉による日本館の展示が金獅子賞に輝いた背景である[fig.1-3]。前回の受賞が阪神淡路大震災の展示(1996)で、今回が東日本大震災の展示であることから、激励受賞と揶揄する向きもあるかもしれないが、それはとんだお門違いである。複数の建築家による協働、またディレクターとの世代を超えた協働、写真家との分野を超えた協働、またまさしく建築家の社会的責任と建築家としての作家性の間で揺れ動く設計プロセスそのものの展示という、これを「コモン・グラウンド」と呼ばずして何をそう呼ぶのか。そういう展示であった。「コモン・グラウンド」というテーマ自体が、巨大化・商業化したビエンナーレに対する自己批判から導き出された、まさしく「コモン・グラウンド」だったのだから、日本館の展示にはビエンナーレという枠組み自体への批評が写し取られていると言い換えてもよい。
もちろんそういった背景にうまく同調できたことだけが受賞理由ではなかろう。使いにくいと言われる日本館の展示としても呻らされる点が多くある。「ここに、建築は、可能か みんなの家」と題された今回の展示は、陸前高田で被災した丸太を会場まで運び、建物を貫くように打ち立て、周囲の壁には最新のデジタル技術(カメラPhaseOne645DF+デジタルバックIQ180)による建設予定地付近で撮影した超高解像度の写真が高さ4.5m、幅60mの壁面一杯に引き伸ばされている。地平線が目線の高さにあり、歪みがない正方形の建物形状との相乗効果で、まるで被災した現地を見ているかのような錯覚に襲われる。そして、会場視察の際にジャルディーニ内の伐採樹木を譲り受けてつくったという展示台に無数のスタディ模型が載る。当初「みんなの家」の現物を展示するつもりだったものを、展示のために工事を遅らせるわけにはいかないとの判断からスタディ模型中心の展示に切り替えたそうだが、これが功を奏した。もともと、迫真の美術展に比べ建築展は余興的と嘲笑の的になることも多いのだが、スタディにはリアルがある。今回「コモン・グラウンド」に引き寄せられて、多数の模型を展示した国が複数あったが、単に若手建築家の近作を並べただけの国や、ヴァリエーションを水平展開しただけの国の展示とは比較にならない、圧倒的なる情報量で見入ることを迫る展示であった。大いなるプレッシャーのなかで、見事金獅子賞を射止めた日本館関係者のみなさんにはあらためて最大級の賛辞を送りたい。
ところで、今夏のビエンナーレには日本館以外にも多くの日本人が参加している。アルセナーレのテーマ展示は、名だたる建築家たちがチッパーフィールドの求めに応じ、非作家的側面を掘り下げるという実に興味深い展示なのだが、妹島和世はここで宮城県東松島市宮戸島の復興計画を展示している。ほかにも建築家のイメージの源泉をコレクションしたスイスの建築家ヴァレリオ・オルジャティによる展示のなかで、長谷川豪、石上純也、藤本壮介といった面々のイメージ・ソースを垣間見ることができる。
市内ではパラッツォ・ベンボという新しい公式関連展示会場で磯崎新が中国鄭州での都市計画に関する大規模な展示をしている[fig.4]。黒川記章の都市計画を引き継ぐようにして人工湖上に計画された楕円形の人口島の模型は圧巻である。外周部の超高層ビル群は著名建築家たちによる設計が決まっているが、その内側に建つ中層のビル群を、展示期間中順次コンペを行ないながら決めるという。配置は左右対称なのだが左右のうち一方を従来型の審査員によるコンペ、もう一方をインターネットによる投票で選ぶ試みがなされる。視聴者参加型のオーディション番組、あるいは食べログやトリップアドバイザーといった、あたらしい評価軸の台頭に対する建築界の反応を先取りする。1997年の「海市」で試みられたシグネチャーズ、ヴィジターズ、インターネットという3つの層の現代版であることも興味深い。これもまた実に「コモン・グラウンド」的な展示だと言えるだろう。
実はこのパラッツォ・ベンボでは、筆者・吉村靖孝も小さな壁面展示を行なっている[fig.5]。建築家による独創的な意匠が周辺の建物に及ぼす影響を観察し、それを街並みの萌芽状態と捉え、伝染都市と呼んで、「似たもの同士」の建物をコレクションした。シリンダー、ワッフル、赤白など、形状、ディテール、色のタイポロジーを9種類挙げ、それぞれに10〜15の事例を集めて500頁のメモパッドに順に印刷した。頁をめくるたびに絵柄が変わるため、展示開始当初きれいな9グリッドだった壁面が、次第に複雑になっていく。来館者の参加でここに小さな都市が出現する。これもまた「コモン・グラウンド」に対する応答といえるだろうか。