2018年08月01日号
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フォーカス

【パリ】偉大な科学者の功績を展示する方法──「実験者、パスツール」展

栗栖智美(美術ライター、通訳、コーディネーター)

2018年04月01日号

パリは年明けからセーヌ川の増水と大雪による交通機関の麻痺など自然災害によるアクシデントに見舞われたが、ようやく肌寒さの中に春の気配を感じられるようになった。インフルエンザ・ワクチンを打ちましょうという広告も落ち着き、三寒四温を繰り返しながらパリは夏のバカンスに向けて陽気さを取り戻そうとしている。
今回訪れたのは、グラン・パレの科学技術博物館「発見の殿堂」で開催中の「実験者、パスツール(PASTEUR L'EXPÉRIMENTATEUR)」展だ。細菌学者パスツールの功績を演劇仕立てにした展覧会を見る前に、会場となったグラン・パレ周辺について触れてみたい。


展覧会入り口でパスツールの一生をプロジェクションする彫像

会場となったグラン・パレはプティ・パレ(現在はパリ市立プティ・パレ美術館)と向かい合い、セーヌ川に架かる37の橋のひとつアレクサンドル三世橋を挟んで左岸のアンヴァリッドへと続く。この一帯は、1900年のパリ万博のために建設されたものだ。橋のたもとの黄金に輝く華麗な女神石柱と、黄金のドームを頂くアンヴァリッドへの景色は、人々を19世紀のパリにタイムトリップさせてくれる。


アレクサンドル三世橋からエッフェル塔を望む

グラン・パレは現在、非常に大きな文化施設の集合体で、Nefと呼ばれる企画展示ホールではアート・フェアのFIAC、ファッションショーから移動遊園地までさまざまなイベントを行なっている。グラン・パレ・ナショナル・ギャラリーでは近現代美術の展覧会を中心に開催しており、また天井の高い開放的なミニ・パレというカフェ・レストランもパリジャンの憩いの場になっている。

メトロのシャンゼリゼ・クレマンソー駅を降りてアレクサンドル三世橋へ続く道が正面だとしたら、グラン・パレをぐるりと回った裏側にあるのが科学技術博物館「発見の殿堂」である。ここは科学技術に関する展示をしている博物館であり、観光ガイドにもあまり載っていないので知らない人も多いかもしれない。今回はここで8月まで開催されている企画展示にスポットを当ててみたい。


最初の展示室では、パスツールの一生とフランスの科学発展史を絡めた展示

5つの業績と知られざる顔

パスツールは、フランス人にとって偉大な歴史的人物の一人だ。1822年にジュラ地方の革なめし職人の息子として生まれたルイ・パスツールは、1895年に亡くなる際には、世界屈指の生化学者かつ微生物学者、近代細菌学の父と呼ばれ国葬されたほどの人物である。化学者としてのスタートは凡庸と評されたが、化学、生物学、微生物学、医学の分野で次々と注目すべき功績を残した。

ちょうど彼が生きた時代は激動の19世紀。政治体制は王政─第2共和制─第2帝政─第3共和制と変化し、フランスの植民地が拡大した時代だ。科学技術も発展し、その成果として、1900年のパリ万国博覧会という世紀の一大イベントが開催され、世界中からパリが注目された黄金の時代である。



パスツールが好んで描いたポートレイト

企画展覧会はプロローグとエピローグを挟んで、彼の業績を5つの部屋に分けて展示している。プロローグでは、パスツールの生きた時代背景を、科学技術の発展史とともにビデオ映像と大きな写真パネルを中心に見ていく。例えば、彼が5歳の時にニエプスによる初の写真が発表され、15歳の時にはパリとサンジェルマン=アン・レイを結ぶ鉄道が敷かれた。翌年にはダゲレオタイプの発明、24歳の時に海王星が発見され、32歳の時にナダールの写真館が登場する。39歳の頃、パリはオスマン市長によるパリ改造計画で現在の美しい街並みが出来上がる。パスツール研究所ができたのは彼が65歳の時。2年後、万博のために作られたエッフェル塔が一般公開される。彼が73歳で亡くなる年、リュミエール兄弟の映画が発表された。

特筆すべきは、化学者となる前のパスツール少年を虜にした絵画の数々だ。あまり知られていない事実であるが、彼はパステル画とリトグラフが好きで、13歳から20歳の間に家族や近親者のポートレイトを40枚も残している。芸術と化学。一見正反対に見える分野であるが、パスツールのその後の功績を見ると、彼の世紀の発見は、芸術家としての視点があったからではないかと思わずにはいられない。



光学異性体の原理を説明する装置

彼の最初の功績は「結晶と非対称性」という名の展示室に集められている。1847年から57年の間に行なわれた実験による発見だ。化学の難解な話になるので端折るが、ワインの発酵によって発生し革なめしに使う(彼には革なめし業を営む父がいた)酒石酸という物質がある。たまたま事故で偶然に出来た酒石酸とほぼ同じ物質は、光を通すと酒石酸と同じ反応は起こさない。この違いは何なのかという疑問から、結晶を作るなど実験を繰り返した末、大きさや組成分子が同じにもかかわらず、左右が鏡合わせに対照になっている「光学異性体」を発見したのである。簡単に言うと、「手」としては全く同じなのに「右手」と「左手」と鏡合わせの形を持つ分子があるということだ。現在の有機化学の分野では当たり前の話であるが、これを発見したのはパスツールである。これを、大きな結晶の模型や、光を通すと反応が違うという装置を触ることで、鑑賞者に身近に感じてもらう展示となっていた。

先ほど、少年時代にリトグラフを好んだと述べたが、紙に写ったイメージと石板の画の左右反転の発想が、結晶の鏡合わせの対照の発見へと繋がったのかもしれない。この結晶学の博士論文が認められ、パスツールはストラスブール大学の化学の教授に就任し、エリート街道を歩むことになった。



醸造中のワインの瓶に見えるが、中を覗くとワインの発酵に関係する細菌を見ることができる装置

2つ目の展示室では彼のもう一つの大きな発見である「発酵」をわかりやすく展示している。当時、発酵とは糖の分解によって起こると信じられてきたが、パスツールは、微生物による反応で起こることを証明した。現在、乳製品を低温殺菌することを、フランス語では「Pasteurisé(パストリゼ)」、英語で「pasteurisation(パスチャライゼーション)」というが、この言葉は発見者であるパスツールの名から命名されている。

また、アルコール製造者からワインの劣化の原因を調べて欲しいと依頼され、ワインを劣化させる寄生虫や細菌がいることを発見。繁殖しないようにワインを加熱殺菌する特許を取っている。顕微鏡を見ながら、細菌を模写してみる装置や、ワインの腐敗原因となる微生物を見る展示もある。化学の世界を飛び出し、生物学や微生物学へと傾倒していくパスツールの転機となった研究であるが、実はワインやチーズといったフランスの食文化の発展にも大きく貢献しているのが興味深い。

3つ目の展示室は、「自然発生説論争」について。自然発生説とは、アリストテレスが提唱したといわれるもので、「生物の発生は、親の体からではなく物質から一気に生まれるものもある」というものだ。2000年近くも支持された理論であるが、近代になってさらに論争が激化した。肉眼で見ることができるものに関しては自然発生を否定するのは難しくないが、17世紀に微生物が発見されてからは、その自然発生を否定することが困難を極めていたのである。それを、有名な白鳥の首の形をしたフラスコの実験を通して、目には見えないが空気中にも微生物がたくさん浮遊していることを証明したことで、論争は終焉を迎えたと言われている。

4つ目の展示室は「カイコの病気」について。これまで彼が行なってきた「微生物が発酵や腐敗の原因となる」という理論は、「動物の病気の原因にもなりうる」ということにつながる。当時養蚕業者を困らせていたカイコの病気の原因が、微生物であることを突き詰めたことで、のちの感染症予防の研究の橋渡しとなった。蚕から絹ができる様子が動いて観られる回転覗き絵の装置があり、これもまた映像の黎明期を生きたパスツールの時代感を表現している。

ゲーム仕立ての展示で楽しく、わかりやすく

「ワクチンと病気」と題された5つ目の展示室が、おそらくパスツールの最も大きな業績だろう。カイコの例から、微生物が動物や人間の病原にもなることを結論づけた。18世紀末にイギリスのジェンナーによる「種痘」の発見で免疫学の研究は進んでいたが、パスツールは、弱毒化させた微生物を接種することで免疫を得ることができると発見。ワクチンの予防接種を生み出した。実際に、鶏コレラ、羊の炭疽菌、狂犬病のワクチンの開発に成功している。最初は鶏や羊、犬へのワクチン接種をしていたが、ジョセフ・マイスター少年に狂犬病ワクチンを接種したところ効果が認められたことから、次々と彼の元を訪れる人が続いた。そして1887年、狂犬病予防法の確立をたたえて、世界中からの寄付金によりパスツール研究所が建設された。開所式にはフランス大統領が列席したことから考えても、国家が彼の感染症予防のワクチン研究にどれだけ期待をしていたかがうかがえる。



鶏にワクチンを打って生存させるゲーム仕立ての装置

展示室中央に大きな羊の像を置き、そこに映像をプロジェクションしたり、さまざまなエピソードを演劇仕立てで見せたり、ゲーム感覚でボタンを押したりと読み物だけでなく、楽しみながらパスツールの業績を学ぶ展示室になっている。



免疫学をアニメーションでわかりやすく学ぶことができる

最後のエピローグでは、現代の研究室のような真っ白な空間に、ビデオやパネルを用いて現代の細菌・ウィルスなどの研究がどのように進んでいるかを展示する。免疫についても、可愛らしいアニメーションを使ってシンプルに説明してくれているので、大人も子供もわかりやすい。パスツールが研究を重ね、解明することができた数々の業績のその後の発展が見える展示になっている。


晩年に建設されたパスツール研究所は、今もパリの6番線「パスツール」駅の近くにある。1983年にHIVウィルスの発見したのも、彼の研究所の後継者たちであった。ここからはノーベル賞受賞者を10名も輩出している。現在、世界33箇所の研究所を集結させた公衆衛生の研究と教育の国際協力ネットワークの中心としてパスツール研究所は位置し、パスツールが抱き続けた研究への情熱は、120年以上たった今も、しっかりと受けつがれている。



「発見の殿堂」の壮麗な内部装飾

1938年に開館した科学技術博物館「発見の殿堂」は、石造りの壮麗な内装に現代の科学技術のエッセンスが、たくさんの映像や模型、体感型装置などとともに展示されている。主に子供への教育普及を目指しているため、毎日専門家による数多くのワークショップも開催され、観て、聞いて、触って、実験して体感するミュージアムとなっている。今回の「実験者、パスツール」展もまた、映像を多用し、彼の発見がわかりやすく体験できる装置やクイズ形式の装置など、さまざまな工夫が施され、難解な化学に苦手意識を持つ鑑賞者もフランスが生んだ英雄の功績を楽しく学ぶことができる展示であった。現在の化学、細菌学、免疫学の分野を大きく発展させただけでなく、ワクチンや、チーズの発酵、ワインの防腐など、私たちの日常生活でもおなじみのものがパスツールの功績によるものだと発見するのも、楽しいものだ。たまには、こういった科学系ミュゼで日常生活の当たり前の起源を探すのもいいかもしれない。

「実験者、パスツール(PASTEUR L'EXPÉRIMENTATEUR)」展

会期:2017年12月14日(木)〜2018年8月19日(日)
会場:グラン・パレ 科学技術博物館「発見の殿堂」
Avenue Franklin Delano Roosevelt 75008 Paris

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