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バウシュがくれた〈意味の宙づり〉

木村覚2009年07月01日号

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 ピナ・バウシュが逝去した。享年68才、死因はがんだった。
 師事していたクルト・ヨースの提唱するタンツ・テアターの代表的存在だったバウシュは、しばしば、20世紀ドイツを代表する表現舞踊の継承者としてとらえられがちである。そうした点は無視できないとしても、彼女の確立した方法論は、モダンダンスというよりむしろその後のポスト・モダンダンスの水脈に繋がっていたと考えるべきだろう。単一の日常的な動作を執拗に反復し、そうすることで彼女は、既存の演劇ともダンスとも結びつかない独自のダンスを生み出した。

揺れ続ける解釈

 例えば、『コンタクトホーフ』(初演:1978)では、スリップドレス姿の女の周りにスーツ姿の男たちが群がると、女の体の部位をあちこち、つねったりなでたりしてひたすらいじってゆくシーンがある。女は抵抗することもなく、男たちのしたいようにさせている。痛々しくて、一瞬、セクハラの実演?なんて思わされて、女性の振付家がなぜそんなシーンをつくるのかなどと観客は戸惑う。しばらくすると、シンディ・シャーマンの初期作品のように、男たちにしたいように振る舞わせることで男の欲望の姿を明るみにしてしまう鏡の機能を、この女が果たしているように見えてくる。しかし、そう解釈してもまだ男たちの手は休む気配がない。すると意味のレヴェルは麻痺しはじめ、次第にその手の運動だけが見えてくる。つまむ、くすぐる、さする、いじる、なでる手。よく見ると、その手は単刀直入に核心部分には触れず、だからあからさまセクハラにはならない。セクハラなどという意味に簡単に奉仕することなく手は自らの振る舞いを見る者に堪能させることとなる。
 ぼくにとってバウシュの方法というのは、このような〈意味の宙づり〉にある。宙づりにされ、解釈があっちこっちに揺れ続ける。バウシュのダンスとは、見る者の内に起こるこの揺れのことなのではと、そんなことさえ思ってしまう。ぼくがはじめて見たバウシュ作品は『船と共に』(彩の国さいたま芸術劇場、1996)だった。タイトル通り難破船が奥で座礁している舞台には、砂が大量に敷き詰められていた。その上をときにロングドレスの女が長い髪を振り乱しながら激しく情感的に踊る。それ自体見物なのに、脇から男がホースで女に水を執拗に吹きつけている。女はなぜ踊っているのか、なぜ砂の上なのか、なぜ男が水をかけるのか、皆目わからない。男の行為は愛から?憎悪から?わからない。すべては宙づり。ダンスに没頭することも笑いに終始することもどちらも拒まれる。「わかった気にならないでね」、バウシュからそんな風に諭されている気がしてくる。そうして延々と宙づり状態にされていると、今度は、心の内に溢れてきた解釈の数々のほうに注意が向き出す。自分という人間がものをどう見ているのかがすっかり暴かれてしまう。こうしてバウシュ作品の前で観客は丸裸にされ自らの罪(多い生き方)を告白し、懺悔をすることとなり、それによってすっきり爽快になり、またそのことですっかりバウシュのファンになってしまうのである。
 ぼくもまた、そうしたファンの一人だった。学生時代は高額のチケット代を確保するのが大変で泣かされたけれど、ともかく日本で公演があれば欠かさず見に行った。そして、その度に、先述したようなある種の浄化を経験してきた。

「不快の快」から「快楽」へ?

 しかし、ある時期から、バウシュ作品を見るのがおっくうになってきた。ソロのパートが多くなり、それに応じて複数の可能性が漂う〈意味の宙づり〉よりも、ひとつの方向へまっすぐ突き進んでゆく単純さへの志向が目立ってきたのだった。かつてよりも楽観的で明るい舞台になっていった。そうしたポイントが気になった。この変化に対して冷静な眼差しを向けぬまま相変わらずの称賛を続ける日本の言説に不満を感じた。ぼくにはそれは批評から美学への変節、あるいは〈意味の宙づり〉という不快(を起点にした快)からシンプルな快楽への変節に見えた。
 この変節は、しかし、バウシュに限ったこととも言い難く、むしろ世界的な傾向と言えるものであった。今年のマリー・シュイナールの公演などは、その一例だろう。それ故に、後退なのか前進なのか判然としないところがあって、そうした点を丁寧に反省してみることこそ、バウシュへのよき追悼になるのではないかと考えている。
 バウシュの作品からなにを受け取るかが、コンテンポラリー・ダンスというもののヴァリエーションを生んでいると言っても過言ではないくらい、今日のダンスは、バウシュの遺したものから無数のアイディアを負っている。そのはずが、バウシュのアイディアの今日的可能性について、じっくりとふり返る機会はじつはこれまでほとんどなかった。おりしもバウシュががんを宣告された恐らくその日に亡くなったマイケル・ジャクソンについて、いまこそ彼の音楽やダンスを真剣に研究するべきではないかとの声が上がっている。タバコをくゆらすのを決して止めなかったバウシュの反骨精神にふさわしいのは、感傷的になることではなく、彼女に向けての真剣な研究ではないだろうか。

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木村覚

1971年生まれ。日本女子大学専任講師。美学、パフォーマンス批評。

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