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死者を呼び出し、送り返すこと──シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」レポート

福住廉(美術批評)

2009年12月15日号

ボイスの先駆者、エリック・ギル

 では、ヨーゼフ・ボイスの思想と芸術は、今日的な意義を持ち得ない時代遅れのモードにすぎないのだろうか? 私はそうではないと思う。なぜなら、ボイスの運動を支えていた社会的状況がすっかり変わってしまったとしても、そして「だれもが芸術家である」というメッセージが現実的に達成されてしまったように見えたとしても、ボイスが夢見ていたユートピアはけっして実現しているわけではないからだ。ボイスのいう「拡大された芸術概念」とは、私たちが暮らす社会全体を芸術作品としてみなし、それをあるべき未来的な造形へと変革していく社会彫刻の過程に、芸術家としての私たちが参加していく運動性を含んでいた。25年前と比べれば、たしかに私たちはだれもが芸術家のように振る舞い、文化を生産する楽しみを謳歌しているのかもしれないし、その意味では社会彫刻の運動に参加しているのかもしれない。だが、ネグリの入国が拒否された事実が明白に物語っているように、人間の自由や幸福、あるいは豊かな思想や芸術といった凡庸な理想の水準からいっても、社会的現実は25年前より明らかに退行しており、その意味では社会彫刻の運動は頓挫しているというほかない。ボイスが蒔いた種子は、いまだ発芽には至っていないのである。だとすれば、太陽と水を土に与え続ける努力は、十分すぎるほどなされてよい。
 ボイスの思想と芸術に今日的な意義があると考えるもうひとつの理由は、近代(芸術)批判という文脈のなかでボイスは依然として有効だと考えられるからである。「拡大された芸術概念」とは、絵画や彫刻といった近代的な芸術概念と明確に異なる、社会芸術ないしは人類学的な芸術を意味しているが、ボイスの芸術がしばしば社会運動と同一視されたり、芸術というよりむしろ思想として理解されることが多いのは、それが従来の芸術概念の範囲を意図的に拡張しているがゆえに、他の文化領域と重複しているように見えることに由来している。芸術と思想をそれぞれ別々の自立した領域に囲い込んできたのが近代という身ぶりだったとすれば、ボイスはむしろ芸術と思想を互いに重ね合わせ、その渾然一体としたなかに近代社会の限界を乗り越えるための糸口を見出していた。ボイスのアクティヴな活動が芸術家というより思想家のように見えるとしたら、それは近代という色眼鏡を鼻柱にかけていることの現われにほかならない。ましてや、近代的制度を輸入してみたものの、近代の価値がいっこうに風土に根づかないままポストモダンに突入してしまった日本に特有の捩れた歴史的背景を鑑みれば、ボイスによる近代批判のプロジェクトを持続的に実践していく意義は、けっして小さくない。
 だが、こうした近代批判の運動は、なにもボイスだけが独自に取り組んできたわけではなく、歴史的な系譜にはっきりと位置づけられるものだ。岡倉天心の後にボストン美術館の東洋部長を務めたインド系の美術史家、アマンダ・K・クームラズワミは「芸術家が特殊な人間なのではなく、すべての人間が特殊な芸術家なのだ」という言葉を残しているが★3、この言い方はボイスによる「だれもが芸術家である」と著しく似通っていることはもちろん、ボイス以外のさまざまな芸術家や思想家にも大きな影響を及ぼした。日本では宮沢賢治や柳宗悦、柳田國男を論じながら職業として芸術家になるわけではない大部分の人びとにとっての限界芸術を提起した鶴見俊輔が挙げられるし、西洋にはイギリスの彫刻家で美術批評家でもあるエリック・ギルがいた。ギルにとって芸術とは「すべての造る営み」であり、したがって「造られたものすべては芸術作品」として考えられていた。ギルによれば、近代的な産業主義は労働者から芸術家としての責任感を奪い取ったと同時に、芸術家を有用なものをつくる必要から解放した反面、独創的な個性や自己表現を芸術に呼び込んでしまい、つまり芸術と労働が分割されてしまった。「心理的な陰部暴露症に似たことしかできぬ芸術家」と「人間の蟻塚を生み出すよりほかに脳のない労働者」というように、近代的な芸術家と労働者を切って捨てるギルの言葉は手厳しい★4。しかし近代以前は芸術と労働は不可分のものとしてあったのであり、あらゆる人が自分がつくりだすものに責任を負いながら暮らすというその社会のありように、ギルは近代社会を救済するための希望を見出していたのである。
 もちろん、エリック・ギルの過激な見解には、カトリック信者という宗教的な背景によって確固として支えられており、またその問題を解決するために挙げられた「人間の誇りと責任感を回復し、閑暇をもち得なければならぬ」という提案が★5、いささか抽象的すぎるうえ、いかにも凡庸であるという難点がないわけではない。けれども、人間がつくりだしたものすべてを芸術作品としてみなすラディカリズムは、現在の視点から見ても、依然として近代批判の有効な一撃であり続けている。ギルはいう。

造られる物とは人間のために造られるのであり、またそれを造るのも人間にほかならないのだから、芸術について述べるときに、それがまるで天使か霊的な存在にかかわる事柄でもあるかのような言い方をしてはならぬ。★6

けだし、名言である。じっさいギルの文章は「異常なまでに迫力をもった簡潔な文体」であり、「石彫的文体の美しさと力強さ」を備えていたというが★7、言葉の意味内容より以前に、そうした形式そのものが、不必要なまでに難解な言葉や詩的な修辞を駆使したがる古今東西の美術批評の伝統に痛烈な批判を加えているのは明らかだ★8。だとすれば、多くの人々のあいだに賛否両論を巻き起こすほどの社会的浸透力を誇っていたボイスの口頭表現は、ギルによる硬質な言語表現の延長線上に位置づけられるだろう。
 シンポジウムで仲正昌樹が手際よく整理してみせたように、ヨーゼフ・ボイスの思想と芸術は、ドイツ哲学の伝統と関連づけて理解されるのが定番である。じっさい、ルドルフ・シュタイナーやシラー、ゲーテといった思想からの大小さまざまな影響関係がすでに指摘されている★9。だが、「だれもが芸術家である」というテーゼは、その「だれも」があらゆる人間を指している以上、ドイツという地政学的な範疇でボイスを含みつつ、しかしそれにとどまらない拡がりをもっている。人類のすべてを包含するスケールの大きさこそ、ボイスの思想と芸術のなによりの特徴であり、だからこそそのプロジェクトは、世界のどこであろうと、そして歴史のいつであろうと、そしてだれであろうと、再始動しうるのである。


左から、椿昇氏、白川昌生氏、小田マサノリ/イルコモンズ氏
以上すべて、撮影=松蔭浩之/写真提供=水戸芸術館現代美術センター

長い革命

 こうあってほしい社会に向けてアクションを起こすことと、人間の創造性/想像性を取り戻すことはけっして両立しないわけではない。今回のシンポジウムでそのことをもっとも明快に提示したのが、小田マサノリ/イルコモンズだった。ストリートで繰り広げられる反戦運動や反グローバリズム運動を「拡大された芸術概念」としてとらえ、その渦中でみずからが逮捕される様子を記録した映像などを見せながら、じつにパフォーマティヴで魅力的なプレゼンテーションを披露した。最後に「あらゆる人はアーティストであり、アクティヴィストである」という文字が書かれたプラカードを掲げていたが、これはもちろんボイスの「だれもが芸術家である」を新たな位相に転位させながら批判的に継承したということにほかならない。「アクションはどこで生きているか?」とみずから問い、「ストリートで生きている」と応えた小田の言葉は、他のパネリストたちに比べて圧倒的な説得力を持っていた。
 ただ、小田マサノリ/イルコモンズがボイスを現在に召還する当事者としてもっともふさわしいのは事実だとしても、プレゼンテーションのなかで触れていたストリートを美術館や国際展の会場に持ち込むという手法がどれだけ有効なのかは、若干の疑問が残る。美術館内で行なわれたサウンド・デモの映像を見ても、ストリートを美術館の内部につくりだすことがアートを拡大するという主旨は理解できるにせよ、じっさいそこで鳴り響く大音響のノイズは美術館外に漏れることはなく、美術館という安全な場所で実施されたアート・パフォーマンスにしか見えなかった。シンポジウムと同時期に、横浜で催されていた「ヨコハマ国際映像祭」に参加したイルコモンズの展示も、同じようにストリートの生々しさを国際展の会場内に持ち込み、カオティックな雰囲気を再現しようとしていたが、周囲の漫然とした展示風景のなかに溶け込んでしまい、その魅力が半減してしまっていたようだ。「拡大された芸術概念」のねらいは、既成のアートを再活性化させるためではなく、人間の尊厳を取り返しながら私たちの暮らしや労働をよりよく改善していくことにある。つまり、平たくいえば、革命である。
 けれども、ボイスが見通していた革命は、暴力的に政権を奪取して国家を転覆するようなものではない。むしろ、それは目に見える結果を獲得することをさほど重視しない、生きることとアクションが重なり合うような革命だったのではないか。だからこそ、山本和弘がいうように「ボイスの時間的パースペクティヴはとてつもなく長い」のである。答えを安易に要求するのではなく、自分で問いを立て、それについて考えながら行動していくこと。この単純明快なテーゼこそ、ボイスがこの世に言い置いていったことだと思う。

どんな人間も芸術家だというときの芸術というのは、絵画を描いたり、ピアノを弾いたり、あるいはその他の芸術活動を行なうというような狭い意味での芸術活動ではなく、人間の新しい将来の姿を作り、そのために世界を変革していくという行動にたいして、どんな人間も芸術家だというわけです。そしてこれはあくまでも芸術にかつて与えられたことのなかった、そして最高の課題だと思います。
──ヨーゼフ・ボイス★10

★1──http://unboy.org/
★2──ミヒャエル・エンデ+ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』(丘沢静也訳、岩波書店、1992)
★3──「アーナンダ・クマーラスワーミ」、あるいは「アーナンダ・クーマラスワーミー」と表記されることもある。
★4──エリック・ギル『芸術論──芸術と転換期の文明』(増野正衛訳、創元社、1953)
★5──増野正衛「近代芸術の批判者──エリック・ギルの思想」(『世紀』1952年4月号)
★6──エリック・ギル、前掲書、pp.9-10)
★7──前掲書、訳者あとがき
★8──このほかに、ギルのエロティックな版画やスキャンダラスな性生活からギルを脱神話化してみせた以下の論考が、このうえなくおもしろい。海野弘「エリック・ギル──聖者と半獣神」(『ユリイカ』1992年12月号、青土社)
★9──平山敬二「シラー美学とボイスの思想──美的国家の構築をめぐって」(『ヨーゼフ・ボイス──ハイパーテクストとしての芸術』、慶應大学アートセンター、1999)
★10──「ヨーゼフ・ボイス学生対話集会記録抜粋(1984年6月2日東京芸術大学体育館)」(『芸術の社会性——ヨーゼフ・ボイスからの投影』武蔵野美術大学、1995)

Beuys in Japan:ボイスがいた8日間

会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー
会期:2009年10月31日(土)〜2010年1月24日(日)

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