キュレーターズノート
帯広コンテンポラリーアート2011──真正閣の100日
鎌田享(北海道立帯広美術館)
2011年08月01日号
この夏、帯広で「真正閣の100日」と題したアートイベントが開かれている。市内にある「真正閣(しんしょうかく))」という古建築を舞台に、帯広そして北海道在住のアーティスト50名余りが、14週間にわたって週替わりで個展やグループ展、そしてパフォーマンスを展開する。
真正閣は、今年で築100年を迎えた和風建築物。もともとは1911(明治44)年に、当時の皇太子(後の大正天皇)の帯広行啓を記念して開設された十勝公会堂の一棟として建てられ、御便殿(休憩所)に給された。大正から昭和初期には引き続き公会堂として使われ、戦後は公民館として市民に親しまれてきた。しかし1968(昭和43)年に老朽化のために役割を終え、その後、市郊外の真鍋庭園に移築されて現代に至っている。
母屋は、襖で仕切られた10畳と8畳の和室二間からなり、その三方を廊下が巡っている。また建物内には、茶室や水屋も併設されている。御便殿という性格から、柱や梁などの部材には北海道内外から集められた良質の木材がふんだんに使われ、随所に精緻な意匠が施されている。
この真正閣、これまでは保存のために年数日間に限って公開されてきた。しかし築100年を期する今年は特別に、5月28日(土)から9月4日(日)までの100日間/14週間にわたって現代美術家たちが週替わりで作品を発表する。明治以降、西洋化の波に乗りながら急速に開拓された北海道では稀有なこの純和風古建築。その歴史背景や建築空間の特殊性からも魅力的な舞台設定であり、美術家たちにとっても刺激的な企画といえる。
5月末には、半谷学と梅田マサノリが作品を展開した。半谷は、ホソジュズモという海藻を原料に紙素材の立体作品を制作する作家。今回は、真正閣を望む池のなか、目線よりかなり高い位置に葉状の作品を設置した。風を受けて揺れるその姿は、緑濃い和風庭園に心地よいアクセントをもたらした。一方の梅田は、建物内の床の間に鳥の羽とロールペーパーを用いた作品を、二間を抜いた室内には筒状の透明ビニールにヘリウムガスを詰めた作品を設置。昨年のメキシコ湾原油流出事故で犠牲となった鳥たちと、3月の東日本大震災で失われた命への、鎮魂を込めたものという。
また6月中旬には、池田緑が発表。自身の誕生日から現在までの日付を連綿と打刻した色とりどりのプラスティックテープを透明なアクリルパイプに封入し、それを畳上に並べた。一本のパイプは一年の時を、テープの色は池田が暮らした土地を、表わしている。60余年の自らの半生を、100年間の真正閣の歩みのうちに横たえたかったと、池田は語る。
作品の詳述は別の機会に譲るとして、これまでの所感を記そう。
独自の歴史的背景や社会的意味を備えた場=サイトにおいて、その特殊性に依拠した制作や作品を展開する試み、いわゆるサイト・スペシフィックな試みは、全国各地でさまざまに行なわれている。筆者もちょうど一年前に、根室市落石岬でのプロジェクト「落石計画」についてレポートした。こちらは明治末に開設された無線送信所跡を舞台に、井出創太郎と高浜利也というふたりの美術家が毎年夏に創作活動を展開するものである。なかば廃墟と化した近代遺構が示す歴史の重みと北辺の地の特異な自然環境とに多大な刺激を受けながら作品制作を継続する、現在進行形のプロジェクトである。
数多あるこれらの試みのなかで、真正閣の最大の特色は、同じ建物を舞台に週替わりで各作家の発表が重ねられていく点にある。各々が真正閣というモティーフそしてスペースをいかに解釈し、いかに自らの作品として昇華したかが、否が応もなく比較・対照されるのである。その意味でははなはだ、タフでストレスフルな取り組みであろう。
さらに、落石計画におけるサイト(無線送信所跡)は、創作活動におけるインスピレーションの源として、そして作品を制作する現場として機能していた。一方、真正閣におけるサイト(純和風古建築)は、作品のモティーフであると同時に、最終的に作品を発表する場そのものでもある。等しくサイトスペシフィックと括られはするが、それぞれにおけるサイトの位置づけは、プロジェクトの起点と帰結点というように好対照をなしている。
換言すれば「真正閣の100日」という企画は、“特定の古建築物の解釈とそれに基づく再造形化を問う”プロジェクトとして、構造化されているのである。
しかしながら……、これらの点に個々の作家たちがどれだけ自覚的であるのか……、いくばくかの物足りなさを感じないわけでもない……。
例えば、真正閣が内包する意味性と、今回発表された作品のコンセプトとは、十分に練り上げられていただろうか? 無論、作家たちはこれまで独自に継続して作品を展開してきた。これまでの歩みを脇に置いてただ真正閣だけに焦点をあわせることは、なかなかに困難であろうし、意味も求めづらかろう。だがこれまでの作品をいたずらに出すことは、単に特殊な会場を使った個展と取られかねない危険をはらんでしまう。
また、純和風建築という空間がもたらす展示効果に対して、あまりにも無邪気に振舞ってはいないだろうか? 大きな開口部からさす陽光、障子越しの柔らかな光、畳の床……それらは確かに通常の美術館やギャラリーでは得られない演出効果ではある。しかしそれを結果的にかつ無原則に享受するだけでは、意義は薄かろう。率直に評すればそれは、より設備の整った展示会場を求めることと、メンタリティにおいてはそう変わるまい。
今回、多くの作家が、床の間に作品を設置していた。その展示効果に十二分の満足感を得てのことであろう。しかし和室特有のこの空間は、見方を変えれば、そこに置かれたモノを特別なシナへと変じてしまう、作品の自律的存在性を最大限に高めてしまう、究極のホワイトキューブともいえよう。
コンセプトと作品の完全なる合一をもって、よしとするわけではない。むしろコンセプトを知って作品を完全に理解した気になれるのであれば、それはアートのあり方としてはむしろ興ざめとすら思う。しかしながらホワイトキューブの発想を出でずして成されたサイトスペシフィックな試みは……やはり本末転倒だとも思うわけである。
そのうえで、真正閣という建物に対して、そしてそこで展開された作品に対して、より自覚的に取り組んでいるは、毎週日曜日ごとに実施されるパフォーマンス、とりわけモダンダンスや舞踊、といえるかもしれない。その出演者たちは、週の初めの月曜日にいたってはじめて、自らの公演を繰り広げる場を目の当たりにする。さまざまなアイデアやイメージを醸成してきたとはいえ、この瞬間を起点として最終的なステージを組み上げていくことになる。この切羽詰った状況で発揮される即興的な爆発力が、サイトと四つに取り組むうえで、効果的に起動したように見受けられるのである。