キュレーターズノート
田中信太郎+岡崎乾二郎+中原浩大「かたちの発語」
能勢陽子(豊田市美術館)
2014年06月01日号
1940年生まれの田中信太郎、1955年生まれの岡崎乾二郎、1961年生まれの中原浩大の、世代や制作背景の異なる3人の作家による展覧会は、作品が相互に連関するよう配置されるのではなく、それぞれがワンフロアを使用して、カタログも個別に作成された、いわば三つの個展が同時に開催されるような形式を取っていた。
それでも素材の多様さや作品の自在なサイズ、一定したスタイルにこだわらず変幻自在に変えていく手法、そして建築や共同プロジェクトなど美術の分野だけに収まらない活動など、作家にある共通するものが感じられた。そしてそこから生まれる「かたち」は、一定の形態に留まらずに、特定の意味から逃れ、いまにも揺れ、はみ出しそうな、魅惑的なものであった。展覧会タイトルの「発語」とは、「言いだすこと。また、言い始めの言葉」を意味するという。「発語のかたち」とは、容易に把握できないこれら3人の作家にふさわしく、まさに発語になるぎりぎり手前の、まだ意味を成さずに多様な方向性を孕んだまま蠢きながら止揚しているような、そんな「かたち」のことを言い得ていた。それぞれがその人でしかありえない個を持ちながら、そこに通底するものと、だからこそみえてくる差異を受け取ることで、作品により微細に深く向き合うことができる、そんな企画の醍醐味を感じる展覧会であった。
田中信太郎は、1階に70年代の作品と、ネオンが光る静謐なインスタレーション、そして3階に90年代の彫刻とアトリエから運ばれたいくつもの小さなマケットを展示していた。ネオンや鉄のフレームでできた幾何学的な形態、また大小さまざまな卵型や膜の形態は、頭の中で完全な形の残像を残すような、静的かつ流動的な要素を孕んでいる。幾何学的でミニマルといっても、それは抽象的でクールなものではなく、どこか日常生活の些細なことに繋がっているような印象を与える。その感覚は、長期にわたる作家の活動を俯瞰し、物事が拡大縮小するような想像力の楽しみを与える、スタジオに置かれていた数々のマケットにより強められた。いずれの作品も、確かな意味を与えることから逃れて、そのものはそのものとしてあるのに、それでも即物性を超えた叙情性が、軽やかに超然と、作品の向こうから浮かび上がってくるようだった。
岡崎乾二郎は、80年代の小さなレリーフと8mmの映像、パッチワークでできた平面、90年代の巨大な合板の彫刻、そして最新作のポンチ絵と大きなFRPの彫刻を展示した。いくつもの面を持つレリーフのシリーズも、何枚もの布を縫い合わせたパッチワークの作品も、そして亀裂面をもとに異なるボリュームが次々につくられた石膏彫刻も、その「かたち」はひとつの形態ではなく、断片がそれぞれ異なる領域に属しながら、なおすべてが繋がっているようなものとしてそこにあった。とくに、広々とした空間に置かれた新作となる彫刻は、その巨大さゆえに、みるものの身体を巻き込み、個々の部分に引き裂きつつなお統合しようとする、一種のアンビバレンツな状況のなかに自らを置く。安易な意味づけや一般化は避けられているので、その知覚できない状態をなんとか知ろうとして、いま受け取っている感覚に集中する。その作品の多次元性や複雑さを同時に知覚しようとするなかで、いま確かに作品に対峙しているという能動性が惹起され、まるで意識が覚醒するような感覚を得たのである。
中原浩大は、昨年の岡山県立美術館の個展に引き続き、1984年に制作した、石膏でできた『持ち物』と、油土でできた『夢殿』を再制作した。携えるには大きすぎる『持ち物』の、にもかかわらずどんどん肥大化していくような感触、また瞑想のためのお堂が植物のように変体して、夢幻的かつ見知らぬなにかになったような様は、「かたち」に対する愉快かつ不気味な感触を与える。続く、海に面して扉が開け放たれ、風が入り込む心地よい展示室には、白地を背景にサイズの異なる黒い円が描かれた、巨大なキャンバスが6点掛かっている。奥のテーブルの上には、この図と地のカラーバリエーションが置いてあり、さまざまなパターンが可能であることがわかる。この広々とした謎の空間は、「発語のかたち」というテーマによく合致した、「思考以前」の知覚は可能かを試みる、いわば実験の場でもある。私たちは、四角に描かれた円をみると、自動的に日本の国旗を連想する。それはさらに、各人が置かれている状況や時代背景に応じて、歴史や政治など国旗にまつわるさまざまなものを次々に思い浮かばせるだろう。この作品は、意味を知る前の子どものように、「四角に円」という図形を、ただ純粋な「かたち」としてみることはできるかという問いである。そのため、例えば四角形の比率や円の大きさ、また色の組み合わせを変えるとどうなるかということが試みられている。それは、社会の意味づけや構造から解き放たれた、純粋な視覚経験は可能かという、シンプルかつ根源的な問いである。そこから海を臨むテラスに出ると、そこには中原の両親の巨大なポートレートがかかっている。来場者にとっては他人だけれど、作家にとっては特別な存在である家族。開放的なテラスにでかでかと貼られた、見知らぬ家族人のポートレートは、巨大なナンセンスと作品に繋がる個人的な愛着を喚起して、ほっと気を抜かせるだろう。
「かたちの発語」の作品は、膨大な思考の過程からぽろっと生まれたような、複雑な過程を経てもまるでさらりとつくられたもののようにもみえる。そこには繊細さやユーモア、それに日常への愛着が伺えるるが、その背景には容易に着地しないでいることの覚悟を決めた、意味の宙吊りがある。作品がある意味に捉われてしまったら、それはたんなる作品になってしまう。たから私たちは、そのぎりぎりのところで生まれたいまにも動きそうで動かない「かたち」を、そこから安易に意味を汲み取ろうとせず、目を凝らしてしっかりとみつめないといけない。