キュレーターズノート

客席にいない誰かがいるということ──谷中佑輔『空気きまぐれ』、デイナ・ミシェル『MIKE』

谷竜一​(京都芸術センター)

2024年01月15日号

「本公演は、『リラックス・パフォーマンス』です。客席に長時間じっと座っていることが難しいお客様(例えば、自閉症、トゥレット症候群、学習障害や慢性的な痛みなどがある方)を歓迎します」
これは、Co-program カテゴリーA採択企画である、谷中佑輔『空気きまぐれ』に関する公演に際した、アクセシビリティについての記載の一部である。
本公演はアクセシビリティについての思考を促すものであり、またそれは多様な観客や、観客以外の存在への思考をも促す公演だったといえるだろう。

谷中佑輔とアクセシビリティ

『空気きまぐれ』は、「空気」に関するリサーチプロジェクトであり、上演企画である。「アクセシビリティを出来上がった作品に付け足すものとしてではなく、表現の出発点と過程に取り入れることに取り組みたいと思いリサーチを進めています」と谷中佑輔本人がコメントしているように、谷中は近年、さまざまな出自を持ったコラボレーターとの協働に着目している。今回のコラボレーターとして出演するのは、ろう者のパフォーマーである横尾友美、日本およびドイツにルーツをもつ振付家、パフォーマーの山本ゾフィ優里歌である。谷中もまた、自身が日本を離れベルリンを拠点としているなかで、自身のバックグラウンドについて考察することも増えたのだろう。彫刻家として出発したが、並行してダンスのキャリアを開始し、現在の活動につながっていることも、影響を及ぼしているのかもしれない。



谷中佑輔『空気きまぐれ』[撮影:松見拓也]


さて、先ほど紹介した谷中のコメントに見られるように、谷中はコラボレーターに対してと同様に、さまざまな身体的、社会的条件をもつ観客の存在にも意識的である。

チケットの値段は観客が決める

この公演で試みられた「スライドチケット制」も、谷中による京都芸術センターへの提案で実施された票券システムである。観客はチケット料金として、当日窓口で500円から2,500円(標準価格は1,500円としている)の任意の金額を支払うことができる。

一般的な公演であれば、「学生割引」「障がい者割引」「シニア割引」など、観客の属性によって割引が適応されたりもするチケット料金だが、本公演では、観客が自身の社会的立場と、公演の参加しやすさを念頭に、入場料金を自ら申告することになる。谷中の拠点でもあるベルリンでは、こうした試みが徐々に浸透しているようで、本公演で試験的に導入した。

観客はそれぞれ、ちょっと驚いたような様子を見せつつも、それぞれの立場でチケット代金を支払って観劇に臨んでいた。ただし、この試みは「後払いのカンパ制」であると誤解を受けることもあり、いくつか問い合わせもいただいていた。「作品を観てその中身に見合う対価を自ら決めて払う」というかたちはすでに日本に定着しているが、「公演に参加することに関して自ら値段を決める」ことについては、まだまだポピュラーとは言い難いのであろう。

情報保障と振り付け

パフォーマンスはダンスを主軸に、また谷中が制作した小さな装置を使用して行なわれた。谷中、横尾、山本による呼吸あるいは空気と、その伝播をモチーフにしたいくつかのシーンから構成されていた。それぞれが固有のバックグラウンドと身体条件をもつ彼ら彼女らは、自分たちが共有するコードとして「呼吸」に着目し、アンサンブルを創出していた。

情報保障の観点から、音を伴うシーンは手話を拡張した身振り、あるいは音が出る装置に直接触れることを通じて、「音が出ていることが聞こえる」ことを観客に伝えていた。

たとえば呼吸とともに「ぶぶう」とノイズが発生するシーンでは、身体から伝わる振動によって、ろう者である横尾も発音を感知していたが、ろうの観客には「音が出ている」と気づけないかもしれない(そもそも考えてみれば、パフォーマーそれぞれにとって音が聞こえているかどうか、観客にはわからないのだが)。こうした情報を補うものとして「音が出ている」ことを伝える身振りも行なわれていたが、これはまず具体的な情報の伝達のために振り付けられる。それはパフォーマーに定着することによって、より抽象度の高い、微妙なニュアンスや雰囲気を含んだ運動として立ち現われる。このように、本作では空気という主題とともに、「聞こえること/聞こえないこと」や「伝えること/伝わること」のバリエーションをみることができた。



谷中佑輔『空気きまぐれ』[撮影:松見拓也]



谷中佑輔『空気きまぐれ』[撮影:松見拓也]


パフォーマーと観客の動き

では場内の客席の様子はどうだったか。「鑑賞中に動いたり、声や音を出したりしても問題ありません。また、いつでも入退場自由です」と示されてはいても、上演中、客席間で移動する人はほぼいなかった。親子連れの来場者のうち、ベビーカーで眠っていた乳児が途中で起きたくらいである(その子も終始おとなしく観覧していた)。

ゲネプロ終了後、関係者や一般の観客にヒアリングしたところ、「別に移動する必要がなかったのでそのままの席で観た」「上演の緊張感のなかでは、『移動が可能』といわれても、する気にはあまりならなかった」といった様子であった。

「発話したり、うろうろしたりしてもかまわない」ということは、「積極的に発話や立ち歩きを求める」こととは、もちろん異なる。一定の緊張感を湛えた今回の上演を一度観てしまうと、この「空気」を維持することに貢献したくなり、「やっぱり立ち歩いたりしないほうがいいのかも」と思ってしまうかもしれない。

しかし論理的に考えれば、観客はいまだ「発話したりうろうろしたりする人もいる」環境での本作を観ていないということでもある。いずれそうした客席環境で上演されたとき、また異なる質が立ち現われることを期待させられる上演でもあった。

デイナ・ミシェルの動きの質

さて、KYOTO EXPERIMENT 2023 (以下、KEX 2023)で上演されたデイナ・ミシェル『MIKE』は、オフィシャルには「リラックス・パフォーマンス」と呼ばれているわけではないが、「(観客が)うろうろしてもよい」ということについて思い出させるものであった。本パフォーマンスにおいて、客席らしい客席はない。入り口にブランケットが置かれており、必要な観客はそれを持っていったりして、めいめいに座る。デイナは会場の講堂および大広間において、そこに配置してあるものを使ったり使わなかったりしながら、パフォーマンスを進行する。観客は、そのデイナの動きに追従して、講堂あるいは大広間、そしてその間を移動しながら、デイナの仕事ぶりを観る。観客たちは必然的に、会場内をうろうろすることになるし、見失ったデイナを見つけるために、あるいは3時間にわたる上演から一息つくために、観客同士でちょっとしたおしゃべりをしたりもしてしまう。


本作の創作にあたり、デイナが昨年度城崎国際アートセンターに滞在し、「仕事」に着目してリサーチを行なったということは興味深い。デイナの運動は、それなりの秩序があるらしいが、ないようにも思える。よくわからない。何かやるべきことがあるようにみえるが、適度にさぼっているようにもみえる。何が仕事で、何が仕事でないか、わからない。しかし、わたしたちはその活動に注視することができる。そもそもその活動のもつ雰囲気や、一つひとつの行動の細部に注視する感覚が、個人の技能や性質によるものなのか、ある職業によって付与されるものなのか、はたまた人間集団が一般的に獲得できるものなのか、それもよくわからない。ただ、デイナのスムーズな身体各所の連動とその空間への、緊張しきることもなく絶妙に弛緩し、かつダルダルに弛緩しきってもしまわない動きの一連に、わたしたちは、その運動の「質」らしきものをみることができる。こうした質の追求は、動きをより直接的に捉え、その作用を追求したポストモダンダンスの美意識がさらに発展したものであるともいえる。しかし、そのような前提をまったく知らない人からしたら、そうした「美意識」に思い至ることも、難しいかもしれないとも思わされたのも事実だ。それくらい自然な動きとして、デイナは3時間にもおよぶ上演中、仕事をしていた。



デイナ・ミシェル『MIKE』(2023)[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]


さて、デイナのパフォーマンスにはまったく関係のないことであるが、私はデイナの上演中に、京都芸術センターのギャラリーで詩を音読していた。KYOTO EXPERIMENTは、リサーチプロジェクトである「Kansai Studies」の一環で経過展を開催しており、リサーチャーとして参加していた私は、関西エリアの近代から現代の詩人の詩を音読するということにしていた。デイナの上演の話を聞いて、あえてその時間中に、自分も「仕事」をしてみたくなったのだった。リサーチの一部として、自分の理解のために読んでいる(読んでいる状態を展示している)だけなので、とりわけパフォーマティブになる必要もないのだが、人が来るとどうしても、何かをやってみせたい、という気持ちがわいてきて、わずかに発話もそちらに引っ張られる。もちろん、かといって、観ている人をいないことにもできない(気にしない、ということはできるが)。私が自分の「仕事」を終えても、デイナはまだ上演中のようだった。その日は確か、そのまま家に帰った。

観客席にいない人たち

アクセシビリティについての課題とその解消について、わたしは、「ある身体的もしくは社会的状況の人もいる(たとえば、耳が聞こえない、あるいは、聞こえにくい人)」うえで、どのような合理的配慮が可能かについて検討すべきだろうと考えている。ということは、「『ある身体的もしくは社会的状況の人もいる』ということもあるということに気付く、あるいは理解する」ことが、アクセシビリティについて考える前提であるはずだ。

これは、「パフォーマンスにとって観客とはどのような存在か」という、根源的で、これまで歴史上幾度も語られてきた問題と接続されるだろう。もう少し広げて言うならば、「こういう人が観客席にいる」ということは、「どうしてこの観客席には、この人たちしかいないのだろう」という問いへと展開することができる。

そうすると、問題はさらに広がり「どうしてか、ここに居ない人もまた『このような上演があった』ということを知ることができる」ということや、「おそらく『このような上演があった』ということは、ごく一部の人たちのみが知りえていることである」ということさえ、含まれていくのかもしれない。

見逃している質

さて、Co-programの一環としてKEX 2023のフリンジにも参加したパフォーマーの武本拓也は、「本当によいパフォーマンスは観る必要がない」と述べていた。その本意がいかなるものかわからない部分もあるが、彼の師であり、ほぼ毎日自宅の庭で首くくりのパフォーマンスを行なっていた、首くくり栲象のことも念慮において話していたのだろう。首くくり栲象は2018年に逝去しており、私はついに、彼の上演を永遠に見逃してしまった。見逃すということは、「見る必要はない」ということではない。重要なのは、見逃している質が、世界のどこかに常に存在しているということである。

たとえばそれは、「自分の耳では聞き取れるかわからないくらい遠くで起きているビル工事の音」だったり、「生まれてから一度も海を見たことのない人にとっての海」だったりする。これは比喩に聞こえるかもしれないが、そのようなことはこの世界に驚くほどたくさんある。現に、3歳と1歳になる私の子らは、今年はじめて本物の海を見た。新型コロナ感染拡大の影響もあって、帰省や海水浴の機会に恵まれなかったからだ。こんなことでさえ、日本海沿いの、海まで5分の環境に生まれた私にとっては、はるかに想像の外のことである。

観客席の、中にも外にも、考えられないくらい多くの経験と感受の仕組みをもった観客が座っている。そのことを意識づけられながら、観客席に座ってみる。上演が始まり、やがてそのことを忘れるが、舞台上の出来事によって、時折それは思い出される。このパフォーマンスを観ていない人がいることを。

武本拓也は、3月にCo-programの公演として、初の振付作品の上演を控えている。


谷中佑輔『空気きまぐれ』

会期:2023年12月15日(金)~12月17日(日)
会場:京都芸術センター フリースペース
(京都府京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2)

KYOTO EXPERIMENT 2023 デイナ・ミシェル『MIKE』

会期:2023年10月20日(金)~10月22日(日)
会場:京都芸術センター 講堂

KYOTO EXPERIMENT 2023 Kansai Studies ニューリサーチ経過展

会期:2023年10月14日(土)~10月22日(日)
会場:京都芸術センター ギャラリー北

  • 客席にいない誰かがいるということ──谷中佑輔『空気きまぐれ』、デイナ・ミシェル『MIKE』