キュレーターズノート
ベルギー・レポート Vol.3:シャンブル・ダミ展の再評価
鷲田めるろ(キュレーター)
2010年02月01日号
ベルギーのゲントでの半年間の滞在を終え、昨年12月に帰国した。今回は「ベルギー・レポート」の最終回として、1986年に行なわれたシャンブル・ダミ展(Chambres d'Amis=友達の部屋)について行なった調査の概要を報告する。
シャンブル・ダミ展は、1986年当時まだ自前の建物を持たなかったゲント現代美術館(1975年にMuseum van Hedendaagse Kunstとして設立、1999年にS.M.A.K, Stedelijk Museum voor Actuele Kunstに改称)が、ゲント市内の51の住宅を会場として行なった、国際的な大規模展である。ゲント現代美術館の歩みにとってもっとも重要な展覧会のひとつである。この展覧会により、キュレーターのヤン・フートとゲント現代美術館は国際的に認知され、1989年にヤン・フートは、ドクメンタ9(1992)のコミッショナーに指名される。ゲント現代美術館は、「オープン・マインド」展(1989)など話題となる展覧会を積み重ね、1999年には自前の建物を獲得。その後も「オーヴァー・ジ・エッジズ」(2000)など街中での展覧会も行ない、今日、アントワープのMuHKAとともに、ベルギーのもっともアクティブな現代美術館となっている。
また、シャンブル・ダミ展は、個人住宅を会場として使ったことから、展覧会一般の歴史においても重要な展覧会として言及されることが多い。今日、街中での展覧会は、日本を含む世界中で一般化しているが、それが広がり始めたのが1980年代後半であり、1987年の第2回ミュンスター彫刻プロジェクトとともに、サイト・スペシフィックな展覧会の先駆例として位置づけられている。
私は、市民が主体となって参加することを目指した展覧会「金沢アートプラットホーム2008」のキュレーションを行なった経験から、このシャンブル・ダミ展に注目し調査した。その際、関心の中心は以下の2点にあった。ひとつは、従来は観客の立場にあった市民が、どのように展覧会の作り手として参加し、そのことが彼らになにを残したか。もうひとつは、主に地元アーティストが中心となって、どのように同時開催の別の自主的な展覧会を企画し、そのことがなにを残したか。
シャンブル・ダミ展では、主催者、アーティスト、観客の三者だけではなく、部屋を会場として提供した人たちや監視スタッフ、会場をつなぐタクシーサービスなど、さまざまな立場で市民が展覧会の作り手として関わっていた。例えば、当時若手建築家であったロブレヒト・エン・ダム(Robbrecht en Daem)は自宅を提供し、ニエーレ・トローニ(Niele Troni)の作品を公開した。私が二人に行なったインタビューによると、展覧会期間中、シャンブル・ダミ展に参加していたホアン・ムニョス(Juan Muňoz)など多くのアーティストと親交を深め、それがその後のアーティストとのコラボレーションに続いているという。ほとんど毎日のように料理をして、家にアーティストを招いていたそうである。それは、シャンブル・ダミ展のアーティストにとどまらず、以下で述べる同時開催の展覧会のアーティストも含まれる。シャンブル・ダミ展の経験が自らの建築の設計に直接影響を与えてはいないと語るが、社会的なネットワーク形成には大きな役割をはたしたことを認めている。
一方で注目すべきは、同時にゲントで行なわれたアンデパンダン展「アンチシャンブル」(Antichambre)である。インタビューに答えた多くの人は、シャンブル・ダミ展を、この夏同時に街中で行なわれた他の3つの展覧会「イニティアティーフ86」(Initiatief 86)、「イニティアティーフ・ダミ」(Initiatief d'Amis)、アンチシャンブル展と一体のものとして経験、記憶していた。アンチシャンブル展は、国際的に活躍する作家が多く出品したシャンブル・ダミ展に対して、同展への参加の機会がなかったゲント在住の作家たちが企画したものである。廃墟となった工場跡地を会場に、約200人の作家が参加して行なわれた。「アンチ」には「反」という意味もあるが、「アンチシャンブル」という言葉には、神殿などにおける「前室」の意味もある。なかでも、屋上に小屋をつくり、展覧会終了後もそこに住み込んだティエリー・デ・コルディエ(Thierry de Cordier)の作品を記憶している人が多かった。当時、デ・コルディエは、ゲントでは多少知られていたものの、国際的には無名だった。イニティアティーフ86展のキュレーターの一人であったカスパー・ケーニヒ(Kasper König)は、アンチシャンブル展をきっかけにデ・コルディエを見いだし、翌1987年のミュンスター彫刻プロジェクトに招待した。これがデ・コルディエの国際的なデビューとなった。このことからも、ゲントの作家が企画運営した展覧会が、シャンブル・ダミ展や他の展覧会とともに、作家やキュレーターが出会うプラットホームの機能をはたしていたことがわかる。
もちろん、これらのプロジェクトに関わった市民は、若手のアーティストであったり、それ以前から美術に関心を持っていたり、建築家であったり、美術を学ぶ学生であったり、市民全体から見ればごく一部の、美術の世界に近い人たちに限られていた。また、当然ながら、必ずしもすべての事例において展覧会が有効に働いたわけではない。私がインタビューを行なったなかでも、部屋を提供してもさほど大きな影響をその人に残さなかった例もある。一方、部屋を提供した、当時ゲントの美大の学生であったヨハン・グリモンプレ(Johan Grimonprez)は、国際的な美術界がゲントや彼の生活に「侵略」してきたように感じるとともに、アーティストの選択や、作品の設置に、部屋の使用者は関わる事ができず、「疎外感」を味わったと語っている。
しかし、このような留保を意識しつつも、展覧会への参加、協力を通じて、街の中でなんらかのクリエイティヴな活動を行おうとしている人たちのあいだで、その後その人たちが主体的に活用できるような社会的ネットワークが生み出されたことは、歴史的に正しく認識されるべきだと思う。なぜならば、今日の街と美術の展開の鍵を握っているのは、行政の主導する美術館でも、個人としての観客でもなく、社会的ネットワークを持ったクリエイティヴな人々だと考えるからである。今日、街中での展覧会において市民参加が強調され、さまざまな試みが行なわれているにもかかわらず、残念なことに、街中での展覧会の歴史を語る際には、なおも、「美術館の外へ」という空間的・場所的な視点から語られる場合が多い。街中の展覧会の歩みを、従来の空間モデルではなく、主体モデルによって新たに書き換えることが必要だ。
この書き換えを通じて、シャンブル・ダミ展は、展覧会の歴史において、市民参加をうながした先駆的な展覧会として浮上してくるであろう。そして、この新たに書かれた歴史に裏付けられることにより、今日市街地で行なわれる展覧会を評価する際、サイト・スペシフィックな作品が生み出されたかどうかではなく、将来美術を受け入れる場となりうる人々のネットワークが残されたかどうかを重視することが明確化するだろう。未来へのプロジェクトは、つねに歴史の書き直しと一体のものである。シャンブル・ダミ展を含む、主体モデルによる街中の展覧会の歴史を描いてゆきたい。