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アフリカ諸国の博物館の理念と教育活動

(1) アフリカ大陸における博物館の歴史

 アフリカ諸国では、我が国同様1970年代以降多くの博物館が建設されてきた。西洋近代の産物である博物館を、我が国では無批判に受け入れてきたが、西欧の植民地として屈辱的な歴史を持つアフリカ諸国は、どのように受け留め、どう発展させているのだろうか?こうした疑問に応えてくれる資料を、前回の発表者である河野哲郎氏がICOM大会から持ち帰ってくれた。そこで、これから数回に亘ってアフリカの博物館の理念と教育活動について紹介してみたい。それに先立ち今回は、アフリカ大陸における博物館の歴史の概略を記すことにする。
 アフリカ大陸に初めて博物館が出来たのは、植民地時代のことである。最初のコレクションは、西洋の視点による民俗学的保存と調査研究のために、学校やキリスト教教団に集められた。植民地政府は、世界の全植民地を紹介する展覧会の一部となるような資料を探し始めたが、それは、アフリカ諸国のエキゾチックな文明と民俗的伝承を紹介して、都市住民を惹き付け、政府の存在を正当化するためであった。植民地では博物館は首都に建設され、主に企業家や植民地ビジネスに携わる者、それから旅行者等を対象とした。すなわち、植民地博物館は、土着のアフリカ住民とは隔絶された倉庫に過ぎなかったのである。
 独立によって、博物館は教育制度と共に、新たな独立国家に遺された植民地時代の遺産となった。それ以来、博物館の使命は文化的独立と国民のアイデンティティの創造に寄与することとなり、伝統的価値の表出の場となった。そして、植民地化される以前の時代は、祖先の歴史や美術を遡るコレクションの表象によって理想化されてきた。それには、民族学が大きな役割を果たした。国立博物館のコレクションは早々と、アフリカの文化遺産の最も重要な部分を正しく反映するものとなった。しかし、これらの博物館は過去に拘泥するあまり、未来への考察を欠き、歪曲した歴史イメージを与えることさえ少なくなかった。最も深刻な例は、博物館が地域の発展に全く関与しないことだった。
 現在は、伝承についての概念の変化と文化の定義の見直しによって、アフリカは植民地化されていた国々と共に、遺産についての定義を再検討している。例えば、アフリカ大陸では自然遺産は文化遺産の重要な一部として捉えられており、アフリカの国々は豊かな生態系の保存と、文化遺産と自然遺産双方の価値を守り、高める博物館の活動を統合することで多くの成果をあげている。
 


(2)女性教育における博物館の役割

 アフリカ社会では、女性が学校教育を受けるのは、当初から困難だった。学校教育が導入されても、両親は自分の娘を学校に通わせることを躊躇した。女の子は畑や家庭で働いてきたからだ。女の子はまた、早く結婚して両親の元を離れてしまうので、居候ともみなされていた。1960年代は、ガーナでは、15才の少女の1/3しか学校へ通っていなかったのに対し、15才の少年の半数が学校に通っていた。他のアフリカ諸国では、状況は一層劣悪だった。
 他方、植民地以前から植民地の市場経済への移行に伴ない、アフリカにおける性差関係も一変した。植民地化される前の時代には、女性は農業で重要な役割を担い、社会的にも認められていたが、植民地時代には女性が評価されることはなかった。
 女性は常に文化的タブーに大きく影響されてきたが、父権社会では特に、女性が健全な自立意識を発達させる余地はほとんどない。女性は、誰かの母親であり、妻であり、娘であるに過ぎない。こうした考えは、博物館の展示にも表われている。例えば、ジンバブエのバラワヨにある歴史博物館のメインホールには、二人の偉大な酋長にはさまれた老夫人の絵が展示されている。しかし、彼女の没年のみが記され、生前何をしたという記述は一切ない。
 女性はこれまで、民族の文化構築や社会的アイデンティティの発展に、大きな役割を果たしてきたが、それはさまざまな方法、例えば労働――陶芸、籠制作、織物――で実現してきた。儀式のためにのみ作られる物がある一方、女性はこれらを家庭で使用するために作ってきたのである。
 アフリカの博物館では近年、こうした「女性の社会的貢献の発展」とともに、「田舎の女性vs.労働する女性」、「キリスト教への女性の対応」、「女性を取り巻く環境」などの問題を扱うことで、女性の教育にも取り組み始めている。  


(3)モロッコの博物館が直面している問題 

現在モロッコの博物館が直面している問題の一つは、どうすれば観光事業の振興と、急増する地域住民へのサービスへの要請を両立させることができるか、ということである。
アルジェリア、リビア、モロッコ等のマグレブ諸国に博物館が初めて造られたのは、19世紀に遡る。モロッコの博物館では、当初民族資料のみを収集してきたが、現在でもそれが主な収集品であることには変わりない。博物館は各地の保護領(the Protectorate)が統轄する土着芸術部局(Indigenous Arts Services)に造られた。
 当時の博物館の目的は、工芸の発展を促進することだった。収集された資料は主に、工芸家やその指導者等の専門家集団とそれらを購入する外国の商人のために展示された。すなわち、博物館の目的はそれが導入された時から、工芸の振興と、外国の来館者に昔のモロッコを知らせることだけに制限されていたのである。
 しかし、独立後は、工芸部門と博物館部門が分離された。それは、モロッコの人々、特に知識人たちが、博物館を植民地の制度の下に、国の文化を民衆と古代にのみに制限する手段であるとして退けたためである。工芸振興の役割を剥奪されても、独立後しばらくの間、博物館は新たな社会文化状況に適応できず、再び注目を浴びるようになったのは、研究者に委ねられて、展覧会が再構成され、来館者への対応も改善された、1970年代末のことである。
 次いで、従来の観光事業の振興ばかりでなく、地域住民へのサービスが新たな課題となった。それまでは、博物館が学校を受け入れることも、教育プログラムが提供されることもなかった。多くの博物館では、したがって現在でも、これまで通り観光事業の振興に偏りがちである。
 そんな中、フェツのバサ博物館では、研究および教育機関としての役割を果たすために、地域住民へのサービスに取り組んで来た。まずは、都市住民に博物館に興味を持ってもらうことから始められた。ポスター、ラジオなどによる広報活動が行なわれ、コンサート、演劇、ディスカッションなどのプログラムが隔月毎に開催された。これらのイベント期間中は、常設展が無料で観覧できた。こうした努力の結果、ユ80年代中頃迄には、多くの地域住民が定期的に来館するようになり、同時に観光客の来館者数も増大した。さらに、1989と1990年には、地域の大学生が博物館のコレクションを元に、研究論文を書上げた。
 バサ博物館の事例は、観光事業と地域住民へのサービスが両立し得ることを示す好例となっている。

[佐藤厚子]



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