1年余りにわたって掲載されてきた私の海外レポートも、一区切りをつける時がきた。そこで、とりあえず最後となる今回のレポートでは、この間に生じた現代アートの変遷と世界情勢の大きな変化を踏まえ、21世紀の現代アートを展望する試みを行なってみたい。
世界情勢の激変を惹き起こしたのは、言うまでもなく9月11日に勃発したアメリカの同時多発テロ事件である。その影響は、現代アートの分野に及ばずにはいない。前世紀の終わりから流行していた面白ければそれでよいという娯楽志向の作品や、外部に無関心に内向する私的な表現がすっかり色あせて見えるようになった。ニューヨークの世界貿易センターが倒壊した跡地にぽっかりとあいた空虚を埋めるものは、悲しみや恐れや怒り、そして希望などの強い感情であり、それらの感情のうちに芽生えた社会関係への深い反省だということを考え合わせれば、現代アートをめぐる状況の変容に、アーティストが積極的ないし消極的に関わらざるをえなくなることは間違いない。そもそも社会とアートの関係は、一方通行だとされる場合、社会の単なる模倣反映であったり、逆にアートの社会変革の力を過信する結果をもたらすことになる。また関係の破棄が言明される場合、いたずらに自立性を強調したり、無意味さや無力感に苛まれることになる。しかしアートの活動が社会とは無関係に成立するはずもなく、また一方的な関係もありえないとすれば、両者の間に相互作用がつねに存在していること、そして事実、過去のどの時代をとっても、アートがその時代の社会体制と緊密に絡み合っていたことは自明である。
では我々の生きる現在において、現代アートの背景を形作り、かつそれに影響を与えるはずの未曾有なテロ事件の原因となったものはなんなのだろうか。それは、アメリカに代表される政治的経済的グローバリズムとイスラム原理主義の過激派が断行するローカリズムの衝突である。したがって、ともに他者を排他的に拒否するイデオロギーを信奉しているグローバリズムとローカリズムというまったく相容れない対立の構図を乗り越えて、現代アートはどのようなヴィジョンを提示できるかが今問われているのである。それは、90年代前半に隆盛を極めたアートにおけるポリティカリー・コレクトネスの実践ではありえない。なぜなら政治的な矯正を必要とするようなモダンの世界はもはや過去のものであり、その廃墟のうえに新たな社会システムを構築しうる思想を創造することが現代アートに求められているからである。この意味で言うなら、現代アートはつね政治的、ということはとりもなおさず倫理的である。
現代アートは、その期待に応えるだけの力量をすでに備えているだろうか。同時代のアートのなかにその資源となるさまざまな思想を汲み取ることができるだろうか。私は、90年代後半より急速に全世界的に広がってきた現代アートのマルティカルチュラリズムの教えを、21世紀の現代アートの方向性を示す重要な指針として取り上げたい。というのもマルティカルチュラリズムこそ、均質な社会の実現を目標とする一元的世界観ではなく、文化的多様性を優先的な価値として尊重し、それを容認する慣習を身につける考え方を人々に示唆するからである。勿論マルティカルチュラリズムの思想に陥穽や弱点がないわけではない。以前に述べたことがあるが、文化的差異がもたらす作品の価値が、スペキュタキュラーな幻想を誘発することが往々にしてある。エキゾティシズムを剰余価値として搾取する資本主義(グローバリズム)が、文化的意味の交流の疎外を惹き起こし、文化的多様性の肯定が逆転されて資本の支配下に置かれるのだ。反対に、それが閉鎖的な民族主義や宗教的原理主義(ローカリズム)に取り込まれて、自文化を絶対化し他文化との交通の可能性すら奪われかねない事態に到る。
現代アートは、最終的にマルティカルチュラリズムを否定するこれらの危険を回避しつつ、それを社会的ヴィジョンの創造に適用する責務があるだろう。つまり文化的多様性や差異を積極的に受容するだけでなく、各文化間の交通をも保証する社会(都市)のヴィジョンを練り上げること。繰り返しておこう。現代アートが目指すべき実践とは、統一や調和を具現する理念の提示ではなく、多元性したがって他者を肯定しつつ、かつ悲惨な分裂や衝突に逢着するのではない社会関係(交通、交流)のあり方を構想することである。