ルイス・ニシザワ・アーカイブプロジェクト──1

日系人アーティスト、ルイス・ニシザワについて

日本から最初のメキシコ移民団35名が海を渡ったのは1897年。この時代の日本は、長男だけが家業を継ぐことができ、第二子以後には奉公に出る以外に仕事がなかったため、政府が移民支援を行いました。一方当時のメキシコ政府は、新しい農地を開拓するために働き手が必要で、そのため日本から移民を招きました。昨今ではメキシコに住んでいる日系人の数は18,000名近い*とされています。

このアーカイブプロジェクトで紹介するルイス・ニシザワ(1918–)は、その最初期の移民団の一人であった日本人の父とメキシコ人の母を持つ、メキシコ生まれの日系メキシコ人です。主に風景画家として知られていますが、1920年代から30年代にかけてメキシコの壁画運動の巨匠たちが大いに発展させた社会主義的リアリズムの影響を受けながら創作をスタートし、その後、それにとらわれず時代の表現を試み続けてきた作家です。当時若いアーティストの誰もがそうであったようにディエゴ・リベラに憧れ、ダビッド・アルファロ・シケイロスらメキシコの重要な作家たちと親交を結びながら、メキシコの近代美術史を担ってきた作家の一人です。そして1996年にはメキシコで最も栄誉ある国民芸術賞(Consejo Nacional para la Cultura y las Artes)を受賞し、その作品はメキシコ大統領官邸や州政府庁舎などでも見ることができます。さらに日本でも瑞宝章を受賞しています。

私自身、日本人として外国に身を置いてことさらに感じることですが、移民の2世として国民的アーティストになるということは、どのような困難な道のりなのでしょうか。このプロジェクトでは、まず作家としてのルイス・ニシザワの活動について、そしてもう一方でルイス・ニシザワが(おそらく無意識的に)担ってきた日本・メキシコ両国の文化交流に果たした役割に焦点を当てています。

1930年代のメキシコは非西洋文化のエキゾチシズムに包まれた国として知られ、アントナン・アルトー、アンドレ・ブルトン、ルイス・ブニュエルらヨーロッパの多くの文化人が多大な想像を抱いてメキシコを訪れています。そして、1930年に来墨したセルゲイ・エイゼンシュテインがリベラの案内でメキシコの歴史、生活、風物について知り、その後映画「メキシコ万歳!」を制作したように、彼らが抱く想像上のメキシコに対して「現実のメキシコ」への視座を与えていたのは、彼らが出会った、リベラをはじめとするメキシコのアーティストたちでした。

1960年頃からは日本からも、河原温、阿部合成、太田清人ほかメキシコに多くの憧れを抱いてアーティストたちがやって来ています。そのとき、多くの日本人アーティストがメキシコに着いて紹介されたのがルイス・ニシザワでした。

特に親交が深かったのはマヤ遺跡の拓本で知られる利根山光人で、日本でルイス・ニシザワを紹介したきっかけも利根山光人だったと聞いています。メキシコの様々な遺跡や密林に出かけていた利根山のそばにはいつもルイス・ニシザワがおり、一方でルイス・ニシザワは利根山光人を通じて東洋の技法を多く学びました。
そしてもう一人、ルイス・ニシザワが親交を深めた日本人アーティストに岡本太郎がいます。岡本太郎は1963年に初めてメキシコを訪れ、その後「明日の神話」制作のために1967年から1969年にかけて頻繁にメキシコを訪れていました。その際、ルイス・ニシザワが壁画制作にかかる画材の手配や現場監督などあらゆる面で支えたと言われています。ルイス・ニシザワは、岡本太郎と旅したソチミルコやテオティワカン、ユカタン地方のこと、メキシコで食べた料理の思い出を語るとき、「彼はスペイン語は話さないけど、メキシコ人みたいな人だった。」と言っていつも顔をほころばせます。そして同時に、尊敬していたとも語ります。

これらの出会いの中に、芸術上の相互影響がどれほどあったのかを言うことは私には難しいですが、アーティストたちが旅するとき、必ずともに価値観や文化が移動し、移動先で融合もしくは反発し合い新たな価値観が形成されていく、そのような日本とメキシコの交わる点にルイス・ニシザワの存在があったことは事実です。

アーカイブプロジェクトのきっかけと目的

クリスタル・ジャングル展」(メキシコ国立自治大学チョポ美術館、2011年2月〜5月)とドキュメンタリー映像制作のためにたびたびルイス・ニシザワの自宅を訪れていたはぎのみほとソリージャ・タロウは、2011年春にエバ夫人が亡くなられた後、アトリエや自宅にあるものの配置がエバ夫人の生前と変わっていることに気づきました。現在の家族のなかに作品を管理する人がいないこと、トルーカ州のルイス・ニシザワ美術館をはじめ、メキシコにも日本にもルイス・ニシザワの功績を残し伝えるための基盤がないために、「国民的アーティスト」にも関わらず、ルイス・ニシザワの作品や資料についての記録が失われていく危険を感じました。

さらに、移民研究を続けていた二人は、昨年の在メキシコ日本大使館移転にともない、その蔵書のすべてが一般の希望者に配布されたことを知りました。二人も大使館から貴重な移民研究資料を借りていただけに、そのアーカイブが所在のわからない方法でバラバラになったことにショックを受けました。何らかの事情があるにせよ、日本とメキシコに関する貴重な資料のアーカイブが失われていっているという事実は残念なことです。

これらの事実を受けてスタートしたこのアーカイブプロジェクトは、ある国民的アーティストについての英雄伝的記録を作ることや、世界の美術史における美術品的価値を高めることではありません。作品の評価を求めないということではなく、世界の美術史に則ってそれを評価することは、その専門家に任せるためです。つまりこのプロジェクトの目的は、人種や肌の色などが欧米に準じない「移民」である近現代のアーティストたちの活動を記録し残していくために、アーカイブという手法を試すことです。ここにも第4回ブログで紹介したパイサヘ・ソシアルのコンセプトが働いています。

<参考文献>
「ルイス・ニシザワ展:信州ゆかりの現代メキシコ美術の巨匠」図録 (長野県信濃美術館、1992年)
エイゼンシュテイン全集 第1部 人生におけるわが芸術 第4巻 映画における歴史と現代(キネマ旬報社、初版1976年)p.63
ルイス・ニシザワ氏へのインタビューより(2012年2月6日ルイス・ニシザワ邸)

<参考リンク>
岡本太郎・メキシコへのまなざし/仲野泰生(川崎市岡本太郎美術館・学芸員)
岡本太郎「明日の神話」特別サイト(いままでのニュース第1〜6回)

*外務省ホームページによると日系人の数は17,753名(2008年10月現在)とされている。

ブロガー:内山幸子
2012年2月17日 / 21:02

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