このお題を頂いた背景には、鳩山民主党政権が年初に打ち出した「新しい公共」を巡る問題があったのだと思っています。
僕は、比較的淡々と一連のニュースをテレビや新聞といったメディアを通じて見ていました。というのも、そこには僕の考える「公共性」は見いだせなかったからです。また一方で、編集部の方から伺った話でも、現在水戸芸術館で開催の『リフレクション展』の関連シンポジウムの中で「公共性」の問題がクローズアップされたとのこと。だとすれば、「アートという社会(champ de l’art)」においても、公共性が今まで以上に注目を集めているという直感は、Artscapeをご覧の皆さんにも共有されているのではないでしょうか?
但し、そもそも「公共性」の話を始める前に、僕らが前提とすべき認識があると思っています。それは、アートや文化政策における「公共性」の議論の際(特にトークやシンポジウムにおいてですが)、そこには議論が存在していないことが多いということです。なぜなら、「公共性」という言葉自体がどうとでも使える言葉になってしまっていて、パネリストAとパネリストBは「公共性」について話していても、実はそこに込める意味はかなりずれていて、「公共性」という言葉を使うことで、両者はあたかも同じ概念について話していると思いこんでしまうからです。
少なく見積もっても、僕はアートの領域で最近使われている「公共性」には三つの概念が混在していると思っています。一つは、運営がパブリック・セクターかプライベート・セクターかという意味での「公共」。これは、文化政策や文化行政の議論の際に前景化していることが多い。二つ目が、社会学者が使う「公共性」。これは、学説史的にはドイツの社会思想家ユルゲン・ハーバーマスや哲学者のハンナ・アレントらの議論を下敷きにしたものです(メディア研究者という出自もあり、日本での花田先生の業績にも言及しておきたい)。これは大雑把に言えば、家族の持つプライベートな圏域とそこに介入する国家の緩衝地帯であって、そこでの合意形成の過程には市民の誰もが参加できるような社会空間です。そして、最後にアーティストが使う「公共性」。これは、本当に人によって用語の使い方がまちまちで、何をもって公共性と言っているのかが分からないこともある。でも逆に、縛られていないからこそ新しいものを生むこともあるのですが。
というような具合です。だから、僕たちがこの似て非なる「公共性」の含意のずれを認識しないで芸術や文化の「公共性」を論じ続けたとしても、多分僕たちは何も生み出せない。少なくとも合理的に新しい地平に到達するのは困難で、カオスから生まれる突然変異を期待するだけになる。つまり、もし僕たちがこの問題と向き合っていくのだとすれば、僕たちは「公共性」という言葉には頼ってはいけない。むしろ、「公共性」という言葉に何が仮託されているのかを注意深く見定めながら議論を追っていく必要があるはずです。結局のところ、「公共性」という用語自体はブラックボックスなのであって、「公共性」について考えるときに「公共性」という用語を連呼するのだとすれば、それは恐らくトートロジーに陥るだけなのです。
[...] This post was mentioned on Twitter by artscapeJP and Proliferator, ArtsPolicy. ArtsPolicy said: アートと公共性の先行研究をCiNiiでサーチしたところ、10年前ごろ一度盛り上がり⇒現場に向かった感が。鳩山政権になり「新しい公共」が出てきて討論材料として再燃、artscape光岡寿郎《「公共性」というブラックボックス》https://artscape.jp/blogs/blog3/590/ のような状況に? [...]
ピンバック by Tweets that mention 「公共性」というブラックボックス « artscape blog -- Topsy.com — 2010年8月16日 @ 11:22