フォーカス
「ヨコハマトリエンナーレ2011」に求められるもの──大きすぎず、難しすぎず、新しすぎず……
村田真(美術ジャーナリスト)
2011年08月15日号
人気アーティストの旧作より、若手の新作に期待
ほかの作品も見てみよう。まず、美術館前に置かれたウーゴ・ロンディノーネによる12体の彫刻。この彫刻はチラシやポスターのメインヴィジュアルとして使われているので、同展を象徴する作品といっていいかもしれない。木の台の上に高さ2メートルのプリミティヴな像が置かれ、表面には粘土をコネコネした手の跡が残っている。が、これが粘土による塑像ではなく、鋳造された金属彫刻(しかも2005年の旧作)であることがわかり、いささかがっかりした。アートに「もし」は必要ないが、これがもしこの場所で市民とともにつくった粘土像であれば、そしてもし会期中に少しずつ崩れていくとしたら、どれほど受け止め方が違っていたことか。もちろん管理する側からすればそんな面倒な作品はゴメンこうむりたいところだろうけど、「OUR MAGIC HOUR」(これはロンディノーネの別の作品から採られている)や「世界はどこまで知ることができるか?」というタイトルにはぴったりハマっていたのではあるまいか。
このように、どこか別の場所でつくられた作品や、すでに発表されたことのある作品は、いくら本邦初公開といえどもセカンダリー感は否めない。蝶の羽を使ったダミアン・ハーストの美しい平面も、球を主題にしたライアン・ガンダーのふたつの立体もしかり。それはそれで作品として楽しむことはできるし、ほかの作品との相乗効果も期待できる(もちろん相殺される可能性もある)が、国際展の出品作品としての評価は半減する。そう思ってガイドブックを見直してみると、現役アーティストでも大半が旧作を出していた。世界中で何百という国際展が開かれる現在、いちいち開催地に滞在して新作なんかつくっていられないというのが人気アーティストのホンネだろう。
言い出せばキリがないので、もう少し前向きに見ていこう。トビアス・レーベルガーは展示室の天井から59個のランプを吊るし、明かりを灯している。《他者》と題するこの作品も新作ではないが、展示場所によってシステムを変えるらしく、今回は横浜市内の子ども部屋の照明と連動させて、子どもがスイッチを入れるとランプの明かりが消えるという仕組みだ。このように作品を一般家庭と接続させる試みは、地域性やコミュニケーションを重視するアートプロジェクトで盛んに行なわれている。だが、筆者が見たとき(2回)はすべてのランプに明かりが灯ったままで、なんの変化も起こらなかった。日中だから子どもは部屋にいないか、いても明かりはつけなかったのだろう。どうせならエアコンと連動させたらもっと変化が見られるし、節電状況もわかるのに。
1階ロビーに置かれたオノ・ヨーコの《TELEPHONE IN MAZE》は、よりコミュニケーションを重視した新作インスタレーション。観客はガラス張りの迷路を歩いて中央に置かれた受話器に行く。運がよければヨーコ本人から電話がかかり直接話すことができるのだが、これも筆者が見ているあいだにかかることはなかった。もっともこの作品、実際にヨーコと話せるかどうかより、話せるかもしれないという期待感や、いま彼女がどこにいて、なにを話すか想像を巡らせることに価値を見出すべきなのだ。
もっと下の世代にも目を向けたい。まだ国際展慣れしていない若手アーティストなら、きっと意欲的な新作を出してくれるに違いないからだ。その期待に応えてくれたのが田中功起と岩崎貴宏だ。田中は2階のロビーに、ベンチ、机、椅子、照明、本棚、畳など館内の備品を持ち出してきて並べ、迷路のような空間をつくり出した。これは休憩所も兼ねていて、座ると前方のモニターで田中の映像作品が見られるというサービス(?)つき。
一方、岩崎は、手すりの上や柱の隅に糸くずで小さな塔や観覧車を建てている。しかしあまりに繊細すぎてその存在に気づく人はなく、遠方に置かれた望遠鏡をのぞいて初めて確認できるという仕掛けだ。しかもその「極小建築」は、おそらく美術館の近くに建つ日本一高いランドマークタワーや、日本最大級の大観覧車を模したもの。田中も岩崎も美術館の備品や建築を有効に使い、思わぬ発想で空間を読み替えることに成功していた。安上がりだったことも主催者に歓迎されたに違いない。
残念なインスタレーションと、並はずれた映像作品
もうひとつの会場についても急いで触れなければならない。日本郵船の倉庫は3階建てで、コンクリート打放しのハードな空間。それだけに空間の特性を生かしたダイナミックなインスタレーションが見られるかもしれないと期待したが、はたしてどうか。
ヘンリック・ホーカンソンは1階の天井から大きな木の根を吊り下げている。大胆な展示であり、震災後の風景を思い出させないでもないが、これだけでは作品としてつまらない。と思って2階に上ると、その真上の部屋に床から天井まで大きな木の幹が立っていて、さらに3階には木の枝が生い茂っている。なるほど、1本の樹木が1階から3階まで貫いているという設定なのだ。発想はダイナミックだが、残念なことに床と幹のあいだに隙間ができて木が貫いているようには見えない。たとえば西野達みたいに実際に床に穴を開けて木を通すか、さもなければトリックと気づかれないよう完璧に仕上げてほしかった。巨大な鉢植えの植物を横倒しにした同じ作者のもうひとつの作品《倒れた森》が、意外な効果を生み出していただけに残念だ。
ほかにこのハードな空間に触発された大がかりなインスタレーションは少なく、代わりに多かったのが映像だ。国際展に映像作品が増えたのは、動きや音があるので人目を引きやすいことや、プロジェクターの進化により見せ方が多様になったこともあるが、なによりDVDさえあれば世界中どこでも見られるという利便性が最大の理由だろう。だとすれば、泉太郎のようなその場でつくる映像インスタレーションは別にして、国際展における映像作品の評価は5割減くらいで見る必要があるだろうと勝手に思っている。ここで見られなくても、いずれどこかで見られるからだ。だが驚いたことに、5割減でもなおヨコトリのベスト3に入れたい作品があった。クリスチャン・マークレーの《The Clock》だ。
これは、古今東西の映画のなかから時計が登場したり時刻を告げるシーンを抽出し、実時間と同調するように再編集したもの。つまり映像のなかの時計が3時40分を指したら、それを見ている時刻は3時40分なのだ。それが24時間途切れることなく映し出されていく(見られるのは開館時間だけだが)。しかも細切れの映像をただ機械的につないだのでなく、連続した映像として見られるように編集してあるのだから驚く。端的にいって、これはスゴイ。
この作品は今年のヴェネツィア・ビエンナーレにも出品され、金獅子賞を受賞したからご存じの方も多いはず。さて、そんな作品がヨコトリでも見られることをどう評価すればいいだろう。ヴェネツィアの二番煎じに甘んじたことを恥じるべきか、それともヴェネツィアでの受賞作がいち早く横浜で見られることを喜ぶべきか……。これは冒頭に述べた「人は国際展になにを求めるか」という問いに関連してくる問題だが、ヴェネツィアに後れをとったことを恥じる人はまずいないだろう。国際展にはその場所のためにつくった新作こそふさわしいと主張し、映像作品はほとんどスルーしてはばからない筆者も含めて、大半の人はこのような優れた作品が見られることを素直に喜ぶはずだ。
ヨコトリに求めるものとは?
ではあらためて、今回のヨコトリに求められていたのはなんだったのか。国際展としては、メイン会場が2カ所で出品作家が77組というのはそれほど大きな規模ではない。しかもひとつは美術館での展示なので、よくも悪くもまとまっていて破綻がない。内容的にも、そこそこ現代美術の動向を知ることができるし、そこそこ祝祭性を楽しめるし、そこそこ知見を深めることもできる。筆者が「説明的すぎる」と感じた展示も、一般の観客から見れば「わかりやすく、親しみやすい」かもしれない。
逆説めくが、この特徴のなさ、凡庸さこそヨコトリに求められていたものではないだろうか。先にも述べたように、国際展を訪れる人の大半が求めるのは、現代美術の知識でもなければ、新しさでも国際性でもなく、魔術性でもコミュニケーションでもなく、アートな雰囲気だろう。だとすれば、これまでのなかで今回のヨコトリがそれにもっともよく応えているのではないだろうか。しかし、それで満足できない人は? ヨコトリにより高度な専門性や、度を超した祝祭性や、横浜ならではの地域性を求める人は? 今回はそんな人のためにちゃーんと「新・港村」と黄金町バザールという破格・破調の特別連携プログラムを用意しているのだが、それについて触れる余裕はもはやない。