フォーカス
特異な現前──東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン」展評
松浦寿夫(美術作家、美術批評家)
2013年03月15日号
対象美術館
松浦寿夫氏によるフランシス・ベーコン展のレビュー。現在開催中の東京国立近代美術館(2013年3月8日〜5月26日)のほか、豊田市美術館にも巡回します(2013年6月8日〜9月1日)。[artscape編集部]
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現在、フランシス・ベーコンの回顧展示が、30年ぶりに東京国立近代美術館で開催されている。同じ美術館での前回、1983年のベーコン展は、日本での初めての体系的な回顧展として45点のまとまった作品群を展示し、この特異な画家の作品に直接ふれることを可能にする貴重な機会であった。30年の時差、また、この画家の没後20年余の時差とともに開催された今回の試みは、総展示作品数では、33点と、若干の規模の縮小はあるにせよ、より明確な批評的基準から構成された展覧会としてきわめて注目すべき成果たりえている。そしてまず何よりも、このきわめて困難な試みを実現された東京国立近代美術館の保坂健二朗、桝田倫広の両氏、ならびに豊田市美術館の鈴木俊晴氏の尽力に敬意を表しておきたいと思う。
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今回の展覧会が単に年代記的な作品展示という回顧の形式の採用という以上に、ベーコンの作品における「身体」の主題の再考という批評的な観点から組織されている点に、企画者たちのきわめて明確な視点が示されている。実際、ベーコンの作品は「移りゆく身体1940s−1950s」、「捧げられた身体1960s」、「物語らない身体1970s−1992」と題された三つのブロックによって構成されることによって、ベーコンの制作の時間的な展開をたどりつつ、もっぱら、各時代において「身体」をめぐる思考の変移を主題化する試みが遂行されている。さらに、ベーコンの作品の主題的な検討のいわば補遺として、「エピローグ:ベーコンに基づく身体」のブロックが構成され、土方巽とウイリアム・フォーサイスの身体表現におけるベーコンの思考の直接的な波及の事例を提示している。
当初、実際に本展覧会場を訪れる前に、このエピローグの部分の存在を情報として得た時点では、「ベーコンに基づく身体」の事例がどのようなものであるかが判然とせず、少なからぬ危惧を抱いていたのだが、この危惧が杞憂に過ぎなかったばかりか、展覧会場でフォーサイスのダンスの映像を見たときに、それがきわめて重要な解読格子を提供してくれるものであるという事実に幸福な驚きを禁じえなかったことを告白しておかなければならい。しかも、この解読格子は従来のベーコン解釈──多くの場合、この上もなく礼賛的な解釈、または対極的に全否定的な解釈──に対して少なからぬ疑問を抱き、身体の出現する場にもっぱら注目してきた筆者にはきわめて説得力のある支援をもたらしてくれるものでありえたし、今回の展示で採用された「身体」という主題へのベーコンの作品の特化に対する批判的な視点をも内包しえるものではなかっただろうか。というのも、きわめて多くの場合、ベーコンを語る批評的な言説はベーコンの作品をもっぱら人間の身体に行使される暴力による歪曲化(distorsion)の水準に位置づけることに終始してはいないだろうか。たしかに、もっとも目に付きやすいベーコンの作品の特異性は、身体の歪みに見出されるかもしれないが、しかしこのような視線からつねに脱落する点は、外的な諸力によって身体に課される作用が生起する場、いわば出来事の生起の場それ自体に他ならない。そして、フォーサイスのダンスそれ自体というべきか、むしろ、ペーター・ヴェルツによる映像化の貢献というべきかは微妙なところではあるが、ともあれ、この両者の作品が切り開いて見せた地平に注目することから、この小論を開始することにしよう。
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この2005年の共同作品は、ベーコンの最後の未完成の作品を題材として構成されたフォーサイスのダンス作品を三つのスクリーンに投影するインスタレーションと要約できるかもしれない。ヴェルツの作品はフォーサイスのダンスを三つの異なった角度から撮影された映像からなっており、この点でひとつの身体の三つの位相の提示という点で、たしかにベーコンの三幅対の作品をなぞるものといえるが──ここで、この作品の題名に用いられた「再翻訳(retranslation)」という語を想起すべきだろうか──、だが、もっとも示唆的な点は、ヴェルツの映像作品において白地の背景から地平線がことごとく排除されている点である。そして、グラファイトを装備した手袋と靴が白地の地平、正確にいえば地平として知覚不可能な地平に若干の汚れの領域がダンスの進行とともに、たえず変形されながら形成されていく点である。この二つの点は何を喚起するだろうか。ひとつには、ごく端的に、身体が自重という不可避の条件付けにもかかわらず、この条件から逸脱する瞬間が演出される点である。それはまた、今回展示されたベーコンのいくつかの作品、とりわけ、「横たわる人物No1」、「横たわる人物No3」、「裸体」、「座像」といった1960年前後の作品に顕著に現れる徴候である。さらに、この自重をめぐる問いは本展で取り上げられた土方巽の「疱瘡譚」との接続の回路ともなりえるかもしれない。実際、土方巽の起き上がれない身体は、もうひとつ別の形での、つまり地平への流出という仕方でこの自重からの逸脱を実現しているし、この舞踏がきわめて強く観者に作用するのは、土方の身体以上に、この身体と地平の接触点であり、身体の運動と平行して形成されるその地に他ならない。そして、さらに、この問題はクライスト=ドゥルーズ的なマリオネット状態とも接続するだろう。
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いまひとつには、ベーコンの作品における身体とそれが登場する場との特異な関係に対する重要な示唆をもたらしてくれるという点である。イラストレーションの拒絶というベーコンの課題にとって、身体のみが主題化されるとすれば、それは単なる表象=再現的な構図における演出という段階にとどまることに他ならず、ごく端的にイラストレーションの段階にとどまることになりかねない。それゆえ、観者の身体表現への過剰な注目はむしろ、イラストレーションに逆らうというベーコン的な試みを裏切り、身体の物語へ彼の作品を帰着させることになりかねない。とはいえ、ベーコンが描き出す身体の登場する場とこの身体との関係は通常の意味での図/地の関係とは異質な何ものかを備えている。それは、図/地の分離とは異なった関係、いわば、この両者を分離=接合(dis-junction)する他の項を備えた関係ともいえるかもしれない。あるいは、『感覚の論理』ばかりではなく、『哲学とは何か』のドゥルーズが展開する概念と内在面との関係の記述を想起すべきだろうか。哲学という思考の運動が概念の創造を任務とするという記述は、実際、ドゥルーズのテクストの様々な場所に見出すことができるが、この概念と内在面との関係について、たとえば、「哲学とはひとつの構成主義であって、この構成主義には相補的ではあるが本性上異なっている二つのアスペクトがある。すなわち〈いくつかの概念を創造すること〉および〈ひとつの平面を描くこと〉である。諸概念は、いわば、上昇したり下降したりする多様な波であり、他方、内在面は、諸概念を巻き込んだリ繰り広げたりする唯一の波である。」という一節を引いてみることもできるだろう。そして、この一節をベーコンの作品の脇においてみれば、それは、ベーコンの作品における身体と身体の生起する場との関係の記述であるかのような眩暈をもたらしえないだろうか。なお、余談だが、ベーコンとほぼ同世代の、バーネット・ニューマン、アルベルト・ジャコメッティといった芸術家が、外見上の差異にもかかわらず共有した特性は、いずれもが、ある対象の再現的=表象的な関係の実現ではなく、何ものかの出現という出来事を共通の課題としたこともここで喚起しておくべきだろうか。
ところで、今回の展覧会カタログに収められた文章はいずれも示唆に富んだものであるが、なかでも、ドガのパステルの使用を経由して画像とその出現の場との関係を記述した鈴木俊晴氏のテクストは、この小論の文脈からのみならずきわめて充実したテクストであることは強調しておきたい。読者は、さらに鈴木氏のテクストの彼方に、そのエピグラフの出所であるポール・ヴァレリーの「ドガ・ダンス・デッサン」の「地と無定形なものについて」と題された章に向かうこともできるかもしれない。そして、そこに「特異な現前」というベーコンに相応しい語を発見することもできるだろう。