フォーカス
民藝の継承と拡張──「柳宗理の見てきたもの」展レビュー
足立元(美術史、美術評論)
2013年10月15日号
対象美術館
民藝品をとおして柳宗理を見る
羽ばたく蝶のような椅子《バタフライ・スツール》(1954年)で国際的に知られ、使い出の良いキッチンウェアで家庭でも親しまれている、デザイナー柳宗理(1915〜2011)。彼が館長を約30年にわたって務めた日本民藝館では、追悼の意を込めて「柳宗理の見てきたもの」展を開催している。
だが、展覧会でその名前を掲げながらも、ここに柳宗理が制作したものはない。展示されるのは、宗理が館長時代に蒐集した民藝品の一部200点ほどと、彼の遺品である。この展覧会では、宗理の見たモノを通して、彼が体験したコトを追体験するように味わい、そのデザインと思想を思い起こさせる内容となっている。
また、この展覧会は、歴史のあるミュージアムが自らの歴史を自己言及的に展示するという点で、アーカイヴ論の観点からも興味深い。ここでは、父と息子の間に起きた、思想の継承と拡張が認められるのだ。
宗理の蒐集方針が、日本民藝館を1936年に創立した父・評論家の柳宗悦(1889〜1961)のそれとかけ離れているわけではない。だから、特別展示の内容も、じつは常設の部分と大きく違わない。ただ、宗理の蒐集の特色のひとつとして挙げられるのは、父が訪れた北海道、沖縄、韓国、台湾、中国ばかりでなく、父が訪れなかったインド、チベット、ブータン、ネパール、アフガニスタン、アフリカ、アメリカ先住民などの民藝品をも集めたことである。
日本民藝館の玄関を入って、まず驚かされるのは、階段のある吹き抜けに吊された巨大な《アフリカの布》(20世紀)だ。だが、その素朴な染織の文様は、力強い生命感を示しつつも、大きな主張をしないで、和風の木造建築に溶け込んでいる。
展示物の中には、宗理がデザインした鍋のように、左右対称の耳のような突起を思わせるモノもある。碇のかたちをしたコンゴの《貨幣》(20世紀)や、木彫の鳥であるコートジボワールの《サイチョウ》(20世紀)など、あちこちで耳のようなカタチを発見できる。
また、宗理のデザインには、程よい豊満さ(ボリューム)の部分とキュッと絞った部分を組み合わせ、軽重の対比を感じさせるものも多い。マリの《土器》(12〜16世紀)や、タイの《黒漆蛙型容器》(19〜20世紀)などは、そうした特色を思わせる。
繰り返すが、古い日本家屋風のこの建物の空間の中で、息子・宗理が集めたアジアやアフリカなどのモノたちは、既に父・宗悦が集めた、日本・朝鮮のモノたち、イギリスのモノたちから、浮いていたり、違和感を感じさせたりしない。どころか、それらは、むしろ関わり合いながら調和している。ここでは、一点一点を解説などで掘り下げて考えさせないかわりに、空間とモノたちを全体として、すっと楽しめるようにしている。
常識的に考えれば、様々な民族文化のモノたちをごった煮にすることで、文化の衝突が起きるはずなのに、ここではそうならない。これは、宗理による民藝の選択がすぐれているのか、それとも、民藝自体に異質な文化へ開かれたところがあるのか。
家族の食卓
この展覧会では、1943年の柳宗悦と宗理の父子を含めた家族写真を基に、日本民藝館の向かいで暮らしていた柳家の食卓が再現されている。彼らは、朝鮮の古い日用雑器と濱田庄司など民藝作家の新しい陶器を、実際に一緒に使っていた。ときに日本民藝館の展示品がその家庭で使われ、逆もまたあったようだ。民藝の基底には、この家族の日常の(だが多くの家庭にとっては特異な)私的な生活が密接に関わっていたことを教えてくれる。
そもそも民藝とは、工芸の一ジャンルではあるが、たんなるフォーク・アート(民俗芸術)の訳語ではない。それは、大正末期から父・柳宗悦を中心に始まった、工芸の運動であり、美の思想でもある。「民藝」という名称は、1926年8月に宗悦と工芸家の富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司の四人によって書かれた「日本民藝美術館設立趣意書」において初めて登場した造語だった。
その時代背景に目を向けると、1927年帝展に工芸部門が設置され、その中で工芸家が美術家と並ぶ作家性を持つようになり、大正アヴァンギャルドの影響を受けた、実用性を重視しない、斬新で奇抜なカタチをもった作風が華々しく迎えられていた。
宗悦は、そうした状況に対抗して、「用」と「無名性」を中心に据え、日常の生活雑器、無名の職人が手作業で作ったもの、地方性を有するものの価値を讃えた。そして仲間の工芸家たちに、その風情のあるものを作らせた。さらに、朝鮮、沖縄、日本各地の雑器を紹介し、その保存や復興を訴えたのである。
だから民藝には古いモノも新しいモノも含まれていて、その内実を捉えることは容易ではない。また、無名性を謳いながら、実際は柳宗悦という個人が美しいと認めたものが、何でも民藝になってしまうという側面もある。人が民藝を好むかどうかは、宗悦を信じるかどうかという部分にも関わってくる。
民藝の継承
教祖のような父を持ってしまった息子は、逃れがたい影響を受けつつ、反発もするだろう。少年時代の息子・宗理は、父・宗悦の唱える民藝に背を向け、西洋のアヴァンギャルドに憧れて東京美術学校の西洋画科に進んだ。しかし、卒業後にデザイナーの道を歩き始め、1940年に来日したシャルロット・ペリアンに感化されたとき、父の民藝を受け入れることにもなる。ペリアンは、若き日の宗理に、日本の伝統を学ぶことの重要性を教えた。1943年の食卓の写真の時点では、まさに家庭内で民藝を伝授されていたことになる。
宗悦は、宗理のデザインの仕事には無関心だったが、《バタフライ・スツール》には少し関心を示したらしい。宗理は、周囲からは父に反抗する不肖の子だと思われていたが、1978年には日本民藝館の3代目館長を引き受け、自分こそが父の最大の理解者だと語るまでになった。
宗理は、民藝の本質について次のように述べている。
「民藝の深奥に、人間生活の原点を窺い取ることが出来る。また、その純粋さに美の源泉を汲み取ることが出来る。/人間性喪失の今日、民藝の暖かみのある人間性と、その始原的な純粋性に、今日の人々ははなはだしい共感を覚えると共に、過去に対する憧憬まで感じさせる。/しかし、民藝の美に対して感傷にばかり浸ることは許されない。我々はそこから将来に向って、何を学び取るかということが大切である。民藝は地域文化であり、民族の伝統によって徐々に凝結したものであるから、すこぶる純粋たり得た。/この純粋さは美の根源であり、その美は、時代及び国境を越えた我々すべての人類が持ち帰る普遍的な共通のものである。」(「デザイン考」『柳宗理エッセイ』より)
宗悦以上に、宗理は、民藝の原理を純粋普遍なものとして、分かりやすく説いた。そして、その今日的なあり方を考え、デザインでも実践していた。彼は、派手で奇抜な流行の造型を批判し、アノニマス・デザインを称え、デザインでは実用性と機能性を追求した。それは、かつて父が新しい工芸を批判したことに重なって見える。さらに、宗理が日本民藝館の館長を務めたときには、民藝とモダン・デザインを橋渡しして、若い来館者が増えた。
民藝と民族
ただ、作り手でもあるからこそ、宗理は、民藝の中に「我々すべての人類が持ち帰る」ものを捉えていたのではないだろうか。また、宗理が民藝を「人類」のスケールまでに民藝を拡張していたことは見過ごせない。
実際、宗理は、民藝の海外展示を積極的に行い、アメリカやヨーロッパ諸国での紹介に努めた。それは民藝の普遍的な価値を信じてのことであろうし、その活動は確かに認められて、今日Mingeiは欧米においても研究の対象となっている。一方、おそらく宗悦は、概念として「人類」を理解していたかもしれないが、国際舞台で広く活躍していた宗理ほどに肌で感じてはいなかったにちがいない。
最近出版された前田英樹『民俗と民藝』(講談社)では、民藝と民俗学という、よく似た名前でありながら、しかしこれまでほとんど並べて論じられることのなかった、近代の二つの思想を比較しつつ、そこに交差・共鳴しうる可能性を論じている。だが、宗悦は、柳田國男の民俗学とは相容れなかったという。
戦後に活躍した宗理は、宗悦と同じ基準で民藝を選ぶ眼となった。宗理も民俗学には関心がなかっただろう。だが、インド・アフリカへ積極的に出かけ、当地のモノを蒐集し、それらの地域を視野に入れたことで、民藝は図らずも民族学と隣接することになった、と指摘できる。いわば、民藝となり得る範囲が東アジア規模から世界規模へと拡張したとき、そればかりではなく、民藝は、父が遠ざけた民俗学を越えて、民族学へと近づくことになったのだ。もちろん体系的・学問的なものか否かという違いはあるが、人類の普遍的なものを探るという点においても、宗理の民藝は民族学と目指すところが重なる。民藝を、国際化した今日に生かすことを考えていた宗理にとって、それは必然だったのかもしれない。
変わらない展示
宗理がかつて日本民芸館の館長を務めていたとき、大幅な拡張を考えたこともあったという。「民藝館の隣に現代生活館なるものを建て、現代の機械製品の良い物を並べて、民藝館との繋がりをしっかり明示したい」と述べたことがある(「柳宗悦の民藝運動と今後の展開」『柳宗理エッセイ』より)。
だが、そう書いた後に、宗理は考えを改めたのだろう。もし現代生活館の建設が可能であったとしても、やはり実行しなかったのではないだろうか。それは、この建物の持つ魅力をぶち壊すことにもなるからだ。新しさに抗い、敢えて古いままに立ち止まることの重要性を、この建物は身を以て示している。
そして宗理は、日本民藝館において新館の大展示室をさりげなくく加えつつ、父・宗悦が戦前につくった特殊な展示手法を、忠実に受け継いだように見える。学芸員によると、かつて展示作業のとき、宗理が壁一面にモノをなるべく沢山つめこむことを指示していたのが印象深いという。
なるほど普通の博物館・美術館の展示では、モノとモノとの間隔をあけて、理路のある統一された空間と共に、モノの背後の歴史や文脈を伝えようとする。だが、ここでは、異質・異文化のモノとモノとが接する、即興のような響き合いのなかで生まれる刺激を大事にしているようだ。
モノたちが持つ意味内容よりもそのカタチや風格を重視し、ランダムにつなげていく。音楽でいえば、ワールド・ミュージックのDJといったところだろうか。日本・アジア・インド・アフリカ・ヨーロッパの世界中の古い日用のモノをサンプリングし、気持ちよく並べるようなものだ。
民藝とは、結局のところ、その気持ちよさを見いだし感じるセンスのようなものではないか。理屈ではない。だからこそ民藝は信仰に似たところもあると思われるのだが、その空間の中で立ち現れてくるコトは、決して古くささを覚える体験ではなく、むしろ新鮮な感興だ。父の思想を受け継いだ息子の愛が、今もその空間を支えている。