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「琳派」の現在――流派概念の限界と「琳派」「RIMPA」の可能性
加藤弘子(日本学術振興会特別研究員PD)
2015年09月15日号
対象美術館
琳派400年記念と光琳300年忌
今年は京都を中心に各地で琳派をテーマとした展覧会やイベントが盛んに開催されている。これは、琳派の祖のひとりとされる本阿弥光悦(1558〜1637)が、徳川家康より京都・鷹峯の土地を拝領して光悦村を拓いた元和元年(1615)を琳派誕生の起点とし、それから400年後にあたる2015年を「琳派400年記念祭」として、京都の官民が一体となって記念事業を推進しているためである。内容は多岐にわたり、狭義の美術だけでなく工芸、インテリア、デザイン、ファッション、京料理、和菓子、観光など、生活に関わるあらゆる分野が対象となっている点に特徴がある。こうした事業の多様性は、琳派の代表的な作家達が絵画のみならず書跡や染織、陶芸・漆工など調度品を含む生活美術全般に関わっていたことにも呼応している。
また、本年は享保元年(1716)に59歳で没した尾形光琳の300年忌にもあたる。これを記念してこの春には根津美術館とMOA美術館が共同で、光琳が描いた国宝の屏風2点を中心とする特別展「燕子花と紅白梅 光琳デザインの秘密」と「燕子花と紅白梅 光琳アート 光琳と現代美術」をそれぞれ開催して好評を博した。前者では光悦から光琳までの作品で光琳デザインの源泉とその営みを探り、後者では光琳からその影響が窺える現代美術までの作品をたどることで、琳派を過去の遺物としてではなく、現在につながる美の系譜として提示した。
これを機に、琳派関係の書籍や雑誌も次々と刊行されている。なかでも、河野元昭監修『年譜でたどる琳派400年』(淡交社、2015年)は、最新の琳派400年の概要を知りたい鑑賞者にとって、コンパクトなよい手引きとなるであろう ★1。
「琳派」とは
「琳派」とは何であろう。一般的には、安土桃山時代から江戸時代初期に京都で活動した本阿弥光悦と俵屋宗達(生没年不詳)に始まり、尾形光琳(1658〜1716)と弟の乾山(1663〜1743)を経て江戸の酒井抱一(1761〜1828)に私叔によって継承された、日本美術の装飾的特質を代表する流派として認知されている。光悦と宗達は同時代を生き、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重文、京都国立博物館蔵)に代表される書と絵画のコラボレーションを行ったが、世代が異なる宗達と光琳、或いは光琳と抱一の間に直接の師弟関係はない。宗達、光琳、抱一による一連の「風神雷神図屏風」にみられるように、後の時代の作家が前の時代の作家を慕い、作品を模範として見つめ、写し、学ぶことによって、図像が技法とともに共有され、時代を超えて継承されてきたのである。
琳派の中でもとくに光琳は江戸時代から現代まで高い人気を保っている。19世紀後半のジャポニスムの時代には『光琳百図』などの複製印刷物が西欧で受容され、日本美術の装飾的特質への賞賛と、その代表的作家としての光琳への高い評価が日本に逆輸入されたため、光琳は装飾美術の大家としての地位を不動のものとした。横山大観(1868〜1958)、菱田春草(1874〜1911)ら日本美術院の作家たちは琳派の造形に新しい日本画創造へのヒントを見いだし、神坂雪佳(1866〜1942)など図案に携わる作家たちも多大な影響を受けた。また、光悦は書跡・陶芸・漆芸・出版と多方面で活躍した芸術家としてアーネスト・フェノロサ(1853〜1908)に「日本最大の芸術家」と賞賛された一方、宗達は江戸時代後期に一旦忘却され、明治36年(1903)『光琳派画集一』において光琳筆「風神雷神図屏風」の原図筆者として再浮上し、同年、東京帝室博物館特別展覧会において宗達・光琳・抱一の「風神雷神図屏風」が揃って出品された。そして、大正時代に「平家納経」(国宝、厳島神社蔵)の補修者として宗達が再評価され、自由と個性を尊ぶ気風の中で今村紫紅(1880〜1916)をはじめとする作家たちに受容されたという経緯がある。とりわけ、宗達・光琳・抱一の「風神雷神図屏風」が揃って出品された明治36年(1903)に「琳派伝説」が創出され、それが新たに発見された日本美術史上の「伝統」に他ならなかったとの玉蟲敏子による指摘は、いくら強調してもしすぎることはない★2。
その後、現在の「琳派」の名称が定着したのは1972年に東京国立博物館100周年を記念して開催された特別展「琳派」からである。かつては「尾形流」「光悦派」「宗達光琳派」あるいは「光琳派」とも呼ばれ、近年では2004年に東京国立近代美術館で開催された「琳派RIMPA展」のように、日本画というジャンルを越えて現代美術や欧米の作品まで対象を広げて琳派的なるものを探り、グスタフ・クリムト(1862〜1918)やアンディ・ウォーホル(1928〜1987)の作品を「RIMPA」として提示する大胆な試みもなされている★3。こうした流派名の変遷自体が、琳派に名を連ねる作家達の評価の変遷、琳派という流派概念の形成とその解釈が拡大されていった歴史を示しているのである。
流派概念の限界
もし本年の琳派顕彰事業を見ることができたとしたら、光悦と宗達は流派の祖に位置づけられていることに驚き、光琳は尊敬する宗達ではなく自らの名が流派を代表していることに戸惑うであろう。そして抱一だけは、一年以上にもわたる壮大な琳派顕彰事業を喜び、鑑賞者に作品との多彩な出会いの場を提供している関係者の労をねぎらってくれるに違いない。
というのも、研究の観点から言えば、本来、琳派誕生の起点は200年前、文化12年(1815)光琳百回忌に際して行われた抱一による光琳顕彰事業だからである。抱一は法要を営み、当時、光琳作とみなされていた作品を集めた遺墨展を開催して図録『光琳百図』を出版するとともに、上方と江戸の宗達・光琳とその周辺の系譜を『尾形流略印譜』としてまとめた。この抱一による一連の光琳顕彰事業によって、はじめて「尾形流」というひとつの流れとして位置づけられ、それが明治時代に「流派(school)」に読み替えられたのである。したがって、少なくとも抱一以前の光悦と宗達、そして光琳には、自分たちが琳派に属しているという自覚はなかったはずだ。
この問題については、琳派概念の形成史をあきらかにした玉蟲敏子をはじめとする複数の研究者が繰り返し指摘してきた★4。それは、粉本継承も運筆継承もない系脈を狩野派などと同等に考えてよいものかとの懸念であり、また、縦の構造を重視する琳派観があまりに強固に成立したため、各々の時代の横へのつながり、コンテクストへの視点を見失わせてきたことへの警鐘であった。琳派の中には多様な個性が含まれており、それを流派観の強いフィルターを通して眺めた場合、個々の作品が成立した経緯や他の流派に属する作家や作品との関係が見えにくくなるのである。例えば、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(国宝、MOA美術館蔵)について、これまでは主に同じ琳派の俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」との関係から言説が重ねられてきた。しかし、光琳に狩野派学習の経験があった事実は軽視できず、榊原悟が指摘する狩野探幽筆「紅白梅小禽図」(個人蔵)との構図の近似も無視できないだろう★5。
もともと、美術史の様式論は自然史(博物学)をモデルにしてその構築が始まっている。18世紀のヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717〜1768)は作家の列伝史から作品の様式史へと舵をきった美術史家であるが、彼にはビュフォンの『博物誌』からの影響が読み取れ、ヴィンケルマンにとっての「様式」がビュフォンにとっての「動物種」であったことが、古くは美術史家のカール・ユスティ(1832〜1912)、近年では歴史家のカルロ・ギンズブルグ(1939〜)によって言及されている★6。そして、現在の生物学における種の分類はDNA塩基配列分析などによって行われ、形態の分類によって構築した種の系統樹は書き換えられつつある。
では、翻って、美術史においてある作品が琳派であることを証明する様式上の特徴、すなわち、分子生物学のDNA塩基配列に該当するものは何であろうか。琳派の特徴については「シンプリシティ」や「純粋でたおやかな装飾性」といった総括★7、形態としては円や曲線、平面性、色彩は水墨のモノクロームから華麗な金銀濃彩まであり、技法としては金銀の加飾、たらし込み、型の使用、古典からの図像の引用などがあげられる。また、主題は王朝美や古典文学、方針は古典復興、ジャンルは書跡や諸工芸を含む生活美術、総合芸術と言えよう。しかし、たらし込みや型の使用を除けば、多くは他派の作品にも確認できる特徴であり、研究が進めば進むほど、多様な作家の作品を流派に分類して語る難しさ、流派という枠組みの限界が見えてくる。
安村敏信は、宗達・光琳・抱一の異なる環境と個性に注目した結果、抱一は光琳以外のさまざまな画風を折衷して取り込んでいるため、抱一に始まる江戸の流派を「抱一派」と呼称した方が理解しやすいと提案している★8。この他にも、「俵屋宗達は琳派にあらず」「江戸琳派は琳派ではない」など、流派分類をめぐって多様な説が出ており、河野元昭が「定義できないのが琳派」と定義する所以である。とはいえ、今後も琳派研究が進んでいくことを考えると、そう判断するのは時期尚早かもしれない★9。
そもそも光琳以降の作家たちに比べ、琳派の祖とされる光悦と宗達にはまだ不明な点が多い。光悦は上層町衆の出自で、本阿弥家は刀剣の研磨・浄拭・鑑定を生業としていたが、光悦が鷹峯の地で書跡・陶芸・漆工・出版それぞれにどこまで直接的に関わっていたかについては地道な検証が続けられている。2013年に五島美術館で開催された特別展「光悦 桃山の古典」は、琳派の枠組みからではなく、光悦その人に焦点をあて、書状など歴史資料と作品から光悦の実像に迫ったことは記憶に新しい。
宗達については「俵屋」という工房を営み、後水尾院や醍醐寺三宝院の覚定といった貴顕からの注文に応えていたことなどがあきらかになっているが、出自や生没年、誰に絵を学んだかといった基本的な情報がほとんどないため、その実像は謎に包まれている。宗達のみならず琳派を象徴する代表作である「風神雷神図屏風」(国宝、建仁寺蔵)は無落款で、その制作時期は壮年説と晩年説など諸説あり、作品の編年すらままならない。このように、作品や活動について確かなことが殆どわからないにも関わらず、いや、わからないからこそ、私淑によって、光悦と宗達は後世の人々の思いや解釈を自由に投影されてきたのである。
「琳派」「RIMPA」の可能性
2004年に「琳派RIMPA展」が企画された理由のひとつに、担当者の古田亮が当時の閉鎖的な日本画の状況を憂い、日本画だけでなくすべての現代の作家に何かしらの刺激があれば・・・との願いがあった。そのために、従来の「琳派」の概念をときほぐす必要があったわけである★10。本年の琳派顕彰事業においても再び「琳派」とは何か、その概念を問い直すとともに、現代の作家や鑑賞者を含む多くの人々を触発することが期待される。
「現代の琳派」はある種の褒め言葉になっており、例えば日本画では加山又造(1927〜2004)が「現代の琳派」として賞賛されたことはよく知られている。ところが、村重寧の証言によれば、琳派風に転向した動機は、戦後、物資の乏しい頃に上野の「宗達光琳派展」で見た豪華な金銀屏風の贅沢な画材への憧れからであり、加山自身に琳派をやっているという意識はなかった。加山は「ただ、日本の伝統の中にある、おもしろい形や美しい色を自分の感覚で新たに表現してみたい、と常に思って描いている。光琳だって同じだったと思う」と語っている★11。
それは琳派を日本の美の代表と捉えていたデザイナー 田中一光(1930〜2002)の場合も同じであっただろう。彼の代表作「JAPAN」は宗達が補修したとされる「平家納経」願文見返しに描かれた鹿を引用したデザインであるが、同じく代表作の「広島アピールズ」では琳派ではなく、宋代絵画である徽宗筆「桃鳩図」(国宝、個人蔵)の鳩を平和の象徴として引用している。「平家納経」も東山御物として日本に伝来した「桃鳩図」も田中一光にとっては同じ「日本の伝統」であり、何よりも鹿と鳩に共通する「ふくよかな曲線」という造形要素に魅了されていたのである。戦後、欧米を相手に日本のグラフィック・デザインを牽引した彼は、古典作品からの引用というまさに古典的な手法によってそのアイデンティティを確立した。同時に、光悦・宗達・光琳がアート・ディレクターでありデザイナーであったという解釈に、自身を重ね合わせることもあっただろう。いずれにしても、琳派の特徴をその場限りの引用ではなく、デザインの方法論として捉えようとした点に、彼の偉大さがあった★12。
現代の作家たちもまた、それぞれの視点と方法で過去の作品を解釈し、造形的要素を取捨選択し、意味を転換、あるいは拡張する。
絵画では、会田誠(1965〜)が自在に構図やモチーフを引用し、そうした引用に弱い、アカデミックな美術史を叩き込まれた研究者達(筆者含む)の心を鷲づかみにする。とはいえ、「美しい旗(戦争画RETURNS)」が宗達筆「風神雷神図」の構図を下敷きにしたとしても、最終的に出来上がった作品は宗達の影響下にあるわけではない。会田流のコンセプトとシミュレーショニズムの手法に基づき、琳派に限らずさまざまな古典作品から、研究者にはそれとわかる形で巧みに引用するのみである★13。
写真家の杉本博司の場合は、長年、彼が古美術を扱ってきたためであろうか、同じ本歌取りであっても、本歌自体へのリスペクトが見え隠れする。「月下紅白梅図」(個人蔵)では、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」をプラチナ・パラディウム・プリントで撮りおろし、昼の光から夜の光へ、濃彩からモノクロームへと変換した。杉本が狙ったとおり、深い闇の中で梅の白い花が匂い立つような作品に仕上がった。尾形光琳筆「紅白梅図屏風」の技法を巡って起きた論争や、再調査の結果、背景は金箔、川部分には銀箔、水流は礬水(どうさ)を用いたマスキングによる硫化と判明したことを思うと、紅白梅図屏風の何を見てきたのか、見えているのかという、批評を突きつけられていることに気づく。
彫刻ではヤノベケンジが「PANTHEON−神々の饗宴−」(京都府立植物園)において、宗達が三十三間堂の風神・雷神像を参照して三次元の仏像を二次元の絵画「風神雷神図屏風」にした行為をふまえ、それらを再び三次元の彫刻に変換してフローラ像の両脇侍とした。筆者が取材した際は市民が彫刻に声をかけるほど親しまれていたが、フローラ像の見た目の可愛いらしさとは裏腹に、風神と雷神を通して深刻なエネルギー問題について考えさせられる作品だ。
ガラス作家の三嶋りつ惠は、光悦の「芸術家村伝説」が伝える他者と場を共有する精神に触発され、光悦寺からほど近い谷に同じく作家で息子の三嶋安住とともに移住した。その土地で日々竹を切り出す生活の中から生まれたのが、竹林をモチーフにした「月の光」である。リッツ・カールトン京都のレセプションロビーの壁に設置され、このホテルには他にも名和晃平「PixCell-Biwa(Mica)」など京都に縁のある現代作家を中心に80作家394点の作品が展開されている。
昨年、三嶋はNISHINOYAMA HOUSEという集合住宅の一室にTRELUCI(3つの光)をオープンし、ガラス作品が空間に溶け込む暮らしのありかたを提案しながら、ベネチアと京都、さまざまな人やモノを結びつける活動を積極的に行っている。このNISHINOYAMA HOUSEは実業家の長谷幹雄が建築家の妹島和代に依頼して進めているプロジェクトで、各住戸や庭がそれぞれ独立しながらも、開放的な連続した空間で住人同士が自然に関係性を築けるような工夫がなされ、複数の美術関係者が入居している。長谷幹雄は今年5月まで京都経済同友会の代表幹事を務め、京都初の国際現代芸術祭PARASOPHIAを実行委員長として推進するなど、京都で新しい芸術文化を育む現代町衆のひとりである。本来の生活美術、総合芸術としての琳派や、町衆が京都の芸術文化を自ら創り出してきた歴史を考えたとき、NISHINOYAMA HOUSEとここに集う人々の動向には注目すべきものがある★14。
さあ、いよいよ秋の「大琳派祭」が始まる。関東では既に箱根の岡田美術館で「箱根で琳派 大公開〜岡田美術館のRIMPAすべて見せます〜」が開幕し(第1部:9月5日〜12月15日、第2部:12月19日〜2016年3月31日)、静嘉堂文庫美術館の「金銀の系譜――宗達・光琳・抱一をめぐる美の世界」(10月31日〜12月23日)では、国宝の俵屋宗達筆「源氏物語関屋・澪標図屏風」が修理後初めて公開される予定とあって、注目を集めている。また、京都国立博物館では初の大規模琳派展「琳派 京を彩る」(10月10日〜11月23日)が、そして、海を隔てたワシントンD.C.のフリーア美術館では、日米共同企画でアメリカ初の包括的な宗達展となる「宗達:創造の波Sōtatsu: Making Waves」(10月24日〜2016年1月31日)が開幕する。「琳派 京を彩る」には宗達・光琳・抱一の風神雷神図が降臨する(3作品を同時に鑑賞できるのは10月27日〜11月8日)一方、「宗達:創造の波Sōtatsu: Making Waves」には宗達・光琳・其一などの松島図が結集し、光琳関連作品として新出の「松島・富士図屏風」も出品されると聞く(展示替えあり)★15。
琳派400年、そして光琳没後300年忌の節目にこうした琳派の継承を象徴する作品群が一堂に会することで、今後、さらに琳派の系譜が補強され、「日本の伝統」としてアイデンティティの拠り所とされていくのだろうか。それとも、新たな「琳派」「RIMPA」観を構築することができるのだろうか。琳派の「琳」の字は光琳の名前に由来し、美しい玉(ぎょく)、またはそれらが触れあって奏でる澄んだ音を意味する漢字であるという。多様な個性を内包し、金銀に彩られた華麗な琳派作品にふさわしい名称である。しかし、美しい玉は一直線に連なっていたわけではなく、周囲のさまざまな玉とも触れあって磨かれたことを忘れてはならないだろう(以上、敬称略)。