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本草学の眩暈──人と病と諸事物の歴史

山内朋樹(美学・庭園史研究/庭師)

2016年02月15日号

 喘息持ちで体が弱く、さまざまな身体的異変に苛まれ、幼少期から二十歳まで生きることはないと直感していた父は、小学校低学年のころ急性腎炎を患った。いわゆる西洋医学の治療を受ける一方で、少年は明治生まれの祖母にカタツムリの殻をすり潰した奇妙な粉末を飲まされたという。現代医学の処方に慣れたわたしたちからすれば(もちろん父にとっても)、原材料があまりに生々しいこの粉末を飲む勇気はなかなか湧いてこない。けれどもここで重要だったのは、カタツムリによって生きることだ──。こんな話を思い出してしまったのは、大阪梅田のLIXILギャラリーで開催されていた「薬草の博物誌──森野旧薬園と江戸の植物図譜」展(2016年2月16日まで。東京ではLIXIL: GINZAにて3月3日-5月21日)を訪れたからだ。

本草学、この雑多なるもの


展覧会にあわせて刊行された『薬草の博物誌──森野旧薬園と江戸の植物図譜』(LIXIL出版、2015)、表紙

 展示は大きく三つのパートに分かれている。その第一部「森野旧薬園と『松山本草』」では、奈良の宇陀松山にいまも息づく森野旧薬園の映像資料と、その開祖である森野藤助(号:賽郭、1690-1767)が著した『松山本草』のレプリカとデジタルアーカイブが展示されており、導入ながらこれこそが本展の主題となっている。次いで第二部「江戸の植物図譜」では、この本草書と薬園の背景をかたちづくった江戸時代の本草学史が補われ、日本植物学の父と謳われる牧野富太郎(1862-1957)を扱う第三部が、ただ時系列に沿っているかのように見える展示全体についての解釈を暗示している。第三部に掲げられたタイトルにしたがうなら「本草学から近代植物学へ」というわけだ。
 しかしながら「近代植物学」を念頭に置いて第一部のタブレットに表示されている『松山本草』全十巻を繰っていくと驚かされることになる。数々の植物図譜に次いで終盤に現われてくるのは、クジラ、イルカ、クラゲにカエル、トンボにカメ、さまざまな鳥類、ヘビ、オオカミ、ウマ、おびただしい貝類。すでに植物でさえないばかりか、哺乳類や爬虫類といった分類が間を置いて回帰してくる! 眩暈とともに現われる一頁一頁には、けれども種々雑多な生き物たちが拙くも詳らかに活写されていて、しばし見入ってしまう。


『松山本草』(複製)
所蔵=大阪大学総合学術博物館、写真提供=LIXILギャラリー 大阪会場

 そう、森野家が260年にわたって家宝として私蔵していた『松山本草』はじめ、第二部に展示されている江戸期の書物の数々もまた、近代の分類学にもとづいた植物図鑑ではない(もちろん動物図鑑でもないが)。とはいえ、ギャラリーに展示されているからといって絵画作品というわけでもないだろう(十分に見応えはあるけれど)。これらは、分類や造形とは違ったタイプの欲望が生み出した体系なのだ。
 これらは、「本草学」の書である。本草学とは、その体系の中心に植物を据えているので「本草」と呼び習わされてきたものの★1、薬用植物を総覧するだけのものではなく、植物、動物、鉱物といった分類を超えて生薬を蒐集し、註釈を施した広義の薬学である。本草学の大家、明の李時珍にしても江戸期の貝原益軒や近代の牧野富太郎にしても、現在森野旧薬園を一人で管理している原野悦良氏にしても「不佞(私)幼ヨリ多病、好ミテ本草ヲ読ミ」★2なのであり、そこには病を治めて健やかに生きることへの切実な願いがあった。

人と病と諸事物の歴史


『本草綱目』和刻本(右)
所蔵=高知県立牧野植物園、写真提供=LIXILギャラリー 大阪会場

 第二部に移ると、おもに江戸時代に上梓された本草書が並ぶ。日本本草学の決定的な影響源となった李時珍の『本草綱目』(1596)が国内に流入したのは慶長9(1604)年以前といわれている。この書物を林羅山が手に入れ、徳川家康に献上したことから日本の本草学は端緒についた。とりわけ、森野藤助が生きた八代将軍吉宗の時代には国内および国外産生薬の蒐集と研究が奨励され、小石川白山御殿跡の薬園の拡充、和薬改会所の設置、採薬師の派遣なども相まって活況を呈した。そこから『本草綱目』に追従しない日本独自の本草学を目指した貝原益軒『大和本草』(1709)を嚆矢として、同じく会場に並ぶ小野蘭山『花彙』(1759)、岩崎灌園『本草図譜』(1830)、飯沼慾斎『草木図説』(1856)、関根雲停『彩色植物図』(1841-73)などの美麗な本草書が続いていく。


『花彙』草部4巻木部4巻 国立国会図書館蔵


『本草図譜』第3冊 巻27蔓草類3 国立国会図書館蔵

 親しみのある名前で言い換えるなら、西洋の「蘭方」に対する東洋の「漢方」の書ということになる。幸か不幸か、わたしと漢方の接点は葛根湯くらいしかない。けれども、庭師としてビワの木を剪定していると、どこからともなく年配の女性がやってきて「これいただけませんか」という。また草を引いていると隣に腰を下ろし、独特の臭気を発するドクダミの葉をむしって袋詰めしはじめる。そういえば母方の祖母もドクダミを漬け込み、いわく言いがたい香りを放つ液体をつくっていたのだった。一見奇妙にも見えるこんな行為のなかにも人々の切実な願いがあるだろう。
 こうして打ち捨てられるはずの植物が、健やかな生を約束する薬や酒となって蘇る。眼前に広がる雑草が一つひとつかたちをとって識別されていく。世界の諸事物はすべからく意味のあるものとして見られることになる。会場に並ぶ数々の本草書が活写しているのは、身のまわりに広がるありとあらゆる雑多な動物、植物、鉱物とともに生きてきた、民の生の歴史である。それは人と病と諸事物の歴史なのだ。
 さらに博覧強記を本性とする本草学は、長じて世界の成りたちをも展望する。それゆえ展覧会タイトルにもあるとおり、本草学は博物学にも通じる学問となり、生薬と土地の人々のかかわりを記録した民俗誌ともなり、あるいは諸事物や動植物を構造化してみせることでひとつの世界像をも提示する。例えば『本草綱目』は、凡例の二項目めで「万物に先んじて」「万物の母」といった言い回しを用いながら★3、世界の原初的構成物を問いただし、そこから諸要素がどういった順序と理由で生じたのかにまで書き及ぶ。この本草書は世界の事実上の多様性を列挙するだけでなく、いまある多様性の誕生と生成をも見定めようとしている。水にはじまり、火、土と続き、さまざまな個物をカテゴリーごとに列挙したうえで最後に人を置く『本草綱目』は、ひとつの世界像を記述し、宣言しているのだ。

本草学から近代植物学へ?

 本展は、こうした雑多極まりない思想の息遣いを感じながら、本草書と向きあうことのできる素晴らしい機縁となっている。その実現にあたっては、大阪大学総合学術博物館の髙橋京子氏が中心となって進めた『松山本草』のデジタルアーカイブ化が大きな役割をはたしている。展示される本草書は植物の項しか示していないので、ぜひ会場のタブレットを心ゆくまでその指で繰ってみてほしい。『松山本草』は国立国会図書館デジタルコレクションにも入っていないので、全体を総覧するにはまたとない機会だ。とりわけ九巻、十巻に示される本草学の底知れぬ深みを覗き込んでから展示を見て回ることをお勧めしたい。
 だからこそ、この展覧会がその末尾を「本草学から近代植物学へ」としていることは、本草学がより合理的な植物学にとって代わられたという印象を与えてしまう点でやや惜しいように思う。展示された本草書の序列は「正しく」時系列に沿っており、キュレーション上の強い意図は感じられない。たしかに歴史はそのように展開した。しかし、だからこそ、である。
 わたしたちは時計と暦を発明したことで、この発明の源泉となった天体の運行そのものを見失ってしまった★4。太陽や星座の運行についての知恵は時計やカレンダーへと外在化され、それと結びついていた奇妙な世界像は無関心にとって代わられた。同じように西洋の植物学を導入するなかで、わたしたちは植物を見る眼を、動物を見る眼を、鉱物を見る眼を、ひいては本草学というひとつの世界像を失ってしまっただろう。こうして足元には雑草と害虫と石ころが転がるばかりになってしまった。
 もちろん本稿は近代科学を腐して本草学を復活させようなどという趣旨のものではないし、この展示が魅力的で心惹かれるものであることに変わりはない。ただ、こうした背景にも眼を凝らしつつ、忘却された世界像をぜひその眼と指で確かめていただければ嬉しく思う。東京会場での展示は、まさにこれからだ。

後記──生ける本草書の行く末

 『本草綱目』の流入以前、遥か古代日本にも7世紀後半には「典薬寮(くすりのつかさ)」があり、「薬園」があった。さらに遡って『日本書紀』の推古紀19(611)年には「夏五月五日ニ菟田野(うだの)ニ薬猟ス」とあり、「鹿耳」となる鹿の袋角を現在の宇陀近辺にとりに行ったことが窺える★5。この冬、こうした伝説と密接にかかわる宇陀の地に息づく森野旧薬園を訪れた。享保14(1729)年、吉野葛の生産を家業とする森野藤助が幕府に下賜された漢産の薬草を裏山に植えたことに端を発する薬園を。


森野吉野葛本舗。店舗の裏手の石段を登ると薬園がある(以下の写真はすべて筆者撮影)

 旧伊勢街道に面する森野吉野葛本舗を抜けて、無数のカタクリが眠る小高い裏山の斜面を登ると、メジロやヒヨドリの鳴き声が飛び交う薬園が広がる。冬季には青葉生い茂る薬園の生き生きとした表情を捉えることはできないけれど、すでに地面からはフクジュソウが顔を覗かせ、おびただしい地衣類に覆われたウメやロウバイからは花の香りが流れてくる。園内にところ狭しと並ぶ薬草の数々を見ていると、自然を書物にたとえる西洋の古い類比が思い起こされる。書物を読むように自然が認識されるのだとすれば、森野旧薬園は人と病と諸事物の歴史にもとづいて人為的に編纂し直されたアンソロジーとしての自然、すなわち、「生ける本草書」だろう。


森野旧薬園。圃場より知止荘を臨む。右手にはキンカンの実やウメの花が見える


同、フクジュソウの花が顔を出しはじめている

 生薬や漢方は「自然」や「古来」などの記号と強く結びつき、エコロジカルな印象を宿しているけれど、国産、漢産の薬草に交えてヨーロッパの薬草として知られるジギタリスやビロードモウズイカなどが生い茂るアンソロジーとしての園は、まさに蒐集の場であり、実験室であり、栽培所であることを示している。そこにあるのは、たんに「自然」や「古来」というだけのものではない。遥か遠くから人為的に持ち寄られ、偶然この場で出会った植物たちがかたちづくる、奇形的な自然、生態系ならぬ亜生態系とでもいうべきものだ★6
 葉を落とした薬園は、庭がそうであるように、場所の骨格や手入れの様子を見るのに適している。このときも崩れた階段の一部を補修した跡があり、たった一人でこの薬園を管理しているという原野氏の姿が想起された。森野旧薬園は、顧問の森野燾子、原野両氏の慈しむような眼差しと献身的な手入れだけで維持されている。『松山本草』はデジタルアーカイブ化されたことで半永久的に残ることとなった。しかしながら人と病と諸事物の歴史が紡いできたこの生ける本草書は、今後、若い力や行政の助力を必要としているのかもしれない★7


同、薬園石段より宇陀の街を見晴らすことができる。手前中央が森野吉野葛本舗

★1──「本草」という呼称の源泉は、古代中国、後漢の『神農本草経』(22-220年)にある。
★2──「不佞自幼多病好讀本艸」(貝原益軒『大和本草』自序)。訓み下しは、杉本つとむ『日本本草学の世界──自然・医薬・民俗語彙の探究』(八坂書房、2011、43頁)にしたがった。歴史記述についても本書に多くを負っている。
★3──「萬物之先」「萬物之母」(『本草綱目』凡例)。
★4──カール・ヤーコプ・クリストフ・ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』(『世界の名著56:ブルクハルト』、柴田治三郎訳、中央公論新社、1979)334頁。
★5──杉本、前掲書、36頁。こうした事情は洋の東西を問わない。西洋にも独自の薬学があり、庭にはハーブを中心とした種々の薬草が栽培されていた。例えば有名なパリ植物園もかつては王の薬草園だった。
★6──山内朋樹「イメージをまとわせる──植物のコラージュがかたちづくる亜生態系」(『vanitas』No.004、アダチプレス、2015、248-255頁)。
★7──これは展示ビデオなどから類推した筆者の個人的印象にすぎない。原野氏の後任はゆくゆく必要になるとしても、行政の介入は望んでいないかもしれない。ともかく、すべては森野家の意思で決定されるべき事柄だろう。

薬草の博物誌──森野旧薬園と江戸の植物図譜

会期A:2015年12月4日(金)〜2016年2月16日(火)
会場A:LIXILギャラリー(大阪)
大阪府大阪市北区大深町4-20 グランフロント大阪南館タワーA 12階/Tel. 06-6733-1790
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会期B:2016年3月3日(木)〜5月21日(土)
会場B:ギャラリー1(東京)
東京都中央区京橋3-6-18 LIXIL:GINZA 2F/Tel. 03-5250-6530

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