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キセキノセイイ──「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展レビュー
福住廉(美術評論)
2016年04月15日号
対象美術館
東京都現代美術館で「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」が開催されている(5月29日まで)。昨今、美術界の内外で話題を集めている「表現規制」に焦点を当てた展覧会で、アーティストによる自主的な組織「ARTISTS’ GUILD(アーティスツ・ギルド)」と同館との協働企画である。「MOTアニュアル」は1999年より継続してきた同館恒例の企画展だが、とりわけ近年はテーマが軽佻浮薄であるばかりか、紹介される若いアーティストたちの大半はコマーシャル・ギャラリーの強い意向を伺わせる面々で、その脆弱な企画力に失望させられることが多かった。だが本展は、アクチュアリティのあるテーマを導入しながら問題含みの展示を構成している点で、その賛否はともかく、少なくとも議論の対象にはなりうるだろう。
空虚美術館
スミノフをがぶ飲みする女子高生に始まり、銃弾が飛び交う戦場に転がる死体。あるいは、非常に偏ったネトウヨ的言説を吐き出す匿名男性の口元──。本展で展示されている作品には、政治的主張や教育的配慮、著作権、安全、そしてわいせつなど、表現規制や検閲の動因になりうる要素がそれぞれ含まれていることが一目瞭然である。現代美術が被っている表現規制という問題の幅と厚みを目の当たりにするのだ。
しかし、そのようなヴォリュームのあるテーマとは裏腹に、本展の会場にはやるせないほどの空虚感が漂っていることも否定できない事実である。というのも、そこには、映像であれ写真であれインスタレーションであれ、物としての作品が展示されることがなく、文字どおり「もぬけの殻」と化した空間が少なくなかったからだ。
例えば藤井光は、東京大空襲の犠牲者追悼と戦争体験の継承を目的とした祈念館の計画が、歴史認識の観点から当時の議会で紛糾、予算が凍結された結果、証言を記録した映像や戦災資料など5,000点あまりが、現在にいたるまで都内の美術館に眠っている事実に着目し、この歴史の闇に葬り去られた戦争の記憶を現在に召喚すべく「想像の祈念館」を作品化した。とはいえ、戦災資料が見せられているわけではない。小さなキャプションに文字情報が記されていることを除けば、ガラスケースの中や台座の上には、何もないのだ。東京大空襲に被災された方々が、そのキャプションを貼付する共同作業を記録した映像がないわけではないが、それにしても時折、その空襲の経験を物語る音声が聴こえてくるにすぎない。この空虚な空間に空洞化され隠蔽化された戦争の記憶が象徴的に表現されていることは想像に難くないが、だからといって来場者の想像力が不在の戦災資料に及ぶとは限らない。乏しい手がかりだけで想像力を豊かに拡張させるほど、現代人の戦争イメージはたくましくないからだ 。失われた戦争の記憶を呼び返すには、「不在」や「欠落」を重視する現代美術の文法をスマートに遵守するのではなく、むしろあらゆる表現媒体を駆使しながら、あらゆる感覚を動員する、なりふり構わぬ身ぶりが必要ではないか。ほとんど空っぽの展示空間は、私たちの茫漠とした戦争イメージをよりいっそう遠ざけてしまいかねない。
さらに、本展のために結成された遠藤麻衣+増本泰斗は、イメージや身体を用いた実験的なコミュニケーションを、会期中複数のプロジェクトによって図る計画のようだが、会場で何より際立っているのは、そのイベントのための仮設小屋ではなく、むしろ白い壁に掲示された貼り紙である。そこには、ただ、こう書かれている。
つまり、著作権侵害の可能性についての協議は進行しているようだが、展示物としては何も見せられていない。藤井の作品と同じように、ただ展示室の空間が茫々と広がっているのだ。「協議中」とはいえ、その具体的な過程が開陳されているわけでもないので、双方のあいだで、どのような意見の相違があるのか確認することすらできない。それゆえ来場者は、次のことを辛うじて理解するほかないのである。すなわち、この貼り紙だけが貼付された空虚な空間には、アーティストや学芸員が意図したかどうかはともかく、表現規制の現場が自己言及的に体現されているということを。おそらく想像するに、ウォーホル・サイドから直接的な抗議を受けたり、訴訟を脅し文句に要請をゴリ押しされたりしているわけでもないのだろうから、著作権侵害の恐れが高いことを憂慮した美術館側が作品の展示に難色を示したのだろう。であれば、これは国家権力や私企業による強権的な検閲というより、むしろ公立美術館による病的なまでに過剰な自主規制であり、来場者はきわめて今日的な表現規制の典型的な現われを目撃したことになる。
回答しえない問題提起
しかし、本展に漂う得も言われぬ空虚感は、特定の作品に起因しているだけではあるまい。それは、自主規制する自己言及的な身ぶりが本展全体の印象を大きく左右しているからだ。例えば企画者は以下のようなステイトメントを掲げている。
ここで言われている「不寛容」ならびに「摩擦」が、美術の内外で、ここ数年急激に突出するようになった現象を的確に指し示していることは間違いない。ろくでなし子や鷹野隆大の作品への検閲事件は記憶に新しいが、本展の会場である東京都現代美術館では昨年、会田家(会田誠+岡田裕子+会田寅次郎)による檄文の作品が美術館側から撤去を要請されたという騒動があったし、神戸ファッション美術館では、2010年、岡本光博による《バッタもん》のシリーズがルイ・ヴィトン社の「要請」により実際に撤去された
だがその一方、ステイトメントの後半の問いかけには、底知れぬ虚しさとともに大いに疑問を感じざるをえない。なぜなら「既存の価値観や社会規範を揺るがし問題提起を試みるアーティストの表現行為」を私たちに見せるべき展覧会場で、自主規制を発動して作品を見せていない以上、社会や人々に対して表現の力を発揮させることなどできるわけがないからだ。むろん自主規制は一部の作品に限られているが、問題提起を煽りつつ、その回答を封じ込める不誠実きわまりない態度は、本展の全体的なイメージに大きな影を落としている。ステイトメントでそのような問題提起を明示したのであれば、安易な自主規制に走らずに、すべての作品を等しく展示することで、来場者にその答えを委ねるべきだろう。
もっと言えば、今日の私たちに必要なのは問題提起より、むしろある種の回答ではないか 。美術館制度に則ったうえで曖昧で思わせぶりな問いかけを披露することは比較的たやすい。しかし、表現規制の荒波が押し寄せる社会的現実のなかで、私たちは今後どのように表現し、どのように生きていくのか、その明快な答えを用意することはきわめて難しい。たちまち規制の対象となり、つぶされてしまうかもしれないからだ。しかし逆に言えば、だからこそその回答には、表現規制という生々しい同時代的な問題と対峙しうる、今日的な批評性が期待できる。現代美術のハードコアは、フォーマリズム的な造形美を競い合うことで超俗的な美術の自律性を再生産することにあるのではなく、だからといって社会的な問題提起を装ってお茶を濁すことにあるのでもなく、現在進行形の社会的な問題に対して自分なりの回答を毅然と提示する、ある種の批評性にこそあるのではないか。
堕天使のささやき
本展のなかで唯一、そうした意味での批評性が認められるのは、ポーランド出自のアーティスト、アルトゥル・ジミェフスキによる映像作品《繰り返し》(2005)である。もともと2005年のヴェネツィア・ビエンナーレで発表された本作は、1971年に社会心理学者のフィリップ・ジンバルドーによってなされた、いわゆる「スタンフォード監獄実験」をポーランドで再演したものだ。
「スタンフォード監獄実験」とは、学生や大学院生から募った男性ばかりの被験者を囚人役と看守役に振り分け、大学の構内に仮設された監獄のなかで、2週間にわたって過ごさせる心理実験。最近、邦訳されたジンバルドーによる『ルシファー・エフェクト』(海と月社、2015[原著:2007])は800頁にも及ぶ大著だが、そこにはこの恐るべき心理実験の様子が仔細に記述されている。恐るべきというのは、参加した被験者はいずれも健康的で中庸な市民だったにもかかわらず、それぞれの役を演じているうちに、看守役は囚人を虐待する看守によりいっそう近づき、囚人役は看守の不条理な命令にただ隷属する囚人と化していったからだ。事実、この実験はあまりにも非人間的すぎるという理由で、2週間の予定をまっとうすることなく、わずか1週間で中止された。
役割と演技がいつのまにかアイデンティティの核心に転位してしまうこと。ジンバルドーは、こうした現象を「ルシファー・エフェクト」、すなわち堕天使効果と呼び、これが個人の内面にではなく個人を取り巻くシステムの力に由来すると結論づけた。すなわち、特定の個人の心理的な異常性が虐待を誘引したと考えるのではなく、看守と囚人という設定を支えながら、それぞれの行動を意味づける状況こそが暴力的行為を引き起こしたと考えるのだ。そしてその状況は、さまざまなイデオロギーや価値観がせめぎ合う、より広範なシステムに決定づけられている。ジンバルドー理論の要諦は、心理実験のためにシミュレートされたスタンフォード監獄であれ、イラク人捕虜を虐待したことで悪名高いアブグレイブ刑務所であれ、暴力的な虐待の要因を、一部の腐ったリンゴに見立てるのではなく、リンゴを収める木樽そのものに求めるところにある。なおかつ、そのシステムの力は、看守と囚人を絡めとるだけではなく、彼ら被験者を客観的に観察しているはずのジンバルドー自身にも及ぶほど強大だった。事実ジンバルドーは、この実験の責任者であるにもかかわらず、実験を中止するべき時機に適正な判断を下すことができなかったことを、この本のなかで告白している。つまり状況やシステムは、属性や能力、立場を問わず、あらゆる人々を巻き込むのである。「善と悪の境界線は、あらゆる人間の心の真ん中にある」 のであり、その境界線がどちらに傾くかは、人間の外部因子の働きによるのだ。
ジンバルドーは『ルシファー・エフェクト』においてジミェフスキの《繰り返し》にわずかに言及しているにすぎないが、美術評論家のブレイク・ゴピックによる作品評を引用している。「本作品は、ジンバルドー教授の実験が──洞察に満ち、きわめて科学的に組み立てられていただけでなく──芸術の要素までも含んでいたのではないか、と示唆するものだ……」 。ジミェフスキが《繰り返し》のなかで映像化したのは、まさしくこの社会心理実験に内蔵された芸術性だった。
810号のやさしさとうつくしさ
ジミェフスキの作品にはジンバルドーの実験との共通点が多い。看守と囚人は、それぞれ日給が支払われていたこと、途中で離脱することを選択する権利が与えられていたこと、そして看守役は制服とサングラスを着用し、囚人役は簡素な服を頭からかぶり、外見から役割演技の迫真性を補強していたこと。さらに監獄のなかでは囚人は看守を「看守様」と呼び、看守は囚人を匿名化された識別番号で呼んだ。こうした細かい設定が、人身の心理に影響を及ぼすほど特異な状況を練り上げたわけだ。
けれども相違点もある。もっとも大きな違いが、実験の終了の仕方である。ジンバルドー実験の中止は、彼自身の決断というより、サディスティックな看守とヒステリックな囚人をみかねた部外者の忠告によるところが大きい。一方、ジミェフスキの作品は、ひとりの囚人から提案された和解によって、その時期まで残っていた看守と囚人のすべてが同時にリタイアするかたちで終わった。その英雄的な囚人、810号は、ジミェフスキによって押しつけられた所長という大役を明らかに持て余し 、どのように振る舞えばよいのか混乱していた看守に、ある種のやさしさによって向き合うのだ。看守と囚人が円になって話し合う場で、所長が囚人たちに向かって「監房に戻る準備はできているか」と厳しく問いかけたところ、810号は同じように「所長は仕事に戻る準備はできているか」とやわらかく問い返す。これをきっかけに、彼らはこの監獄実験という馬鹿げたフィクションの場から下りることを、看守であれ囚人であれ非人間化と没個性化を強いる、この恐るべきシステムから離脱することを、全員一致で決定したのである。バリカンの取り扱いに長けた810号が、仲間の囚人にそうしたように、所長の頭髪を丸刈りにするラストシーンは、囚人による看守への報復などではなく、囚人と看守という役割からの解放を祝う象徴的な儀式だろう。全員が本名を名乗りながら握手するシーンは、思わず落涙してしまうほど、やさしさとうつくしさにあふれた瞬間だった。
ジンバルドーが処方箋として示したのは、システムの力に抗う英雄的想像力である。つまり、あらゆる人々を巻き込むシステムや状況の力に対して個人の資質に期待をかけているのだ。あれほど問題の焦点を個人の内面ではなくシステムに合わせていたにもかかわらず、結局のところ最後の最後で、議論の水準を個人の資質に引き戻してしまう点は疑問に思わないでもないが、ジミェフスキもまた810号にスポットライトを当てることで英雄的想像力を強調しているように見える。しかし重要なのは、810号の個人的な英雄的行為ではない。むしろ810号が糸口となって看守も囚人もすべてがシステムから降りたという事実にこそ、ことのほか大きな意味があるのだ。むろん一連の再演が入念に演出されている可能性は否定できないが、だとしても810号の英雄的行為はシステムから離脱することによってシステム全体を内側から瓦解させるイメージを暗示しており、これがジンバルドーの監獄実験には見出すことができなかった側面であることに違いはない。ジミェフスキはジンバルドーを批判的に継承しつつ、映像のなかでその芸術的な側面を押し広げたのである。
むろん監獄という状況は一般社会から遠く隔てられた例外状態ではある。だが、ジョルジュ・アガンベンが的確に指摘したように 、そのような例外状態を常態化させているのが現代社会の生権力のありようだとすれば、例えば長谷川堯のように現代の都市社会そのものを「監獄」という観点から解析する視点は、非常に大きなアクチュアリティをもつようになる 。長谷川によれば、都市とは本来的に獄舎であり、人間ですら意識を肉体という物質によって閉じ込めてはじめて人間になりえたという。さらに言えば、白川昌生が精神科医のアンリ・フレデリック・エランベルジェの思想を手がかりにしながら、近代の文化装置として、精神科施設と動物園、そして美術館を並列化させたように 、美術や芸術もまた、こうした閉鎖的な監獄性と無縁であるわけではない。白川によれば、動物園における動物と飼育員の関係性は、精神科施設における看護士と病人の関係性、および美術館における学芸員と美術家の関係性に重なっているという。いずれも、動物学者や精神科医、美術史家という権威のもとで公衆に向き合っているからだ。
アルトゥル・ジミェフスキの作品が他に類例を見ないほど傑出しているのは、こうした現代社会の監獄性を照射しながら問題提起を図ることに自足するのではなく、この問題含みのシステムから降りる可能性を、そのやさしさとうつくしさにあふれた──言ってみれば、「奇跡の誠意」に満ちた──瞬間を、ある種の回答として、私たち公衆に示してみせたからにほかならない。私たちは、いつの日か「美術」というシステムから降りることがあるのだろうか。