フォーカス
教育普及の現場から──これからのミュージアムの最も刺激的な使い方
会田大也(ミュージアムエデュケーター/東京大学大学院GCL グローバルデザインワークショップ機構 特任助教)
2016年08月15日号
対象美術館
近年、美術館では展覧会にあわせたさまざまなワークショップが開催されている。特にこの夏休みの時期には子どもや家族向けのプログラムが数多く実施される。「教育普及」や「ミュージアムエデュケーション」と呼ばれるこうしたミュージアムの活動は、どのようなことを目指して行なわれているのだろうか。
筆者が実際にエデュケーションの現場に関わった、山口情報芸術センター[YCAM]の「コロガルパビリオン」での活動を紹介しながら、その背景にあるコンセプトと、これからのミュージアムエデュケーションのあり方を考える。
教育の現在──場を共有する臨場感
筆者は、YCAMが開館した2003年から、2014年までの11年間、ミュージアムエデュケーションの現場に携わってきた。そして現在は、東京大学大学院にて、博士課程の学生へワークショップデザインについて教えている。同時に、東京芸術大学大学院の博士課程に在籍して、メディアと教育に関する研究を行なっている。YCAM就職当初は「ワークショップとは、体験型の学習のことでして……」などと、新聞記者に説明して回っていた頃から考えると、大学でワークショップを教えることが仕事になるということ自体隔世の感がある。
現在はワークショップのような体験型学習だけではなく、さまざまなところで「直接的な人と人とが関わり何かが起きていく」ことが見直され、音楽やアートについても「その場に赴き何かを行なう」というイベント型のプロジェクトが人気を博している。いわゆる学習という意味での教育現場においても、衛星放送などを使った遠隔授業が席巻した90年台を過ぎたあとには、マンツーマンの個別指導などが流行し、現在では、知識の伝達はメディアを用い、その後その知識について多角的に考えたり検証したりするディスカッションは人と人とが直接場を共有して行なうという「反転授業」が流行し始めている。とにかく、情報として何かが提供されるだけでは飽きたらず、現場に行ってみないと何が起きるか分からない、といういわば臨場感のようなものが改めて見直されていると言っても良いだろう。
こうした教育の変化のなか、2013年夏に、YCAMの10周年記念イベントの一環として「コロガルパビリオン」というイベントが行なわれた。これは、前年に行なわれた教育普及展覧会「glitchGROUND」におけるコロガル公園という企画が人気を博したため、翌年にその発展版として企画されたものだった
。2012年版コロガル公園では、YCAM施設内の展示スペースで行なわれていたイベントだったが、この2013年には建築ユニットassistant(松原慈+有山宙)を迎えて、仮設パビリオンとしてYCAMの正面にある山口市中央公園に期間限定で出現した。2013年のコロガルパビリオンでは、前年のコロガル公園から大きく変化したことがひとつあった。それは繰り返し毎日遊びに来ている子どもたちのなかに社会的(ソーシャル)な関係が発現していった、ということだ。
「こどもあそび場ミーティング」
──自発的なメディアコミュニケーションと新しい遊び
コロガル公園シリーズでは、「こどもあそび場ミーティング」という、子どもが参加できるミーティングが定期的に開催される。ここでは、子どもたちなりに考えた新しい機能やアイデアを相互にプレゼンテーションしながら、実際に実現していくアイデアを決定し、その数日後には実現していくエキサイティングな催しなのだが、このイベントを繰り返していくうちに、興味深い結果/効果が顕われてきた。
ひとつは、ミーティング後に実装されたマイク&スピーカーシステムを使って、子どもたちが「アナウンス」を行ない始めたことである。もともとは、2つに分かれていたパビリオンどうしを繋ぐための、いわばソリューション機能だったのだが、それを子どもたちが転用していったことで、新しい行為を誘発し始めた。例えば「いまから鬼ごっこをするから、○○に集合してください」というようなことだ。それ以外にも独自の使い方で遊びを発明している様子がみられたが、そのことよりも、このシンプルな「公に呼びかけるアナウンス」に筆者は注目したい。時を同じくして、掲示板システムが出現した。建物内にあった紙と筆記用具
を用いて、マイクのアナウンスと同様に、「○時からドロケイをやるから集合」といったかたちで、建物内のいろんな人に呼びかけが行なわれた。このように、自発的に「自分が知っている友達以外の人と遊ぶ」という状況が生まれていくことになった。もちろん公園なので、子どもたちは友達と連れ立って遊びに来ている。最初はクラスの仲の良い友達と一緒に遊んでいるのだが、なにせ多い時には1日に1000人以上が集まる公園で、自分の友達以外に多くの子どもたちが遊んでいる状況を目の当たりにしている。鬼ごっこなど多くの参加者がいると盛り上がるような遊びについては、友達どうし知り合いどうしだけでは数に限りがあるので、より多くの友達を集めるためにその場を共有しているほかの子どもたちへと呼びかける必要があったのではないか、と想像できる。もうひとつの面白いことは、「ワークショップ」という名前の遊びが自然発生的に行なわれ始めたことである。最初は、近所に落ちているどんぐりを拾い集めてきて工作を行なう「どんぐり屋さん」という遊びを友達どうしでしていたグループが、より多くの人を巻き込んで遊ぼうと思ったのか「どんぐりワークショップ」というかたちで発展させ、また参加者を募るためにマイクや掲示板などを活用し始めた。自分たちでプロジェクトを企画し、参加者を集いみんなで楽しむというプロセスを、「子ども遊び場ミーティング」の直後から開始させた。当初、主催者側が企画を立てていたミニイベントが、徐々に利用者どうしによって自発的に実施されていく様相は、非常に微笑ましくかつ頼もしいものだった。
その後、お神輿をみんなで担ぎ始める遊びやお祭りを企画するミーティングなど、自発的に組織をつくって遊び始める子どもたちが現われ、「人が足りないなら集めれば良い」という雰囲気が、子どもたちのあいだに醸成していったように見受けられた。
この公園のプロジェクトはもともと、期間限定(2013年7月26日〜12月1日)で行なわれていたものであった。期間が最終日に迫っていく頃には、子どもを連れてくる親御さんからも「これ、もうすぐ終わっちゃうんですね、寂しいですね」とか「常設にできないんですか?」とスタッフに対して声を掛けられることが増えたが、予算や年間計画の都合から、そういった声には応えることがなかなか難しい。実際には要望は受け入れられ難いというのが公共施設でしばしば見受けられる姿である。
Korogaru Pavilion from YCAM on Vimeo.
子どもたちの自治
しかしこの常識をひっくり返したのは小学校4年生と5年生の女の子だった。連日かよってドングリワークショップや御祭り企画などを行なってくれた彼女らも、コロガルパビリオンが終了してしまうことを惜しんでいたひとりのうちだったが、家族や親戚などに相談して「署名活動」を思いついたのだった。会期終了2週間前から「期間延長を求める署名シート」を作成し、マイクや掲示板でアナウンスを行ない、顔なじみになった別の学校の友だちにも署名シートを配布したり、近所のスーパーやコンビニに署名を置かせてもらえないか交渉しにいったりと、彼女たちの行動力には目を見張るものがあった。普段はどちらかというと引っ込み思案だと言っていたが、その彼女たちが行動しなければならないほど、コロガルパビリオンというものが大切なものになっていったのかもしれない。
2週間後、最終日に集った署名は1000名分。大人たちに頼ることはせず、自分たちで考え、行動した。このことは単なる嘆願や請願とは異なり、思いを目に見える署名の量という形にして提言を行なっていくという、非常に具体的、かつ勇気のある行為だと思う。
この署名はYCAMの事務局長から館長、そして市長へと届けられた。そしてなんと翌年の夏に復活することになったのだ。仮設建築を解体する期間を延長し、翌年の2014年の夏に1カ月だけの期間であったが、企画を復活させることになった。思いを形にし結果を残すことができた。この経験を経た彼女たちは将来、例えば選挙などの際に「投票なんかしたって、どうせ何も変わらないし……」といった思いには至らないだろう。自ら考え多くの人の協力を取りつけ、欲しい未来を手に入れていくその姿から、大人である私たちこそ学ぶべきことは大きい。
公共性を醸成するメディア
こういった経験から私は『想像の共同体』(リブロポート、1987。原著初版=1983)という一冊の本を思い出した。筆者であるベネディクト・アンダーソンはインドネシアなどの研究から、国家が国民によって想像されるために新聞などのマスメディアが果たした役割について考えていた。インドネシアのようにバラバラの島で構成され、その東西の長さが5000kmにも及ぶような国において、ひとつの「国家」を国民が想像することは非常に難しいであろう。そのなかで、毎日おなじ言語で新聞を読む、という行為を通じ、記事を読んでいるほかの人々、すなわち共同体に所属する自分や家族、そしてその外側にいる国民の存在を想像していったと彼は考えた。このことはコロガルパビリオンでのできごとを考えるうえでも非常に示唆的である。
おそらく単なる公園では上記のような社会性や公共性の醸成はなかなか生まれない。そこに、広く声を届けることができる報知機能を持ったメディアが関わっていたということは指摘しておくべきだ。しかし、「メディアを使いこなすことで、すなわち子どもたちに社会性が培われる」という結論に至るのは性急であろう。今後さまざまな実験や調査をしながら、子どもたちが公共性や社会性を手に入れる際に、メディアがどのように作用しているのか、を見極めていく必要がある。筆者としてはこのことは、十分に研究を行なう価値のあるテーマだと考えている。
インスピレーションを誘発するメディアとしてのミュージアム
ところで、この「メディアと公共性」の関係を考えることは、現在のミュージアムを考えるための多くのヒントが含まれると考えられる。
ミュージアムが公共のサービスとしてスタートするのは、ある意味では当たり前のことかもしれないが、ミュージアムの可能性は単なる公共サービスにとどめてしまうことは非常にもったいないことである。ミュージアムにはインスピレーションの火種となる展示物が多く展示されている。人類の歴史のなかで科学者やアーティストが思考したり挑戦してきた叡智の結晶がそこにある。それらは鑑賞者・来場者に多くのインスピレーションを与えるだろう。ただ、そこで思うのが、「単にインスピレーションを受け取るだけで、人は満足なのだろうか?」ということである。何か知的な刺激を受けた人は、次にそれについてもっと深く知りたいと思うだろうし、もしかしたら自分でも何かを創り出したり表現したりしてみたいと思うかもしれない。受けた刺激によって次の行動が促されるのは自然なプロセスである。
「Media/Art Kitchen」
──「受け取る、深める、表現する」という行為のデザイン
受けたインスピレーションが単なる刺激で終わってしまうのではなく、次のアクションへと連鎖していくことを、企画として形にしてみた事例を紹介してみよう。筆者は2013年に行なわれたASEAN諸国を巡回する展覧会「Media/Art Kitchen」に、日本人キュレーターの一員として関わらせてもらったことがある。筆者以外に日本からは、岡村恵子、服部浩之が参加した。ほかの国からは、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、ベトナム、シンガポールから、それぞれ1、2名のキュレーターが選出され、総勢13名ものキュレーターチームが生まれた。そのキュレーターミーティングの際に、アートをめぐる状況が異なるアジアの各国において、むしろ共通の形式を踏襲することでその異なる状況がより炙りだされるのではないか? と考え、各国から集まったキュレーターに「展覧会、ワークショップ、ラボ」というフォーマットを各国共通にし、さらにその国ごとに形式に則った内容を考えてみないか、と提案してみた結果、採用された。(1)アーティストが考えたアイデアの結果を展示する展覧会。(2)来場者が何かを深く知ったり追求したりコミュニケーションしたりするワークショップ。(3)来場者またはこの巡回展に関わる各国の支援者たち自身が何かを表現することができるラボ。この3つをセットにし、各国の展示計画をつくっていった。巡回展とはいっても同じ作品が各国を巡るのではなく、国ごとにかなり個性が強い企画が提案され、結局は4カ国で4つの個別の展覧会を開いたような様相であったが、フォーマットは共通であったので、来場者から見た場合、この展覧会は「受け取る、深める、表現する」という行為のデザインは共通になっていたのではないかと考えている。
Media/Art Kitchen – Reality Distortion Field
この展覧会の形式を思いついたのは、筆者が教育普及を仕事にしてことと大きく関係している。教育普及担当は、企画展の内容がどうであれ、考えるべきことは「来場者がどんな体験をするのだろうか」というその一点である。チラシやホームページなどの告知情報などを受け取ってその展覧会に「行ってみようかな」と想像するところから体験はスタートしている。日程を決めミュージアムに足を運び、入り口から入って動線に従い、または従わないで展覧会を巡り、知りたい情報を掘り下げたり、ワークショップに参加したり、ミュージアムショップでその来場の思い出を深く残すためのおみやげを選んだり──こうしたすべての経験が「よき経験であった」となることを、細かく想像しながら各種の企画を考えていくことが仕事なのである。そのために、サイン計画について提案をしてみたり、市民参加型のプログラムを考えたり、解説のキットを考案してみたりする。そしてそれは一見すると「サービスを考案している」ようにも見える。そして実際にサービスを考案するだけで終わってしまうことも多い。それはミュージアムエデュケーションの仕事の、ほんの前半部分だけといってもいいかもしれない。
ミュージアムエデュケーションのこれから
──単なる「お客さん」ではいられない状況をつくり出す
残りの後半部分については「来場者が、いかにミュージアムを使いこなしていくか」を考えていくことである。冒頭に書いたとおり、教育という言葉がかつてのように「大量の生徒に効率的に知を伝えていく」という内容を示していた時代は、終わりを告げつつある。これからの世界においては知識の量は、賢さの一部であるがすべてではない。そのような世界においては、人は自ら課題を設定していく能力が、これまでよりいっそう強く求められる。与えられた課題をこなすだけではなく、課題そのものを編集し、さまざまな角度から検証していく力である。この能力は「サービスを受け取る」だけで鍛えていくことはなかなか難しい。市民参加型のプログラムと一口に言っても、市民が単なる「お客さん」ではいられない状況をどのように協働でつくり出していくのか。ミュージアムというプラットフォームを活かして、能動的に使いこなすユーザーとともに成長していくことがこれからのミュージアムエデュケーションの真骨頂であろう。単に市民に発表の場を貸し出すというだけではコラボレーションとは言えない。ユーザーの立場から言えば、ミュージアムで働くアートの専門家の能力を活かして、骨までしゃぶり尽くす勢いでその場を使っていく、ということを目指せるのが、ミュージアムの最も刺激的な使い方と言える。
こういったことが本来の意味での「公共的なサービス」になるのだろうと思う。提供する/されるという関係を乗り越えて、市民が、自分たちの世界をより良い状態へと書き換えていけるように、想像力を働かせ、具体的に行動していく。こういったことを「創造性」と定義することもできるだろう。人々の創造性を担保するのがミュージアムの最も大切な役割である。市民ミュージアムをこのように捉えて、自らの成長の足場として存分に活用していく事が重要なのではないだろうか。
これからミュージアムエデュケーションはとてもおもしろい局面を迎えると思う。例えば最近では、専門家の立場からミュージアムにおける学びについて研究された本なども刊行されている
。市民とともに成長するミュージアムが、よりいっそう増えてくることで、教育の場は学校や塾だけにとどまらず、あらゆるところで花開くことになるだろう。そしてミュージアムエデュケーションも含めた、教育の場や機会が、子どもたちだけのものではなく、多くの人々にとって生涯の豊かさを支えてくれる伴走者になっていくような世界を筆者は夢見ている。