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【キューバ】キューバの現在と、アートシーンについて

岡田有美子/服部浩之

2017年09月01日号

 2018年3月から4月にかけてキューバの首都ハバナにあるウィフレド・ラム現代美術センター(Centro de Arte Contemporáneo Wifredo Lam。以下、ラムセンター)にて、日本とキューバの現代アートを紹介する展覧会が国際交流基金と同センターの共同主催により開催される予定だ。本稿では、その企画のキュレーターを務める岡田有美子と服部浩之が共同執筆というかたちで、キューバのアートシーンと背景を紹介する。前半部は岡田がキューバの歴史や芸術文化の背景にある社会状況を紹介し、後半部では服部が文化機関やアーティストの動向などを紹介する。

キューバの芸術文化の背景(岡田有美子)

翻弄される島

 2015年に前米大統領バラク・オバマがキューバと米国の国交回復を発表した。2016年には前国家評議会議長フィデル・カストロが死去したこともあってあらためてキューバは注目を浴びている。特に米国からの渡航者(実際には観光客が多く見られるが、観光目的の渡航は禁止されている)は爆発的に増えたが、追従するかたちで、日本などそれまでも国交のあった他国からの観光客も増えた。すると、キューバの景気はよくなっていると考えがちだが、ことはそんなに単純ではない。先日は商店から物が消えた、と空になった陳列棚がニュースになっていた。
 米国による経済制裁が一部しか解除されないまま、もともと物資不足であるところに一気に観光客が押し寄せたため、業者が食材を買い占めてしまう。一般市民は闇市で買わなければならないが高くて物が手に入らない。観光客相手に商売をしたり、海外の親戚を頼るなど外貨を獲得する手段をもつものとそうでないもののあいだの格差はますます深刻となっている。そして、今度はドナルド・トランプ現米国大統領がキューバへの制裁復活について言及している。現代においても隣接する大国のリーダーの一言で町の風景が大きく左右され、生活を根幹から揺さぶられながら生きるキューバのひとたちの気持ちは想像するにあまりある。


米国との国交回復前、2011年のキューバ。米国への抗議のために大量のキューバ国旗が掲げられた。旗で隠されたのは、現在のアメリカ合衆国大使館であるビル(国交のない時期はセクションとよばれていた)。


フィデル・カストロが亡くなった翌日のキューバの新聞『グランマ』の表紙。普段は赤と黒の二色刷りだが、喪中のあいだ黒一色で刷られていた。

先住民文化の空白

 キューバが大国に翻弄されてきたのはいまに始まったことではない。首都ハバナにある国立美術館を順路どおりに進むと、まずキューバ生まれの最初の画家と言われているホセ・ニコラス・デ・エスカレラ・イ・ドミンゲスの絵画と出会うことになる。バロック絵画の影響が見られる18世紀後半の宗教画が、キューバ美術史の起点となっているという歴史を理解しているつもりでも、実際に目にすると深く驚いたのを憶えている。それは先住民文化の消滅という絶望的な暴力をその「不在」によって実感したからであった。
 1492年コロンブス一行がキューバに到達してから、島で暮らしていた先住民たちは虐殺され、ごく短い期間に絶滅した。二度の独立戦争を経てスペイン統治が終わったのちも、1959年のキューバ革命までは実質的に米国の支配下にあった。キューバ美術にとって先住民文化の空白は重要な問題であり、つねに「キューバとは何か」という問いがつきまとってきた。
 ピカソの影響を受けたウィフレド・ラムの作品によって、アフリカから奴隷として連れてこられた移民の子孫たちが受け継ぐアフロ文化や、中華系をはじめとする多様な移民文化と西欧文化のミックスがキューバ的なものとして肯定的に捉えられるようになったのは、20世紀半ばであった。しかしそれも欧米から「見られる」対象としての視線の下にあり、長いあいだ美術と言えば白人たちのものであったと言える。革命期の国家形成時にはアフロ的大衆文化の再評価が起こり、ハイブリッドなキューバというアイデンティティの確立と同時に、多様な文化をルーツにもつ作家が評価され始める。


ハバナ国立美術館の入口


ハバナビエンナーレ2012でのマヌエル・メンディーベのパフォーマンス
メンディーベはキューバにおけるアフロ系文化の基層をなす宗教「サンテリア」の世界観を作品にいち早く取り入れたアーティストのひとり。

美術教育とハバナビエンナーレ

 キューバ革命後、カストロ政権は医療・教育の無償化を実現した。各地域で才能を示す子どもには英才教育が受けられるようになっていて、芸術分野でその頂点となるのがハバナにあるISA(Instituto Superior de Arte:国立芸術院)である。大学院相当の美術・音楽教育を受けられる学校で、1962年に設立されたENA(Escuela Nacional de Arte:国立美術学校)の上位機関として設置された。
 1984年にラテンアメリカ、カリブ海地域の国際展として始まったハバナビエンナーレは、その後アジアやアフリカの作家にも門戸を広げながら地域を拡大し、現在は米国も含む世界中のアーティストを招聘している。2015年に第12回を迎え、いまは3年おきに行なわれていながらもビエンナーレと言い続けている。
 会期は1カ月で、美術館や野外も含めた各所で行なわれるが、1週間経つと作品がどんどん減っていき、100カ所くらいの展示場所が掲載されているマップを持って回っても、体感的に半分くらいは何もなかったり、閉まっていたりする。さまざまな理由があるが、ひとつには海外の作家が現地で制作した作品を輸送で持ち帰ることが国のシステム上難しいことがある。海外の招聘作家がオープニングが終わって自身が帰るときに、作品を持ち帰ってしまうこともよくあるのだ。それでも、西洋中心の美術史観とは違う国際展を目指し、ラテンアメリカ地域の美術の中心的な役割を果たしている。


ISAは革命前はゴルフコースだった広大な敷地内に建てられた。音楽棟やサーカス棟として使われる予定だったこの写真の建物は、ソ連崩壊後の「平和時の非常時」として呼ばれる時期に資金難により建設が途中で頓挫し、いまも巨大な廃墟が残る。


ハバナビエンナーレでは展示会場で動物が鑑賞していることはよくある。

不明瞭な場 マレコン

 キューバで繰り返し描かれてきたモチーフに「マレコン」がある。「マレコン」とはハバナの北の海岸線に位置する防波堤の続く通りであり全長は約12kmと言われている。この波打際には24時間老若男女が集い酒を飲み、恋人たちが寄り添い、流しの音楽家が歌っている。そこからフロリダ半島の先、アメリカの軍事基地のあるキーウエストまでは約140kmと近い。マレコンに座って海を眺めていると、フロリダが見えるような、向こう側から監視されているような、そんな気もしてくる。
 カラフルなコロニアル建築が建ち並ぶ風景に、波が打ちつける様子はそれだけでも壮観で絵になるのだが、繰り返しマレコンがモチーフとなるのは亡命や米国との関係性においてである。革命後多くの人が米国を目指し、海岸から小舟で渡っていったが、そのなかには途中で遭難したり、命を落とす人もあった。そのような、痛みを伴う記憶とともにマレコンはあり、小舟や船の櫂などとともに美術作品中に登場する。波打際は、「不安定さ・不確定さ・不分明さ」という特性をもつ境界領域であり、海という危険な異界に対して「露出されて在ることと庇護されて在ることとの甘美な葛藤」をもたらす場であり、「他者の到来を迎える」場でもあると松浦寿輝は言った★1。キューバの人たちがマレコンに集うのは、波打際という不明瞭な場に、つねに大きな力によって翻弄され続ける自身の運命を重ねているからなのかもしれない。そこは甘美な葛藤を抱え、島の内外から到来する他者を待つ人々にとっての、出会いの場となっている。

★1──松浦寿輝『波打ち際に生きる』(羽鳥書店、2013)pp.12-13


マレコンに腰掛けて談笑したり、踊ったりする人々。週末の夜は座るところがないくらい、たくさんの人で溢れる。


ハバナビエンナーレ2012でマレコンに設置されたキューバの作家KCHOによる巨大な櫂。

キューバのアートシーン(服部浩之)

キューバとの出会い

 フィデル・カストロやチェ・ゲバラなどの英雄を生み出し、社会主義革命を果たした国、そして野球が強くて、葉巻が盛んで、街には音楽が溢れている。現地を訪れる前に、僕がキューバに抱いていた印象は、この程度のものだった。
 前半記事を担当した岡田さんは、2011年から2012年にかけて1年間キューバで暮らした経験をもち、キューバ現代美術の研究を重ねている。一方で僕は、ラテンアメリカの国々を訪れること自体ほぼ初めてで、キューバという国に対してもっている情報や経験はまったく異なり、そして距離感は大きいものだった。キューバ在住という得難い経験と深い愛情をもってこの地域の芸術に関する研究を進める岡田さんと、アーティスト・イン・レジデンスに長く従事し、滞在制作によるプロジェクトや異国での展覧会実施の経験をそれなりに重ねてきた僕は、立場の違いを尊重したうえで、お互いに距離感を保ちつつ、協働で進めている。
 キューバの状況についてはすでに岡田さんが要点をまとめてくれたので、展覧会準備のためのたった二度の短い滞在ではあったが、僕が現地を訪れた際に出会った芸術文化機関やアーティストたちの動向に焦点を当てて紹介したい。

スペイン植民地の名残が強い旧市街

 まず、僕たちが来年3月から展覧会を実施する予定となっているアートセンターを紹介したい。中華系キューバ人アーティストであるウィフレド・ラム(Wifredo Óscar de la Concepción Lam y Castilla, 1902-1982)の業績を記念し、彼の名を冠した現代美術の拠点がラムセンターだ。このセンターは、ハバナビエンナーレの事務局機能も担い、キューバの現代美術を発信するだけでなく、海外の動向を紹介するなど、キューバの芸術文化にとって不可欠な存在となっている。ハバナ旧市街の中心地に位置し、アクセスもよい。
 旧市街は、大きな石を切り出し街路を開いたかのような重厚な雰囲気で、スペインの古都を想起させる。街の大きな構造は革命のずっと前からあまり変化していないが、西側世界の資本の流入を感じさせるカフェやレストランも増えている。ラムセンターは、パティオ(中庭)を中心に回廊状に展開する3階建ての建築で、強い色と装飾的で明るい雰囲気が特徴的だ。個性の強い空間は、現代美術の展覧会にはなかなか手強くもある。床や壁がゆるやかに傾き、厳格さというより大らかさが心地よい。


ウィフレド・ラム現代美術センター


ヤニス・クネリス展の様子

 また、ラムセンターの近隣には、セントロ・デ・デサロジョ・デ・ラス・アルテス・ヴィジュアレス(Centro de Desarrollo de las Artes Visuales)もある。こちらも国立のアートセンターだ。同じく中庭を取り巻く展示空間で、展示室のバリエーションは多く、比較的変化に富んだ構成だ。海外機関の企画も貸館的に積極的に受け入れることも多い。キューバは原則的に、ほぼすべての施設が国営となるのだが、これ以外にも文化芸術や展示のための施設は多数あった。
 ほかにも中華街には、イタリアのコマーシャルベースのギャラリー・コンティニュアがあり、もと映画館を改装したスペースで、アニッシュ・カプーアの展覧会を実施していた。非常にクオリティが高いが、同時に大きな外貨が投入されていることも印象的だった。また、コンティニュアはキューバの若手アーティストたちを国内だけでなく国外でも紹介するなど、キューバのアーティストたちをサポートする側面も強い。


セントロ・デ・デサロジョ・デ・ラス・アルテス・ヴィジュアレス


ギャラリー・コンティニュアでのアニッシュ・カプーア展

革命後の変容を顕著にあらわす新市街

 一方で、旧市街から拡張された先に展開される新市街は、また異なった雰囲気をもつ。新市街にはロシア構成主義を思わせる構築的な建物群が多いが、通りにはクラシックなアメリカンカーやロシア製の車が走るなど、いったいいつの時代のどの国にいるのか錯乱するような感覚を覚えることがある。


中央後方の塔状の建築がロシア大使館


アメ車が疾走するストリート

 アーティストのカルロス・ガライコアが私費を投じて設立した「スタジオ・カルロス・ガライコア」では、ガライコア作品を展示するビューイングルーム兼スタジオだけでなく、海外からのアーティストやキュレーターなどを受け入れるレジデンスを中心としたプログラムを展開している。キューバでは、ガライコアをはじめロス・カルピンテロスなど世界的に成功したアーティストが後進の育成とキューバの現代美術の発展のために個人的にさまざまなプロジェクトを実践している。インフラがある程度整っている日本ではなかなか見ない仕組みだが、アーティストが自身の経験をもとに若い世代を支援し、芸術文化の醸成に寄与する体制をつくろうという意思をもつことは、非常に尊敬できると感じた。


スタジオ・カルロス・ガライコアのレジデンス棟より


ギャラリー・セルバンド。主にキューバの若手作家たちを扱うコマーシャル・ギャラリーだ。ただ、販売目的というのではなく、キューバの作家を積極的に紹介し、さらに若手キュレーターによる企画を実現するなど、さまざまなかたちでキューバのアートシーンに貢献している。

 これ以外にも、アーティストたちのスタジオや自宅を訪問し、彼らの日々の生活や制作の様子を伺うことができた。アーティストたちのリアルな生活を知ることは、その土地で展覧会を実施するときには必要不可欠だ。紙幅の関係で今回は写真のみの紹介となるが、少しだけ様子を公開したい。


グレンダ・レオンのスタジオ


あいちトリエンナーレ2016に参加したヨルネル・マルチネスのスタジオ


ホセ・マヌエル・メシエスのスタジオ

偶然の出会いや世相の変化をいかにかたちにするか

 僕たちが展覧会のための最初の調査でキューバに降り立った翌日、フィデル・カストロが亡くなった。その翌日、街からは音楽が消えた。カストロがすでに政治の第一線から引退していたこともあってか、大きな混乱はなかった。ただ、葬儀のために世界から要人やマスコミがすごい勢いで集まり、そのなかでも社会主義の国々がいち早く参集するなど、不思議な世界のつながりが見えてきたのは興味深かった。そして、キューバという国が僕の日常からいかに遠いか、そこにある「距離」を実感する出来事だった。葬儀にも少しだけ参加し、時代の変わり目の空気を体験することができた。そんな状況下でどんな展覧会を実現するべきか、静かに考える機会となった。

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