フォーカス
イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト
──ポスト・インターネット以降のイメージの流通から考える
水野勝仁(インターフェイス研究)/高尾俊介(メディア研究)
2018年02月15日号
インターネットの存在は、すでに私たちの生活に欠かすことのできない社会インフラであると言える。こうした状況に立脚した作品が美術館に現われ始めた。これらの作品は、イメージとオブジェクトの関係をどのように更新するのだろうか。今日のイメージの流通のあり方を通して、インターフェイス研究の水野勝仁氏とメディア研究の高尾俊介氏が考える。
そもそも「ポスト・インターネット」とは
高尾俊介──ポスト・インターネット以降の「イメージの流通」とありますが、そもそもこれから語ろうとする「ポスト・インターネット」という言葉は何を意味するのでしょうか?
水野勝仁──「ポスト・インターネット」とは「オンラインとオフラインの区別がもはや成立しないこと」を示すために、2008年にアーティスト・批評家のマリサ・オルソンがインタビューで言ったことが始まりとされていますが
、2011年に彼女自身が「インターネットの後」という単なる時代区分として使うほうがいいと言葉の意味を変えています 。わずか3年のあいだに、「『オンライン』と『オフライン』の区別」をつけることがもう古いというか、それらが分かれているという感覚がなくなってしまったと言えます。その理由は単純で、2007年にiPhoneが発売されて、あっという間に広まると同時に、私たちが「インターネット」ということを意識せずにインターネットにアクセスするようになったからです。高尾──なるほど。「ポスト・インターネット」とは、つまりスマートフォンの普及などによってユビキタス化したあとの、インターネット以降から現在を含む時代状況を指すもの、ということですね。ポスト・インターネットには「インターネット」と付いていますが、ポスト・インターネットを主題とした作品は、「ネットアート」の作品とは異なるのでしょうか?
水野──「インターネット」というあたらしい作品発表の場所を開拓し、インターネットでしかできない表現を試みた作品が「ネットアート」だとすると、インターネットを使わない表現であっても、インターネットを意識している作品が「ポスト・インターネットアート」と呼ばれるようになったと言えます。ただし、ネットアートとポスト・インターネットアートの区別はとても曖昧です。例えば、ラフェエル・ローゼンダールのウェブサイトの作品は「ドメイン」というインターネット独自の「場所」のシステムを使って、1ドメイン1作品として作品の売買を行なっていることから、「ネットアート」だと言うことができます。しかし、ローゼンダールは十和田市現代美術館や恵比寿映像祭に展示されているような、ウェブサイトを元にしたインスタレーションやレンチキュラーを用いた動く絵画と言えるものなど、ブラウザを通して見るのとは異なる形式で作品を展開して、多様な体験の場をつくりだしています。インターネットは意識はしているけれど、必ずしもインターネットだけが発表の場所ではないと考えると、ローゼンダールはポスト・インターネットのアーティストだとも言えるわけです。
高尾──確かに、2012年に「インターネット/ポスト・インターネット」をテーマに、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で開催された展覧会「インターネット アート これから──ポスト・インターネットのリアリティ」でも、展示作品の多くがインターネットに接続されていない作品だったことは当時印象的でした。ネットアートがインターネットを作品のメディウム(媒体)として用いて独自の表現を模索するものでした。これに対して、ポスト・インターネットアートは、インターネットを前提とした社会環境やそれが生み出す状況、さらにはインターネット独自のプロトコルや制約によって知覚される感覚を踏まえた作品と言えるでしょうか。
水野──2018年の段階で振り返ってみると、「インターネット アート これから」展は「あえて」インターネットを強く意識していたと言えます。現代の日本では東日本大震災などによってインターネットが顕在化しましたが、震災前の日本や欧米ではインターネットはあまり意識にのぼらないインフラのようなものになってなっていたと言えます。インターネットがインフラ化したなかで、インターネットをあえて意識して、そこで生まれているあたらしい感覚を探っていったものがポスト・インターネットアートと言えるでしょう。
インターネットを意識する?
高尾──水野さんは「インターネットを意識する」と何度か言っていますが、具体的にどんなことを指しているのか、もう少し詳しく説明してもらえますか?
水野──2009年にアーティストであり理論家でもあるヒト・シュタイエルは「貧しい画像を擁護する」というテキストを書きました
。シュタイエルはインターネットにおいて解像度が高いことや「オリジナル」であることは重要ではなく、JPEGやGIFのように、圧縮されてデータが軽く、ネットで次々に流通する「貧しい画像」が求められていると主張します。シュタイエルの考えはインターネットに作品を発表していたアーティストの感覚を言語化したもので、彼ら・彼女らに大きな影響を与えました。ここから「インターネットを意識する」とは、インターネットに圧縮された状態で膨大に流通している画像(イメージ)のあり方に注目することだと言い換えられるでしょう。ローゼンダールはウェブサイトを作品としていますが、それは多くの人がフリーで見ることができるというインターネットの画像流通を強く意識したものなのです。高尾──デジタル画像において「高画質が低画質よりも豊か=高画質のほうが良い」という一般的な規範に対して、シュタイエルはそれを逆手に取ったわけですよね。つまり、画質とは違う評価軸としてのデータの軽さを「貧しさ」、さらに流動性として捉え直した。この指摘は興味深いですね。インターネットにおけるデータの流通・配信では、しばしば川の流れがメタファーとして使われますが、ここで言う「貧しさ」は「浮力」のような軽やかさと言え換えられるかもしれない。
話を少し戻すと、「インターネット上で膨大に流通する画像を意識すること」が「ポスト・インターネット」なのであれば、私たちにはみんなポスト・インターネット的状況を生きていると言えますよね。例えばウェブサービスのTumblrは、画像を含めたさまざまなデジタルメディアを自分のダッシュボードから「川で笹舟を放流する」ような感覚で投稿できますし、「放流」されたデジタルデータは公開され、データの海を漂い続けます。しかし、Tumblrの誕生からすでに10年が経ち、このようなインターネット以降の情報環境に対する人間の感覚が、社会的に広く共有された今の状況において、あえてわざわざ「ポスト・インターネット」と言って強調するのはなぜでしょうか?
水野──「浮力」というのは面白い例えですね。シュタイエルが理論的に考察した「貧しい画像」が、高尾さんが言うようにTumblrによって「浮力」を得て、私たちが見つめるパソコン、スマートフォンのディスプレイに漂い始めたと考えることができます。貧しい画像が「浮力」を得ることによって、物理空間のモノの原理と言うべき「オリジナル」という概念と、そこから派生する「画像は高画質であるべき」という規範が緩んできたのだと言えます。
ジョセフ・コスースが《1つおよび3つの椅子》で示したようなイメージとオブジェクトの関係という表象の伝統的な問題を、物理空間とは異なるもうひとつの空間としてのインターネットを経由した状況のなかで改めて考え始めたのが、「ポスト・インターネット」という言葉でまとめられたアーティストたちだと、私は考えています。「ポスト・インターネット」は時代区分というよりは「思弁的実在論」のような思想の問題に近いものと言えるでしょう。その中心はニューヨークのアーティスト、アーティ・ヴィアカントです。ヴィアカントは2010年に「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」というテキストを書き、「イメージ・オブジェクト」というプロジェクトをスタートさせます 。美術館やギャラリーで展示される作品=オブジェクトよりも、それらを撮影した画像=イメージのほうがインターネットを経由して、多くの人が目にすることになります。このことに着目したヴィアカントは、作品の記録画像をPhotoshopで加工して奇妙な物理空間とオブジェクトを提示するイメージとしてインターネットに公開して話題を集めます。
ここではオブジェクトの記録としてイメージがあるのではなく、オブジェクトと同じ作品としてイメージがあります。ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」は、作品や空間の物理的価値をネットによるイメージの流通の仕方で転倒させる試みです。ポスト・インターネットの試みの多くは、物理空間およびオブジェクトとつながりながらも、どこか奇妙なイメージをインターネットにあげて、イメージとオブジェクトの関係を更新するものなのです。
流動化するイメージとオブジェクトの関係性
高尾──つまり「ポスト・インターネット」のアーティストたちは、インターネットという論理空間の中で新たに見出された表象の有りさまを観ているわけですね。イメージがインターネットを介して流通することを前提に、現実世界のオブジェクトそのものの価値に揺さぶりをかける。その企図はわかったのですが、そのときオブジェクトはどのような状態にあるのでしょうか? イメージがオブジェクトの前面に来る状態になった時、いわゆる「インスタ映え」にこだわりすぎるあまり、現実世界の鑑賞体験が貧しいものになってしまうのでは、とも思うのですが。
水野──確かに、ポスト・インターネットアートの作品はネットに載せる画像の見映えさえよければいいのであって、実際にギャラリーなどに見にいくと「ハリボテ」のようにも見えることがあります。だから、「絵画」や「彫刻」といった伝統的なアートの観点からすれば、それらは作品としての価値は認められないという批判もあります。
しかし、ポスト・インターネットアートの作品はあくまでもインターネット上でのイメージ流通がセットになったものなので、オブジェクト単体では作品の価値は測れないものなのです。むしろ、ハリボテのようなオブジェクトはインターネット上のイメージを忠実にオブジェクト化したあたらしい形態を示すものとも言えます。そして、ポスト・インターネットのアーティストの多くが、徐々にネット上のイメージよりも物理空間に設置するオブジェクトを重視するようになります。この流れを象徴するのは、「イメージ・オブジェクト」を提唱したヴィアカントの新作のタイトルが《マテリアル・サポート》となっていることです。
ここで興味深いことが起こります。ポスト・インターネットアートの作品が購入されて、空港近くの保税倉庫に保管されたまま出てこないことが起こるようになりました。そうすると、まさにオブジェクトは引きこもり、イメージだけが流通するという状態になります。シュタイエルが「デューティー・フリー・アート」と呼ぶ保税倉庫に保管された作品は、アート・マーケットの経済原理によって否応なしに作品がイメージ化してしまった現象と考えることもできます
。保税倉庫という場所に物理的に作品が引きこもってしまうことで、オブジェクトが強調されるようになったのです。インターネットのイメージ流通を経由して、オブジェクトの形態そのもの、およびその引きこもりによって、物理空間に置かれたオブジェクトの状態の変化が注目される状況は「ポスト・インターネット以降」と言えるでしょう。高尾──オブジェクトが始めにあり、イメージが追従するような既存の関係性が、イメージと流通に起点を置くことで、その関係性自体が流動化している。つまり、ポスト・インターネットアートによってオブジェクトとイメージの関係は相克するような状態に変容したとも言えますね。イメージとオブジェクトの関係を転倒させるために、イメージの流通を促してオーバーフローさせるのではなく、オブジェクトを堰き止め流通を阻害するようなアプローチをとっているようにもみえます。だから、オブジェクトそのものはハリボテのように感じるんですね。
水野──もうひとつ、ヴィアカントとも親交のあるジョシュア・シトレイアとブラッド・トロエメルによる「UV Production House」というプロジェクトがあります。彼らはオンラインショッピングというシステムが次々につくりだす商品画像をPhotoshopで合成して、あたらしい商品=作品をつくります。もちろん、それらは組み立てられることを前提とした理想状態の仮説的なイメージです。そして、それらの構成パーツはすべてAmazonなどのウェブサービスで購入できるものなので、作品が購入されると、シトレイアとトロエメルは購入者にパーツを届けます。あとは、購入者=コレクターが作品画像と作品組立のチュートリアルを見ながら、作品をつくりあげていきます。近頃は、アーティストによる組み立てサービスも始まったようです。Photoshopでの合成と物理的な組み立てというまったく異なる2つの工程が重なり合っており、仮説として理想状態にある画像に近づけるかどうかは、コレクターもしくは2人のアーティストの組み立てのスキル次第です。このように「UV Production House」はイメージで溢れるオンラインショッピングのシステムをハックしながら、イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクトのあり方を示しているのです。
イメージで覆われたオブジェクト
高尾──3DCG・3DCADの分野ではよく知られているイメージベースレンダリング/モデリングという手法があります。これは複数の重なりをもったデジタル画像から共通の特徴点を抽出し、つなぎ合わせて1枚のパノラマ写真を生成したり、あるいは凸凹の陰影から奥行きを推測して3Dモデルを生成します。多くは複数の画像から1枚の画像や3Dモデルを生成するものですが、あくまでビットからビットへの変換です。これとは対照的に「UV Production House」は、ECサイトで流通しているデジタル画像を「建材」として見立て、フォトリアルに合成した商品画像を生成しています。さらにそれを文字通り完成されたイメージとして扱いながら、物理世界の制約やオンラインショッピングにまつわるプロセスに組み込み、ビットをアトムに歪なかたちで変換することで、その不整合の断面を提示しようとしている、と言うこともできるかもしれません。さて、これまで紹介があったポスト・インターネットアートがひとつのテーマとなって、水戸芸術館で開催されている展覧会「ハロー・ワールド──ポスト・ヒューマン時代に向けて」について教えてください。
水野──「ハロー・ワールド」展は、ポスト・インターネットで生じたイメージとオブジェクトの再考という状況を批評的にみる展示になっていますが、そのなかでもエキソニモの《キス、もしくは2台のモニタ》は、ポスト・インターネット以降のイメージ主導のオブジェクトを示す作品だと言えます。《キス、もしくは2台のモニタ》はヒトの顔を全面に表示した2つのディスプレイを重ね合わせて、そこに「キス」という行為が生じていると鑑賞者に思わせてしまうような作品です。この作品では、ディスプレイに表示される顔は厚みのない表面的なイメージでしかないので、実際にイメージがキス=接触をすることはないのですが、フレームなど厚みのある硬い部分が「身体」となっているように見えるために、2つの顔がキスしているように感じられます。オブジェクトがイメージの支持体としてその存在をサポートしているように見えますが、実際は逆なのです。ここではイメージがオブジェクトの支持体となっているのです。2つの顔のイメージがなければ、ディスプレイというオブジェクトは存在できないのです。ここで存在しているのは単なるオブジェクトではありません。オブジェクトはインターネットに溢れる加工・合成された仮説としてのイメージに導かれて、イメージをその周囲に貼りつけるようなかたちで物理世界に置かれているのです。
ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが、徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました。そして、ポスト・インターネット以降とも言える現在は、シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス、もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています。それは、イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて、イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです。
高尾──エキソニモの《キス、もしくは2台のモニタ》において、ディスプレイは本来の機能である「デジタルイメージを表示する」ためだけに存在しているのではなく、ピクセルとは異なる形式でイメージが空間を満たすためのオブジェクトとして用いられていました。水戸芸術館の展示では、膨大な量のケーブルが絡み合いながら積み上げられ、2台のモニタに接続されていて、それがより明確に提示されていたように思います。ポスト・インターネットアートにおけるイメージとオブジェクトの関係は、今後どのような方向へ向かっていくと思いますか?
水野──「イメージで覆われてしまったオブジェクト」と言っても、なかなか実感をもつことができません。それは、私たちがまだオブジェクトがイメージよりも確固としたものとして存在するものであるという感覚を持っているからです。しかし、これからはこのオブジェクトが示す確かな感覚自体が修正されていくことになるでしょう。それは同時に、イメージの可変性に対する感覚も修正されていくことを意味します。イメージよりもオブジェクトのほうが確かな存在であるという図式が変更され、《キス、もしくは2台のモニタ》に対して、高尾さんが言う「イメージが空間を満たすためのオブジェクト」となるような見方や、私が示した「イメージが確固とした存在となり、オブジェクトの表面を覆っている」という見方が出てくるのです。オブジェクトの確かな感じをイメージが演出するようなものが、これから多く生み出されていくでしょう。それはこれまでのイメージやオブジェクトの定義を変更していくことなのです。
高尾──従来のイメージとオブジェクトの関係を揺るがし、転覆するような作品が今後も出てくるということですね。これまで議論してきたイメージとオブジェクトの問題は、インターネットのリアリティに触発されながら、絶えず更新していくポスト・インターネットアートの状況を考えるうえで非常に示唆に富んでいます。さらに敷衍して、ポスト・インターネットアート作品を「どこまでを作品と扱い、保存やアーカイブの対象とするか」という問題においても、イメージとオブジェクトの関係性は重要な論点となるはずです。引き続き議論していきましょう。
ハロー・ワールド──ポスト・ヒューマン時代に向けて
会期:2018年2月10日〜5月6日
会場:水戸芸術館現代美術センター
茨城県水戸市五軒町1-6-8
ラファエル・ローゼンダール──ジェネロシティ 寛容さの美学
会期:2018年2月10日〜5月20日
会場:十和田市現代美術館
青森県十和田市西二番町10-9
第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル」
会期:2018年2月9日〜2月25日
会場:東京都写真美術館ほか
東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内 ほか