フォーカス
【タイ】写真の呪物性と多元化する表現──PHOTO BANGKOKとタイの写真史から
小高美穂(フォトキュレーター)
2018年09月01日号
これまで写真表現の中心は長らく欧米諸国がリードしてきた。しかし近年、アフリカや中東、南米、そしてアジアの写真家たちの活躍が目立ってきている。現在、タイのバンコクで写真フェスティバル「PHOTO BANGKOK(フィト・バンコク)」が開催中だ。タイにおいて、写真はいかに浸透し、現在どのような表現がみられるのか。写真史における日本との接点や共通点を辿りながらレポートする。
PHOTO BANGKOKとタイの写真シーン
去る6月、アジアのフォトキュレーターや、研究者たちが集う会合と同時期に開催されるPHOTO BANGKOKに参加するためにタイを訪れた。PHOTO BANGKOKとは、今年で2回目を迎える写真フェスティバルだ。ワークショップやポートフォリオレビュー、国内外のゲストを招いたレクチャーに加え、34カ所の会場で48企画の展覧会が同時に開催されている。
バンコクの繁華街の中心に位置するBangkok art & Culture Center(BACC)は、フェスティバルのメイン会場となっており、その建物の内部は、1階から8階まで螺旋状にスロープが続いている。そのスロープに沿ってストリートスナップを中心とした作品や、スマートフォンで撮影したフォトコンテストの入選作品が展示されていた。
フェスティバルのメインとなる企画展は3つの展示で構成されている。1つは「Post-Repost-Share」というスライド上映による展示だ。会場の大きなスクリーンに投影される写真は、東南アジアに住むフォトジャーナリスト、アーティスト、コマーシャルフォトグラファー、社会活動家、アーキビスト、宇宙飛行士などの分野から選出された人々が撮影したものだ。自然風景から社会への問題提起を含んだシリアスなものまで、ありとあらゆるジャンルの写真がランダムに映し出されていた。
「投稿」「リツイート」「シェア」というソーシャルメディアにおいて切り離すことができない主題を扱いながら、観る者と写真の関係性について問いかける。次々と映し出される画像は、その多様さゆえに、見ていると次第に攪乱されるようにも思える。しかし、その攪乱こそがソーシャルメディアに溢れる写真の持つ、ある種の暴力性を孕んだリアリティなのかもしれない。
一方、「New Wave Photography Exhibition」では、タイの現代写真にフォーカスし、「Multiple Planes」「Perspective」というテーマで2つの企画展が開催されていた。とりわけ印象に残ったのはタイ人のキュレーター、メアリー・パンサンガ(Mary Pensanga)による「Multiple Planes」であった。写真を知覚や記憶を想起するための装置ではなく、その記録性と物質性について考察することによって、写真というメディアの拡張を試みる6名の作家による展示だ。ここで用いられる写真は絵画、彫刻、映像と融合し、表象という呪縛から解き放たれたような清々しさと新たな写真表現への萌芽を感じさせる展示であった。
2015年の初回から一貫して大切にしていることは、「東南アジアの写真」を企画の根幹に置きつつ、一部の層に向けるものではなく幅広い層に届くものにすることだとフォトバンコクのディレクター、ピヤタット・ハマタット(Piyatat Hemmatat)は言う。ハマタットによれば、タイでは古くから写真が入ってきたにもかかわらず、個人的な表現としての写真がなかなか掘り下げられてこなかったという。それは芸術表現を育む基盤がなかったことや、アーティストが経済的に自立するための支援が得られにくかったこともその一因だ。しかし、近年ようやくその土壌ができてきたことで、タイの写真シーンはいま、とても盛り上がりを見せている。初年度の動員数は10万人を超え、私が訪れた折にも会場は連日多くの人で賑わっていて、写真に対する現地での関心の高さがうかがえた。
写真史研究家のジュアン・ウービン(Zhuang Wubin)は著書『Photography in Southeast Asia: A Survey』のなかで「タイは近隣の東南アジア諸国とは異なり、ヨーロッパの植民地にならなかった。一方、ほかの近隣の国々において、写真は植民地支配と経済的な搾取を介してもたらされた」と述べている。では、タイに一体どのように写真が入ってきたのか、日本の時代背景と比較しながら見ていきたい。
写真がどのようにもたらされ、そして変化していったのか
前述のように、タイにおける写真の歴史はかなり古い。フランス人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787-1851)が1839年に銀板写真、いわゆるダゲレオタイプを発表したわずか4年後には、フランス人宣教師ビショップ・パルクワ(1808-62)によってタイに写真が伝えられた。日本にダゲレオタイプが伝えられたのは1848年といわれているので、タイではそれより5年早く写真撮影が行なわれていたことになる。タイに写真がもたらされたのは、ラーマ3世(在位1824-51)の時代であったが、国王は写真にほとんど興味を示さなかったという。
タイで最も古い写真のひとつとされているものに、ラーマ3世の副王であったピンクラオのポートレートがある。第二の王を立てなければ自らの命が短くなると信じたラーマ3世は、弟のピンクラオを副王として立てたという。かつて日本でもそうであったが、当時のタイにおいても、写真は魂を抜き取ってしまうと恐れられたようだ。弟を代わりに写真に写させ、宣教師によってもたらされた写真機をラーマ3世はさぞ訝しんで見たことだろう。
そもそも、写真が入ってくる以前は、タイの王室には肖像画を残すという風習がなかった。なぜなら、王の身体を描くということ自体がタブーであったからである。その代わりに「ヒンドゥーの神々の姿で描かれた王や絵巻物のなかに描かれた王の絵姿」が残されたという。それは日本においても同様であった。明治初期の錦絵のなかでも、そこに天皇が描かれていたとしても、明治天皇と特定できるかたちでは描かれることはなかった。多木浩二は著書『天皇の肖像』のなかでその点について錦絵のイメージには、「写実的であるより、たぶんに想像的な戯作的要素が残り、比喩のたわむれが強かった」と述べている
。例えば天皇の行幸の様子を描いた錦絵のなかでも、天皇はあくまでも風景のなかでの一部であった。多木はここでも「むしろそれが秘匿とされ、不在化されていることが、天皇の聖性に結びついた」と指摘する 。その後、ラーマ4世(在位1851-1868)の時代になると、宣教師たちから写真技術を学んだタイ人の写真家が活躍するようになる。1863年にはビショップ・パルクワの弟子のチット・チトラカーニが、タイ人で初めて写真スタジオを開業した。王は自らの写真をヨーロッパやアメリカの君主や権力者たちに友好関係のしるしとして送った。その際送られた写真は、ヨーロッパの一夫一婦制に考慮し、何人もの妻や子供たちと共に写ったものではなく、ひとりの王妃や配偶者との写真であった。
写真愛好家であったラーマ5世(在位1868-1910)の時代には、王自らカメラを手にして撮影をするようになった。それにともなって従来の威厳ある王室の肖像写真から一転して、彼らの日常や暮らしぶりが垣間見える写真が登場する。さらに、写真が湿板から乾板になったことで撮影に機動性が伴っただけでなく、技術そのものも簡素化された。このことがレンズを向ける対象への変化にも繋がった。露光時間が長く、時間が凍結したような従来の肖像写真とは大きく異なり、日常の生き生きとした一瞬や出来事が写し出されるようになった。例えば国王一家が仮装大会に興じる写真などは、それまでの威厳ある王室の姿から一転して、見るものに思わず親近感を抱かせる。写真は、〈パブリック=公〉から〈プライベート=私〉なメディアとして広がりをみせたのである。
タイで活躍した日本人写真家
タイの写真の歴史において、じつは日本人も重要な役割を担っている。宮廷付きの写真家のひとりであり、ラーマ5世にも重用された人物に、ロバート・レンズというドイツ人写真家がいた。彼はバンコクに写真館を開業していたが、そこに弟子入りしたのが日本人の田中盛之助であった。天文館にあった写真館に丁稚奉公したのち、写真を勉強するために故郷である薩摩を飛び出し、台湾へ渡った。その後、廈門に渡り、27歳の時に田中はバンコクにやってきた。そしてその後、チェンマイで最初の写真館「チェンマイ・フォト・スタジオ」を開いた。
そしてもうひとり、田中より前にタイで日本人写真家の第一号になった人物がいる。奇しくも田中と同じ薩摩の出身の磯長海洲である。磯長はもともと、貿易会社員として上海に渡り、上海にあった上野彦馬の写真館の海外支店で3年間勤務したのちにタイへ渡った。
1887年になると、日本とタイとのあいだで修好宣言書が調印されたが、磯長がタイに渡った1894年頃でも、現地に住む日本人はほとんどいなかったようだ。その地に唯一いたのは「からゆきさん」とわずかな商人だった。「からゆきさん」とは、主に九州の天草地方周辺から身売りされ、娼婦となった女性たちのことだ。「から=唐」行きという言葉が指し示すように、主に中国周辺が彼女たちが身売りされた先であったが、次第に東南アジアへ、そしてアフリカ大陸や南米、アメリカ、ヨーロッパへと広がっていった。半ば誘拐に近いかたちで海を渡った彼女たちが、どれほど記録に残されているかは不明だが、山室軍平が『新公論』から抜粋するところでは、その数は23,362人を数えるという
。日本軍が各地へ進攻する前に、いわば海外渡航者の先駆けとなった彼女たちだが、たとえそこが未開の地であったとしても、買手としての需要があった。その多くが貧しい漁民や農民の子女であったという「からゆきさん」のほかにも、新たな地で一旗あげようとする者がつづき、そこに写真家がいたと考えても不思議ではない。磯長も田中もそんなひとりであったのだ。肖像写真と御真影
私はバンコクでの滞在中、とある小さな食堂に入ったのだが、店内をよく見ると、壁の高いところに国王の写真が飾られていた。気になってタイ人の知人に尋ねてみると、タイではいまでも家の中に国王の写真を飾る家庭が多いという。
日本においても、明治天皇の写真、いわゆる「御真影」が拝礼の対象となっていた時代があった。かつて見えないことによってその聖性を高めていた天皇の姿は、写真になり今度は見られる対象となった。1889年には大日本帝国憲法、翌年の90年には教育勅語が発布され、「御真影」は全国の行政組織、軍隊、教育施設へ下賜された。行幸ではなく、写真という複製技術によって、「御真影」は「天皇の存在をいたるところに反復する支配のメディア」になり得たのだ
。じつは、その頃新たに制作された「御真影」は、厳密に言えば写真ではなく、絵画として描かれた肖像画の複写であった。明治天皇が写真嫌いであったための苦肉の策ともいわれているが、お雇い外国人エドワルド・キョッソーネによって描かれた肖像画は、それが写真であると思わせるほど巧妙に描かれており、威厳ある君主として理想化されたかたちでもあった。やがて「御真影」は儀礼と共に扱われることで、一枚の写真は聖なるもの、すなわち天皇の分身となった。人々は「御真影」を天皇として丁重に迎え入れ、礼拝した。しかしその同一視によって、ある悲劇も招いてしまう。火事により「御真影」を消失したある学校の校長が責任を感じて自らの命を断ち、その後も「御真影」を守ろうとして命を落とす人が続いたのだった。このことは絵画と違い、写真がいかに呪物化しやすいメディアであるかを露呈するエピソードでもある。
タイ、日本における現代にも受け継がれる心性
タイ、日本において写真がもたらされた背景には、上述のようにいくつかの共通点を見出すことができる。両国とも皇室、王室を持ち、度重なる戦による損失は大きいとはいえ、植民地化されなかったことで独自の文化の消失は辛うじて免れた。近代化以降、外国から多様な価値観がもたらされたが、目に見えないものへの畏怖の念や仏教的思想は日常生活において、ひいては写真表現においても少なからず影響を与えている。
カメラは、目の前の対象と時間の断片を定着し、視覚化するための装置だ。しかし、写真は物質化されない限り確固たる形を持たないじつに曖昧なメディアである。絵画や彫刻のように明確な物質としての形を持たない写真は、物質化される際の媒体によって変様する。そのうえ現在では、写真をプリントとして物質化することすら少なくなってきている。デジタルカメラやスマートフォンで撮影された写真の大半は、データとして保存され、昨今の展示においても、前述の「Post-Repost-Share」展のようなスライド上映や、映像モニターで見せる作品が散見される。
このように写真は、ある視覚的な像であることに変わりがないとはいえ、その厳密な定義が難しい。だがその曖昧さ、可変性ゆえに、写真は畏怖や祀りなどの目に見えない気配や霊性と深く結びつくことができるのかもしれない。かつて魂を抜き取られると恐れ、御真影を拝した時代から現代においても、写真は明確な形を持たぬがゆえの呪術性を未だ秘めているのだ。
現代の写真表現においても、このような可視化することができない存在をなんとかして掬い取ろうとする作家たちがいる。一方で、写真の表象性を解放し、その定義を拡張することで写真表現の可能性を探ろうとする作家たちもいる。前述の「Multiple Planes」で展示されている作家たちはまさに後者といえるだろう。
タイではストリートスナップの写真は未だ根強い人気ではあるが、その表現はますます多様化してきているという。それと同時に、現在国政がセンシティブな時期でもあり、社会や政治に関連する写真表現も増えているようだ。歴史や心性が表現にどのように影響しているのかを見ていくことは大変興味深く、現代の写真家も含め、タイにおける膨大な写真史に光が当たることによって、新たな写真の発掘が今後ますます進んでいくだろう。
参考文献
PHOTO BANGKOK 2018
会期:2018年7月6日〜9月9日(メイン会場)
会場:Bangkok Art and Culture Centre (BACC) ほか
939 Rama 1 Road, Wangmai, Pathumwan, Bangkok 10330