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【上海】第12回上海ビエンナーレ
鷲田めるろ(キュレーター)
2018年12月15日号
開催中の第12回上海ビエンナーレを見た。会場は国営の「上海当代芸術博物館」(PSA)。黄浦江西岸にある旧発電所の建物を改修した美術館である。このエリアは2010年に行なわれた上海万博の会場で、PSAも万博のパビリオンのひとつであった。近くには現在も万博当時のパビリオンが残っており、そちらは訪れた際はフェンスで囲われ工事中であった。
上海の美術についてよく語られるのは、中国政府による検閲とマーケットによる主導ということである。上海ビエンナーレのウェブサイトも直前まで10名ほどの作家しか公表されていなかった。これは検閲が終わるまで公表できないという事情があったようだ。また、中国の美術市場は大きく、世界全体の美術作品の取引額の約5分の1は中国における取引である。上海ビエンナーレのオープニングに合わせてアートフェアが行われ、その会場の周辺は「西岸」と呼ばれるギャラリー街となっている。さらに余德耀(ユズ)美術館、昊(ハウ)美術館など、コレクターによる巨大美術館も多く作られている。それゆえ、キュレーションや批評が遅れていると言われることもあるが、PSAはその中で数少ない公立の施設であり、上海ビエンナーレは、海外キュレーターが入っているとはいえ、きちんとキュレーションされた展覧会である。
チーフ・キュレーターは、メキシコ自治大学付属現代美術館チーフ・キュレーターのクアウテモック・メディナで、それに3人の共同キュレーターがいる。一人は、広島市現代美術館の学芸課長を経て、現在、ニューヨークのジャパン・ソサエティで活動している神谷幸江。他に、上海のキュレーター王慰慰(ワン・ウェイウェイ)、コロンビア国立大学美術館のマリア・ベレン・サエズ・デ・イバッラが共同キュレーターを務めている。2001年にリマでメディナが企画したフランシス・アリスのプロジェクトなど、各キュレーターのこれまでの仕事を知っていれば、各作家は誰の担当であるか、ある程度は想像がつくが、明示的にキュレーター毎にセクションが別れているわけではない。
ビエンナーレのテーマは「Proregress」である。進歩「Progress」ではなく、「前へ」という接頭辞「pro」と「後ろへ」という接頭辞「re」を繋げて、「行きつ戻りつ」歴史が進むという意味を持たせている。例えば、展覧会には先述のフランシス・アリスが1999年から2004年にかけて制作した《リハーサル Ⅰ》という映像作品が展示されている。その映像のなかでは、旧式の自動車が急な坂を登っていくが、登りきれずにずるずると後ろに下がってしまう。この作品は、進んでは下がるというこのテーマを象徴的に示すものとして選ばれているのだろう。このようにテーマの図示とも取れる作品がある一方で、「Proregress」はビエンナーレなどの国際展にありがちな、広い解釈を許す、良くも悪くも、当たり障りがないテーマだと感じた。個々の作品を見るときに、テーマが作品の見方を狭めてしまうことはないが、多くの場合、観客が作品にアプローチするときの補助線としてもさほど機能してはいない。
むしろ見るべきは、巨大な空間の使い方である。元発電所の建物なので、ロンドンのテート・モダンと同様、タービンのあった巨大な空間が、建物に入ってすぐのところにある。天井高も4階分ほどあり、上から見ると足がすくみそうだ。今回の上海ビエンナーレではこの巨大な空間に複数の作品を組み合わせて展示していたが、場所に合わせてよく考えられていた。
入り口から入って最初に目に入るのが、スペインの作家、フェルナンド・サンチェス・カスティッロの《ブランコ》という作品である。台の上に乗った男性のブロンズ像がリンボーのように後方にそっくり返っており、背後に倒れそうな胴体にロープを引っ掛けてブランコにしている。威厳のあるモニュメントをユーモラスに茶化すというカスティッロお得意の手法である。銅像やブランコは通常、公園など屋外に設置されるものだが、それを都市的なスケールをもったこの屋内空間に持ち込むことで、大きさのバランスを取り、さらには建物の内と外を反転させている。
その横に置かれたのは照屋勇賢の作品で、自動車が2台、逆さまにひっくり返されている。横に置かれたモニターには、2台の車を屈強な男たちがひっくり返す競技を行なっている様が映像で映し出されている。ひっくり返し方の美しさを競い、周囲を取り囲んでいる観客が判定するという競技である。照屋が沖縄の出身であること、そして、沖縄の状況を知っている日本人には、この車をひっくり返すという行為が、民衆による反抗の身振りであることは容易に推測がつく。作品解説によると、マラソンなど多くのスポーツはもともと戦争と関係していることから、作家は暴動の際の民衆の行為をスポーツに見立てたのだという。
この二つの作品は、銅像や自動車といった権力の象徴と、子供や民衆とを対置させている点で共通しており、さらに、銅像も自動車も両方、通常は屋外にあるという点でも共通していることがわかる。カスティッロはかつて、放水車を使った作品も作っており、それがデモや暴動の鎮圧と関係していることを知っていれば、この二つの作品の間に、さらにもうひとつの共通性を見つけることもできるだろう。
さらにこれらの作品の奥には、間近で見るとただのダンボールの集積にしか見えないエンリケ・ヘシックのインスタレーションがある。その後エスカレーターに乗って2階に上がり、吹き抜けを見下ろすと、1階で見たときはただのダンボールににしか見えなかったものが、文字になっていることに気づく。巨大な空間の使い方は、自分が今後キュレーションする上で、大変参考になった。
個別の出品作品については、地元上海の陸揚(ルー・ヤン)などポップでインバクトのあるインスタレーションもあったものの、海外ベテラン勢の練り上げられた作品と展示のうまさが特に印象に残った。
例えば、サイモン・スターリングは、ボートをモチーフにした過去の一連の作品を、壁に投影した映像とケースに収めた資料によって展示していた。ボートの作品は一部、2011年に神谷が広島市現代美術館で企画した個展にも出品されていたので見たことがある人もいるだろう。壁全体にプロジェクションしたメインの映像作品は、2016年に死海にカヌーを浮かべたプロジェクトの記録である。このカヌーは、黒海の水から精錬したマグネシウムで作られている。水から取り出した素材で水に浮かぶ船を作るというウロボロス的な発想は、スターリングのこの一連の作品にしばしば見られるものである。例えば、広島でも展示された作品では、木の船を水上で分解しながら、その部材を動力のための内燃機関にくべてゆくというもので、最終的に船は沈んでしまう。銀色のマグネシウムで作られた流線型のシンプルな形をしたカヌーが、誰もいない水上を進んでいく姿を撮した映像は、そぎ落とされた魅力を発している。最終的にイスラエルからヨルダンへの渡航は天候により中断を余儀なくされたようだが、複雑な歴史、政治、宗教問題が絡む両国を船で渡るというプロジェクトは、シンプルななかに張り詰めた強度をはらんでいた。
今年広島賞を受賞したアルフレッド・ジャーも非常にシンプルな展示だった。香港で出会った移民の少女のポートレートで、連続してシャッター切った、ほぼ同じだがわずかに表情が異なる4つのショットを並べてひとつのフレームに収めている。それを壁いっぱいに反復させた展示である。「グエン」という少女の名前から《100回のグエン》というタイトルがつけられている。香港滞在中に撮影した1378枚の写真のなかで、もっとも自分の記憶に残った写真だと作家は言う。通常ならば1枚だけを選び出し残りの3枚は捨ててしまう、類似のカットを4枚とも残し、他方で、残りの1374枚をばっさりと切り捨て、香港での調査を4枚の写真に代表させたのである。何かを反復して展示するのは、例えばジャーが敬愛する河原温などが用いた、現代美術によく使われる手法のひとつである。ジャーはこの「反復」という手法を継承しながらも、わずかに異なる4枚の写真を混ぜて用いることで、はにかんだような表情の揺らぎという、映像的な時間性を導入している。それが少女の存在感を生み出している。20年以上前の作品だが、全く色褪せることはない。
イラク人の血を引くアメリカ人アーティストのマイケル・ラコヴィッツは、イラクの料理をアメリカで振る舞う「エネミー・キッチン」のプロジェクトで知られる。上海ビエンナーレでは、2003年のアメリカによるイラク侵攻以来、バグダット国立博物館から失われた収蔵品を主題にした作品を展示した。中東の新聞紙とパッケージの紙によって作られた像は、博物館から失われた収蔵品を復元したものである。日常的な素材に置き換えられることで文化財の不在が逆に可視化され、メソポタミアやエジプトなどからヨーロッパへと文化財を持ち出し移動させてきた博物館自体の歴史が照らし出される。
他にも多くの興味深い作品があり、その作品の背景となった社会状況も伝えていたが、作品自体が訴える力を最も感じさせたのは、上記の作品であった。とはいえ、マーケット主導や検閲の中でも、このような上質なビエンナーレが開催されることは、今後この地からますます多くの優れたキュレーターやアーティストが現れてくることを予感させた。