フォーカス
【ベオグラード】ヨーロッパの端で起きていること──2019年のバルカン・アートシーン
丸山美佳(インディペンデント・キュレーター)
2019年10月01日号
ウィーンは東西ヨーロッパを接続する地政学的な中継ポイントの役割を果たしてきており、東から西への窓口(あるいは働き口)として東欧諸国出身の人々が多く暮らしている。友人や協働するアーティストが東欧諸国出身であるということもあり、日本において「ヨーロッパ=西欧」と学ぶものとは別の形で存在してきた歴史や芸術があることを身近に実感することも多い。それは「芸術」と一言で表している言葉が時代と場所によってまったく異なることを端的に示してくれる。もちろん、東欧といっても一言で括ることは出来ない。冷戦下の東西の境界を示す一方で、ソ連の影響を直接的に受けていた社会主義や共産圏、バルカン半島の北西部に広がる旧ユーゴスラビア諸国などそれぞれの歴史や社会的状況は、言語や民族、宗教、周辺諸国との関係性とともに異なってくる。
今年6月、ウィーン大学美術史学部で開催されたシンポジウム「Critical Inventory: Towoards a Methodology of Contemporary Art History」に参加したが、そこでは依然と続く東西の差異にフォーカスが当てられ、ドクメンタ14のキュレーターのアダム・シムジックや今年からクンストハレ・ウィーンのディレクターとなったザグレブ出身のキュレトリアル・コレクティブ What, How & for Whom(WHW)が登壇し、グローバルアート時代における芸術の在り方や美術史、キュレーションの方法論が議論の中心になっていた。かつては美術史の中核をなすウィーン学派を生み出したウィーンという場において、西側の文脈に沿って東側の芸術について書いたり展覧会作りをしたりすることが何を意味するのか、いまだに西欧の白人中心主義の範疇でグローバルアートが語られていることに対して、これからの芸術を語っていくためにどんな文脈を共有し、どのような立場や場所、関係性から考えられるべきなのかといった議論が交わされていたのが印象的であった。東欧だけでなく、芸術について書くことはまったくの中立ではなく、書き手がどのような場所や角度からその対象を見ているのかをおのずから表明するようなものである。
登壇者の一人でありセルビア出身の芸術理論家ミシュコ・シュバコヴィッチはユーゴスラビアを「不可能な歴史たち(Impossible Histories)」と呼ぶ
。中央ヨーロッパ、バルカン半島、中東の文化が混じり合いながらも切断や衝突を抱え、同族的な繋がりを持ちつつも、民族や国家的な組織に抵抗するものであったユーゴスラビアはその存在からして常に変化と再定義を必要とする枠組みであったからだ。オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊にともない1918年に建国され1991年の解体までの約70年間、セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マセドニア、モンテネグロ、そしてボイボディナとコソボの地域を含むユーゴスラビアは地理的に周辺文化の影響を受けながら西欧の中産階級的なナショナリズムから革命を希求する共産主義、スターリン主義、パルチザンの活動、自治的社会主義、トランスナショナルな社会主義など数々の社会的かつ政治的な変遷を経てきた。「不可能な歴史たち」に生きるアーティスト
しかし、比較的穏やかで平和であった60年代から80年代を経て、旧ユーゴスラビア諸国をまとめていたチトー大統領が死を迎えると、東欧諸国の共産主義崩壊と民主化の流れのなか民族主義とナショナリズムも高まり始める。1991年にクロアチアとスロベニアが離脱をし、ユーゴスラビア解体を阻止しようとする対セルビアと、民族間で繰り広げられた数々の内戦とNATOによる介入、そして非道な暴力が勃発した歴史は、当時をリアルタイムで経験した人々にとって生々しい記憶として残っているだろう。その後の分裂と資本主義への移行による変化は現在の文化やアート活動をするうえで切っても切り離すことが出来ない。例えば、言語ひとつとっても、同種の言語でありながら、セルビア語、クロアチア語、さらには歴史的には存在していなかったボスニア語の区別が強まり、文化の連続性はナショナリストの政治家の権力掌握と民族的な国家設立のために分断されている
。そのようなナショナリズムとファシズムが加速するとともに、EUへの加入を目指し「リベラル」を装う旧ユーゴスラビア圏において、アーティストは「不可能な歴史たち」の延長線上にあるポスト社会主義と戦後の民族間に横たわる痼り、そして圧倒的な西側との経済格差が露出した空間と対峙せざるをえない。
例えば、2003年のヴェネチア・ビエンナーレでセルビア・モンテネグロ代表を務めたセルビア出身のミリツァ・トミッチ(Milica Tomić)は、旧ユーゴスラビア空間に生きる自身の身体を使ったパフォーマンスや映像を制作し、政治的に引き起こされる暴力やアイデンティティと国家の問題を扱い続けている。戦争記念碑のためのコンペと話し合いの過程で形成されたベオグラードのディスカッション・グループ「Grupa Spomenik (the Monument Group)」としても活動するなど、とくにセルビアにおける反ファシズムとフェミニズムの芸術の重要な役割をになってきてる。同じくセルビア出身のアーティストのアレクサンドラ・ドマノビッチ(Aleksandra Domanović)の映像作品《Turbo Sculpture》(2010-2013)は、バルカン半島で流行しているターボ・フォーク を捩り、各地に建立されたハリウッドやポップカルチャーの公共彫刻を「ターボ・スカルプチャー」と呼ぶ。90年代以降の社会主義から資本主義への移行と戦争によって失われてしまった指導者的存在の不在が、歴史とはまったく関係のないポップカルチャーや家父長的な力関係を継続する消費文化と結びつき、その土地に残された歴史を消し去ってしまっているのかを分析している。
一方、ボスニア出身のアーティスト、ラナ・チマイチャニン(Lana Čmajčanin)とアデラ・ユーシッチ(Adela Jušić)の映像作品《I will never Talk About the War Again》(2011)は、幾度もイメージとして流布され語られる一方で、ナショナリストたちによって操作されてきた戦争とその歴史について「話す/話さない」ことの不可能性を循環する感情とパフォーマティブな側面を強調することによってその暴力性を明るみに出している。
また、昨年2018年のカンヌ映画祭にてドキュメンタリー映画賞を受賞した『Srbenka』(監督:Nebojša Slijepčević、2018)は、クロアチアにおける反セルビアの感情を扱ったものであるが、このドキュメンタリーは劇作家のオリバー・フルリッチ(Oliver Frljić)のクロアチアにおけるセルビア人虐殺の実話を元にした舞台作品の制作過程を撮影したものである。フリジッチは過去にもユーゴスラビア内戦を扱った作品や西欧批判で物議を醸し出している。
これらのアーティストや作品は旧ユーゴスラビア解体後の空間で内外的に隠されてきた暴力や傷の記憶を消し去って沈黙してしまうことへの抵抗であり、未だ続く民族間や国家間のわだかまりを注視するための実践である。もちろん、このような文脈はすべてのアーティスト活動で見えてくるわけではないが、圧倒的な経済格差や移動の難しさ、歴史を語ることの不可能さも含めて「東側」が含意する空間を考えるならば、アーティストもアート活動もその空間の影響下にある。そのため、国や地域を超えた繋がりや西側の美術史の枠組を超えた活動が多く存在することは見逃せない。
ミュージアム不在の時代を経て
さて、前置きが長くなってしまったが、今年の7月、私はその旧ユーゴスラビアの首都であり、現在のセルビアの首都ベオグラードを訪れる機会に恵まれた。ベオグラードはクロアチアの首都ザグレブとスロベニアの首都リュブリャナとともにユーゴスラビア文化の中心地であった。特に60年代から80年代は東欧のなかでもとくに開放的で最もリベラルな街であったといわれ、コンセプチュアル・アートやパフォーマンス、折衷的なポストモダンのアートが花開いた場所でもある。しかし、大都会としての存在感を示すベオグラードは、驚いたことに2年前まで主なミュージアムが閉鎖していた。街の中心地、共和国広場の目の前のセルビア国立博物館が再開館したのは昨年2018年であり、2003年から15年もの間、セルビア(そしてユーゴスラビアの文化)を代表するミュージアムの存在が欠けていたのだ。この博物館は先史時代の遺跡からオスマントルコやオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツロマン主義の影響を受けた芸術、20世紀のアヴァンギャルド、旧ユーゴスラビアの芸術まで幅広くコレクションしているが、すべてのコレクションを見せるにはまだ至っていない。
また、対岸のニューベオグラードに位置するベオグラード現代美術館も2007年から2017年まで修復のために10年間閉鎖されていた。この現代美術館は今年9月にユーゴスラビア出身であるマリーナ・アヴラモヴィッチのヨーロッパ初の大規模回顧展「The Cleaner」の最終巡回地でもあり、彼女にとっては1975年以降のセルビアでの個展であるという
。アブラモヴィッチは70年代にはすでにそのラディカルなパフォーマンス・アートで有名であったが、本人も早くに海外に移り住み、また多くの作品を海外で発表し成功してきたアーティストであり、先に挙げたアーティストもドイツやオーストリアを拠点に出身地と行き来しながら制作をしている。ベオグラード出身のアーティストの多くは「(ベオグラードに)アートシーンと言えるようなものはない」と話していたが、その理由のひとつは、ベオグラード(またはセルビア、旧ユーゴスラビア)出身のアーティストの多くが海外で活動しており、海外で語られる文脈と現地で行なわれている芸術実践には差異があり、固有なアートシーンとして共有されるようなものがないということだ。とくに2000年代からウィーンを含め国外において旧ユーゴスラビア圏のアートが紹介されるようになったため、それらの文脈は国外で形成されてきたともいえる
。また、地域ごとに独自の歴史を形成するための美術館がなかったり、数年前まで文化予算はゼロであったりと、数々の要因がアートシーンや各々の活動をひとつの大きな流れを形成するには至らなかった理由としてある。未だに他国と比べると国家として文化予算は少なく、民族的で伝統的とされる文化を別にすると、芸術と経済との繋がりは薄い
。 マーケット主導にはならない制作が続けられる一方で、国外でなければアーティストとして生きていくことが出来にくい現状がある 。旧ユーゴスラビアという空間にある裂け目
しかし、ベオグラードに何もなかったわけではなく、アーティスト同士のネットワークは活発であり、予算がなくても芸術やアートスペースは存在し続けていた。また、2年前に現代美術館が再開館してからこの状況も大きく変化しており、コマーシャルギャラリーが軒並みオープンし、海外の資本とともに積極的に現代美術が内外に紹介されるようになってきている。
例えば、1999年に設立された老舗のアートスペースREMONT- INDEPENDENT ARTISTIC ASOCIATIONは展示スペースだけでなく教育プログラム、出版など芸術に関わる地盤固めを積極的に行なってきた場所であり、アーティスト同士が集まり、情報を交換し、議論を交わす場として機能してきたという。「Contemporary Art in Belgrade」というアートスペースを紹介した英語のギャラリーマップも制作されており、現地の言語を話さない外部者にとっては貴重な情報である。
国立博物館すぐ側には、社会主義時代の建物をそのまま利用した映画、音楽、演劇を総合的に扱うカルチャー・センター・ベオグラードやベオグラード・ユースセンター、1970年代にベオグラード大学と学生組合によって設立され、コンセプチュアル・アートの中心であったステューデンツ・カルチュラル・センターなどの施設があり、アーティスト・イン・レジデンスも行なっているHESTIA ART RESIDENCY & EXHIBITIONS BUREAUなど、インデペンデントなスペースも存在している。また、2016年から2017年にオープンしたギャラリーとしてはGallery RIMA、Eugster || Belgrade 、DRINA GALLERY、LAUFER、U 10などが積極的に内外のアーティストの紹介をしている。それとは別に、オルタナティブなスペースとしてバーやクラブ、ギャラリーが一緒になったKvaka 22など多くのアートスペースが市内に点在し、多彩な活動が行なわれている。
旧ユーゴスラビア崩壊とともにその性格を強めてきていたポスト社会主義圏の反ファシズム的なポリティカルアートは、ここ数年でギャラリー的なアートへとも変貌をしてきているとの意見もある。数々のスペースを見たり関係者に話を聞いたりすると、ベオグラードのアートシーンはまさに変化の真只中にあり、格差を抱え込みながらグローバル化へと歩みを進めている印象を受けた。しかし、そのグローバル化とは何を示しているのか? セルビア出身でクロアチアで活動していたムラデン・スティリノヴィッチ(Mladen Stilinović)は、1992年に「英語を話さないアーティストはアーティストではない(An Artist Who Cannot Speak English Is No Artist)」と述べ、1989年以後の東西の融解、そして旧ユーゴスラビアの崩壊と資本主義化が進むなかで、「英語」という資本主義かつ西欧的な言語と物語のなかで誰が(非資本主義の出身であったとしても)アーティストとして見做されるかをすでに問うていた。今日、英語は世界的な交流を可能とする最低限の手段であるが、同時に各国が持つ美術館やアートスペースという芸術機関も現代の芸術を理解する上での標準機能として考えられている。ベオグラードのアートシーンを紹介する本稿を書くとき、私自身も使用する(西側の)言語や芸術の基準と、旧ユーゴスラビアという空間の狭間には間違いなく裂け目があることを感じている。公共的な美術館や国家的な支援がなくても芸術は間違いなく存在する。一方でそれを芸術として記述していくためには、何らかの判断や方法論が必要になってくる。ベオグラードという一都市でありながらも、90年代以降の文化、民族、経済、国家、宗教、ジェンダー、コミュニティなど多くの格差と矛盾を孕んだ空間について書くことは、ますます近代化国家の名の下にファシズム化していく世界において、何をアートシーンとして見做し、どの物差しで芸術を観ているのかということを露わにもするように思われた。