フォーカス
没入するモノたち──チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』
池田剛介(美術作家)
2019年10月15日号
例えばここに積み重ねられたスツールがある
。IKEAで販売されている、なんの変哲もない大量生産品。ひとつずつ上から外せば座ることができる。だが同時にこの物体は、いま積み上げられた状態で存在している。黒い円盤が一定間隔で垂直方向に反復され、その円盤の中心とも周縁とも言えない絶妙な中間地帯では、八つの穴が中央を取り囲むかのように円陣を為している。円盤と円盤の狭間からは緩やかな弧を描いて棒状の物体がいくつも突き出しており、これらは並行的に連なり面を形成しながら、円筒形の内へと誘うドレープのついた緞帳のように見えなくもない……『消しゴム山』開演前の舞台上では、すでに数多くの謎めいたモノたちが陣取っている。これらは無秩序とは言えないが整然と呼ぶにも遠く、ほどほどに中間的な乱雑さで散らばっており、とりわけ床面に対して自立した形状のものが多く目につく。およそ水平であるべき水平器ですら、緊張感を持って立ちあがっている。コンクリートミキサーと思われる赤い物体はドラムのようなパーツを回転させながら不穏な音を鳴らしている。これらすべてのモノたちは多少の配置は変えながらも、上演時間を通じて舞台上に存在し続けている。登場した演者たちは、これらモノたちがすでに占拠している空間の合間を縫うように動かねばならず、舞台上の主役の座はすでに侵食されつつある。とは言うものの、そこは演者である。舞台での運動性は制限されていながらも、日常的な台詞や動きを誇張しつつリミックスしたような独特のパフォーマンスで、舞台上の注目度をかろうじて保持している──少なくとも中盤までは。
舞台は三部構成となっている。第一部、無印のソファに座って健康雑誌を読んでいたところ、小さな爆発音とともに洗濯機が壊れる。バックフィルターが外れたらしいのだが、ジャバラドキュメントファイルから取り出した取扱説明書を読んでも素人には手に負えないようだ。業者を呼ぶものの洗濯機はすでに廃番となっており、取り替えパーツがあるかどうかも不明である……第二部は突如として公園に現れた、穴だらけの不穏な物体を起点に展開される。どうやらそれはタイムマシンであるらしい。やがて演者たちが一堂に会して、現代にやってきた未来人の対応をめぐる奇妙な会議が行なわれる……この第二部の中盤まで、舞台上のモノたちは演者たちのパフォーマンスとはおよそ無関係に存在し続けており、ありていに言って邪魔そうだという点を除けば、演者それぞれのモノローグを軸とした一応の演劇的空間が成立しているように見える。しかしこれ以降、演者たちと舞台上のモノとの関係は大きく変化していくことになる。
上演という時空間
ところで美術に関わる私のような者からすれば、作品を発表するうえで劇場とは、おおよそ次の二点において非常に強い環境のように思われる。ひとつには上演の空間と客席とが分割され、すべての観客がひとつの方を向きながら視線を集中させる空間的拘束があり、もうひとつには観客が集まるその時間に限定されて上演が行なわれるという時間的拘束がある。上演が終了すれば観客は劇場を去り、その少し後から演出家やパフォーマーといった人間や、舞台美術を構成していた大小のモノたちもまた散会していく。劇場とは人間とモノとを限定された時空間へと引きつける、強力な磁力のようなものであるだろう。筆者は演劇やダンスといったパフォーミング・アーツの熱心な観客とは言えないが、ここ近年、舞台芸術において劇場という空間に介入する試みは多くなっているようだ
。緞帳を下ろして舞台上で客席をつくったり、ツアーパフォーマンスのように観客を屋外へと連れ出したりするといった実験は劇場が要請する強固な場を相対化する試みと言える。こうした劇場という構造へと積極的に介入するような近年の傾向を踏まえて言えば、本作は金氏徹平というアーティストによる舞台美術を大きく導入しつつも、演者やモノはいまだ舞台上に存在し、観客は客席から窓枠型の舞台を眺めるという舞台-客席という構造自体は保たれているようにも見える
。しかしこの作品は、舞台芸術が否応なく抱える強力な時空間に対して、むしろ劇場という構造の内部から切り込んでいくことになるだろう。ここで舞台上に置かれたモノの存在が重要性を帯びてくる。先取りして言えば、それは二段階の構えで展開している。1)観客を蔑ろにすることによって。2)観客を忘却することによって。第二部、先述した未来人をめぐる奇妙な会議が結論も見ぬまま終わり、演者が皆、舞台上からいなくなった後、映像として現われた人間(青柳いづみ)が、周囲に向けて時間についての講釈を繰り広げる。この場面は、作品のなかに上演という時空間を入れ子状につくり出すかのようだ。生身でない映像としての人物の登場は、この舞台上「舞台」という括弧の感覚を強調するだろう。この入れ子状の舞台の観客は人間ではなく、モノたちである。
先述したようにモノはあらかじめすべて舞台上に現われており、第三部以前にはその配置を大きく変化させることはない。ここでの(映像内の)青柳による語りは、実際にはモノたちが一切動くことなく、モノたちの方向を変えることを可能にしている。観客の想像のなかで、モノたちは青柳の方を向き、その話に耳を傾けているかのように見える。そしてそれは同時に、モノたちが観客に対して背を向けているかのように感じられる、ということでもある。観客は舞台上に入れ子状に現われた「舞台-客席」構造によって、密かに観客=人間の地位を蔑ろにされるのである。
だがこのように観客を蔑ろにするだけでは、蔑ろにするというまさにその仕方で観客=人間に対して向かっているとも言えるのではないだろうか。あえて意中の存在に背を向けることで相手の気を引くというような、一捻りした社交術にも見られそうな手法である。こうした劇人化なきモノの劇人化は見事ではあるが、結局は人間の地位にモノを置き換えているだけとも言える。実のところこれはまだ第一段階にすぎない。むしろ本作の特異性は、こうしてモノを通じて人間=観客が蔑ろにされた後の、その先にまで踏み込んでいくところに見出されるだろう。
没入と忘却
第二部の後半でモノたちの視線が舞台中央に集中した後、第三部では、もはやこれらの注意を一元化させる結束バンドは失われ、モノたちはそれぞれに個別バラバラな時間を生き始める(といった内容が青柳によって語られもする)。こうしてモノたちは、それぞれの個別の分散性を際立たせていく一方で、役者=人間たちは、もはや観客の面前で演じる存在というよりも、ほとんど舞台上でモノたちを運ぶ作業者=裏方のようになっていく。舞台の左端にモノを運び、それらを積み上げる。積み上げるだけではなく演者の身体もその隣に並べられる。その手前にはカメラが据えられ、入力された映像は舞台中央の二台のスクリーンにリアルタイムで出力されている。演者たちは舞台上でモノを積む作業に専心しており、観客に対してもはや無関心であるかのように見える。
マイケル・フリードは、あたかも観客の存在を忘却したかのように画中の人物が自身の行為に集中している様を「没入(absorption)」と呼び、これ見よがしに観客の注意を引きつけようとする「演劇性(theatricality)」に対置させた。こうした没入を示す際の参照項に、少年がひたすら自己充足的にカードを積み上げる様を描いたシャルダンの作品が挙げられている
。観客を忘却しながらモノたちの積み上げに専心する演者たちは、演劇空間の只中で、観客を忘れた没入の時間を生きているかのようである。先の青柳(の映像)が周囲のモノについて語りかける時点では一台だった映像を投影するスクリーンが、ここへきて二台横並びになっている点は示唆的である。この横並びは、ここから展開される人間とモノのカード的な並列化を予告するだろう。この二台のスクリーン上で人間とモノの両者は共に映像として平板化されて並べられる。スクリーン上でトランプカードのようになったヒトとモノは、徐々にその組み合わせを変化させていく。ヒト-モノ、モノ-ヒト、モノ-モノ……やがて左右のスクリーン内のモノの高さがピタリと合った時点で、この遊びは中断される(そういうゲームだったのか?)。ヒトとモノとが互いを並列化させていくカード遊びに没頭するなかで、舞台-客席という構造は否定されるのではなく、劇場の只中で忘れ去られる。しかし舞台-客席構造が忘却されてもなお、舞台上からすべてが失われるわけではない。なぜならそこにはさまざまなモノたちの「諸形態」があるからだ。
第二部の冒頭に登場したタイムマシンは、複数の大小さまざまな穴を持つものであった。穴とは没入を、何かがその中に深沈することを可能にする。だがこのタイムマシンの穴は、さまざまな存在が寄り集まる防空壕のようなそれではない。ひとつの穴は(第二部で時間について語る青柳がそうであったように)すべての関心がその一点へと収束するような求心的な場を用意する。しかし複数の穴はそうではない。それは舞台上のヒトとモノとがそれぞれの没入に充足するカード遊びを可能にする。カード遊びとは、勝ち負けをめぐるひとつの競争的な場を為すものでもあるが、同時に各プレイヤーが手持ちのカードの絵を合わせ、カードを組み上げるという純粋に形態的な遊びでもあり得るだろう。
消しゴムと(しての)諸形態
ここで「消しゴム山」という謎めいたタイトルの示すところが明らかになる
。消しゴムとは機能的には、書かれたものを消すアイテムである。だがそこに「山」という言葉が組み合わされたとき、消しゴムとは消すもの、すなわち形を失わせるものでありながら、しかしそれ自体として形を持つものであったことに気づかされる。つねに人間の使用によって形を失う途上にありながら、それでもなお形を持っているからこそ消しゴムなのである。すべてが失われてしまったら消しゴムとは言えないし、そもそも消しゴムは一定程度小さくなると指先で持つことが難しくなるその性質上、決して使い切ることができないというパラドキシカルなオブジェクトであることは周知の通りである。つまりそれは機能的なレベルでの否定性=消すこととは裏腹に、形態を留めるものでもあるのだ。第三部の終盤、演者たちがほとんど裏方と化してゆっくりとモノを移動させる傍らで、次のような台詞が語られる。「松の木にバスタオルが引っ掛かっているのには、観客がいなかった」「地形の変化には、観客がいなかった」「小部屋の壁紙には、観客がいなかった」「海の向こうで点滅している遠い光は暗い海面に浮かぶ立体の幽霊の姿を偶然照らし出すことがあった でも観客はいなかった」。
観客なしの諸形態とその変化──舞台上で演者=裏方の手によって徐々に配置を変えていくモノたちは、いわば消しゴムの山脈である。第一部ではパフォーマーの動きを阻害し、第二部では観客に背を向けながら、第三部において人間=観客を忘却しつつ、モノたちはそれぞれの特異な形態を露わにするだろう。言い換えればそれらは第一部では役者=人間との、第二部では観客=人間との関係に強く規定されていた。だが第三部に至って、モノたちはヒトと並列化しながら、それぞれの形態への没入を生き始めている。人間との関係で機能する消しゴムから、自身に没入する諸形態としての複数の消しゴム山へ。
サッカーゴール、バレーボール、テニスボール、野球用の防球ネット、回転するコンクリートミキサー、ネコの写真の大パネル、扇風機、巨大な白い球、大小さまざまなL字パイプ、自立式スクリーン、水平器、プラスチックケースに山盛りになったジャリ、コンクリートブロック、鉢植えに入った木の幹、金属製タライ、アルミシート、銀色のシート、積み上げられた粘土、透明アクリルボックス、蛇腹式ダクト、安全確認用のミラー、ブルーの液体の入ったプラスティックボトル、岩を模した噴水、置物風の天然木、巨岩のような発泡スチロール──もはや演者もいなくなってしまったエピローグでもなお、舞台上には開演前と変わらないモノたちが鎮座している。だがそれらは序盤とは異なる様相を観る者に示している。上演という一元的な時空間に束ねられることない、それぞれの形態に没入するモノたちの姿が、そこには見出されるだろう。
上演という130分の磁力から解放された私たちは、劇場の外でこの世界と別様に出会いなおすことになるはずだ。この世界で日々生起しているさまざまな事象には、上演時間に集められた観客はいない。積み上げられたスツールにも、観客はいなかった。だがそこには、離散したモノたちの織りなす没入的な、多元的すぎるがゆえに散漫な、しかし個別に悲喜こもごもの魅惑的な上演がすでにある。あとは私たちがその観客となるだけである。
チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』/『消しゴム森』
『消しゴム山』[KYOTO EXPERIMENT 2019 参加作品]
会期:2019年10月5日(土)、6日(日)
会場:ロームシアター京都(京都府京都市左京区岡崎最勝寺町13)
『消しゴム森』
会期(仮):2020年2月7日(金)〜16日(日)
会場:金沢21世紀美術館 展示室7〜12、14 ほか(石川県金沢市広坂1-2-1)
公式サイト:https://chelfitsch.net/activity/2019/07/post-17.html